窓からは心地好い春風が舞い込み、緩やかにまどろみを誘う。
見慣れた教室のいつもの席で欠伸をしながら、蓬莱寺はこれが夢だと断じた。
春のようにさざめく女生徒の質問に、転校生が無表情に答える。「あだ名は?」と訊かれ、考えもせずに「特にない」と即答したその男にも、蓬莱寺は見憶えがあった。
そういえば、どうしてこの男をあんな気の抜けるようなあだ名で呼ぶようになったのかと、不思議な気持ちになる。この時にはまだ予感すらなかった。ただ退屈と焦燥。蓬莱寺にあったのは、それだけだった。あの男に会うまでは。
昼休みになって、美里と桜井がそわそわと落ち着かない様子で転校生に話しかけていた。なんだか懐かしい。
背後では、目付きの悪い級友たちが嫉妬を隠しもせず彼を見詰めている。莫迦な奴らだ。胸中で蔑むと、苦い味が口いっぱいに広がった。最期まで、彼は愚かだった。悲しむのではなく、蓬莱寺は思う。愚かしくとも進むしかないと決する気持ちが、蓬莱寺にはよく理解できたから。
不穏な気配に気付いているのかいないのか、転校生は一分たりとも表情を動かさずに教室を出て行った。気付いているはずだと、蓬莱寺もそのあとを追う。
しばらく転校生の背を追って廊下を歩いていると、不意に彼が立ち止まった。振り向きもせずに「何か用か」と問われ、思わず右手の得物を強く握る。早く振り向いてこちらを見ろと、訳も分からず鼓動が速まった。
どうやら悪い夢ではないようだ。あの日の彼に再び会えたと、ただ心が緩やかに微笑む。
「別に、用って訳じゃねぇけどさ」
「そうか」
短く言い捨てて再び歩き出した背中を、今度は黙って見送った。
目覚めたら彼に話してやろう。お前はあの頃と何も変わっていないと言って、からかってやろう。ぼんやりと、蓬莱寺は廊下に佇んでそんな事を考えた。
学生だった時分を懐かしんで午後の授業に出るのも悪くないが、どうせなら、と蓬莱寺は裏庭に向かった。
見憶えのある巨木を見上げ、忘れられない記憶が表層に浮かび上がるのを眺める。今では気恥ずかしいほどに、彼も自分も必死だった。
久し振りに登ってみるかと、枝に手を伸ばす。
ここは逃げ場だったのだと、不意に思い出した。教室から、授業から、世界から、自身から、逃げて来ては取り留めのない夢を見た。羊水でまどろんでいた最後の記憶。彼がこの木の下に立った時、蓬莱寺は淡いまどろみの世界から脱したのだ。
春の日に目を細めつつ浮かぶ思いをもてあそんでいると、眼下で声がした。
気に入らねぇ、ぶっ潰してやる。不穏な言葉がいつくか耳に入り、嘲笑してやろうと思ったがそれは不可能だった。
相手の力量を見極められない愚鈍な男は、あの日の自分でもある。あの男の前に立ったか、横に立ったか、彼らと蓬莱寺の違いはそれだけだ。そして、たったそれだけが道を別けた。敗北して惨めに堕ちていったのは、ともすれば自分だったかも知れない。あの男の背を預かっていたのは、もしかしたら。
蓬莱寺は、今でも運命など信じていない。ただ、彼は死んで、自分は生き残った。あまりにも残酷だと、今更に思うのだ。身勝手ながら。
誰かが大声であの男の名を呼んだ。どうやら、ようやく登場したらしい。
ここで蓬莱寺が参戦すれば、まさにあの日の再現だ。少しばかり思案して、蓬莱寺は傍観を決め込む事にした。あの日も、ただ相手を打ち負かすだけならば、あの男は助けなど必要としていなかった。
花の間から見える喧嘩は、予想どおり一方的なものだった。
流れるような体捌きで級友の拳を避け、今はまだ奇妙な転校生でしかない男が、冷ややかな表情のまま掌をかざす。ふ、と柔らかくその手が触れただけで、今まさに殴りかかった男が吹き飛んで転がった。蓬莱寺も、今でこそそれが技術であると知っているが、当時は異能なのかと疑ったものだ。
今ならば、見切れるだろうか。ふと、蓬莱寺の胸にそんな思いがよぎった。よぎったら、もう駄目だった。
音を立てて地上に飛び降り、地面に転がる級友たちを足でどかす。そうしてから、蓬莱寺は殊更にゆっくりと得物を掲げて見せた。
先程から傍観者の存在に気付いていただろうその男は、やはり驚きもせず、また一瞥すらしなかった。くるりと背を向けて歩き出した男に、ちょっと待てと声を投げる。ついでに上げた切先でその肩を突付くと、彼はやっと振り向き、鬱陶しいと無音で主張しながらも口を開いた。
「用はないんだろう」
「用なら今できた」
無礼な切先を叩き落し、男が向きなおる。正面から見据えられて、蓬莱寺は頬が緩むのを自覚した。
若いな、と呟きそうになって、慌てて押しとどめる。未だ少年の面影を残すその頬が、なんだか妙に幼く見えたのだ。馴染んだしかつめ顔も、子供が大人の真似をしているようで、どこか微笑ましい。威圧的だと感じた凛とした立ち姿さえ、若い苗木の清々しさを連想させる。
要するに、ちょっと可愛いなどと思ってしまったのだ。もちろん、懐かしいというのもあったのだが。
挑発しておきながら頬を緩めた蓬莱寺に、彼は眼光を鋭くした。蓬莱寺が慌てて気を取りなおして、得物を構える。男が一瞬だけ目を見張った。
察したのだろう。眼前に立ち、不適に笑う男が、どれほどの修羅場をくぐってきたのかを。それでこそ、と声には出さず蓬莱寺が口火を切る。
振り上げる事はせず、最小の動きで喉を狙い切っ先を突き出す。彼の黒い瞳が燃え立った。
初撃を躱し、男が跳びすさる。蓬莱寺がそれを追って更に踏み込んだ。一息に間合いを詰め、今度は足を薙ぐ。予想どおり、男が跳んだ。透かさず蓬莱寺の発した鬼剄が、真正面からその胸を打った。
見開かれた瞳は、苦痛よりも屈辱の色を宿している。ぞくりと、蓬莱寺の背筋を悪寒に似た快感が走った。あの男が、燃え上がるような瞳で見詰めてくる。それだけで、蓬莱寺の心に歓喜が流れ込んだ。空洞に流れ込む甘水が、しかし淵まで満ちるより早く、空洞は更に大きく口を開ける。つまり、この程度では満足できない。
地面に膝を付いたその肩に、一寸のためらいもなく木刀を振り下ろす。這いつくばってそれを躱したしなやかな背中に、届きはしないと分かっていたが薄い微笑みを投げた。
立ち上がって身構えるのを待ちながら、彼の心を想像する。
かつては、蓬莱寺も信じていた。彼は敗北を知らず、屈辱も知らず、ただ勝利と誇りだけを両手に持って生きてきたのだと。愚かしい妄言だ。その恐ろしいまでに鋭く研磨された眼差しが、すべてを証明している。敗北を知らぬ者が、あのような瞳を持つなど有り得ない。彼は非力な自分を憎む、ただの矮小な男だ。
蓬莱寺が自分を待っていたのだと理解して、男の拳が小さく音を立てた。裸の掌に深く食い込んだ爪を思う。短く切りそろえられた爪は、皮膚こそ裂きはしないが、心が切り裂かれているのは容易に知れた。凶暴な瞳の奥で、ちらちらと揺れるのは恐怖だろうか。それとも凄まじい怒りだろうか。きっとその両方だ。
呼気が聞こえる。氣が一点に収斂してゆくのが察せられる。その中心に、彼がいる。途方もないと、かつては思っていた。
左足を踏み出し、次に右足、と思考した訳ではないが、体はそのように動く。左肘を絞り、右腕を捻る。同様に、意識の外でその動作は行われる。冴え渡る意識は、ただ一点だけを捉えていればいい。
突き出した切先が、するりと流された。それを引き戻す事はせず、流れるままに身を投げる。無理に引いていれば、木刀は絡め取られていただろう。
彼のそんな手際にも、浅ましいこの心は嫉妬する。自分ではない誰かの刃が、彼にその手段を教えたのだ。身体の各がその務めを果たすがごとく、それは意識の外で行われるのだと、いつだったか彼が語った。その境地に至る道を思う。彼がどんな獣よりも美しいと感じるのは、こんな瞬間だ。
瞬く間に懐に入られて、跳びすさる余裕もなく膨大な氣が間近で炸裂する音を聞く。同質の氣でそれを相殺して、ついでに肘を見舞う。得物は接近しすぎていたので使えなかったのだが、彼には効果的だったようだ。黒い瞳が驚きに見開かれたのが見えて、こらえきれずに少しだけ口角を上げる。途端に不機嫌になる双眸が、なんだかとても幼く見えた。
「びっくりしたか?」
「・・・別に」
「俺は剣道者だけど、剣だけって訳じゃねぇんだぜ」
「らしいな」
「使えるもんは、なんでも使う。基本だろ?」
悔しそうに唇を噛んで顔を逸らす姿が、記憶にある彼の横顔そのもので、蓬莱寺の笑みが深くなる。反比例して、彼は更に機嫌を傾かせているようだ。振り切るように一瞬だけ目を閉じて、一呼吸の間に再び闘う姿になった。
一見して無防備にも見えるその構えが何を意味するか、蓬莱寺は知っていた。
「おもしれぇ、やってみろよ」
「お前は、俺を知ってるのか」
「ああ、知ってるよ」
「どうして」
「さあな。でも、知ってるんだ」
「そうか」
頷く彼に、すがりつきたいような気分になった。さすがに驚かれるどころの騒ぎでは済まないだろうから、どうにか自制して木刀を構える。
まさか伝わるとは思わなかった。この心、想いのすべて、まさか彼に伝わるなんて。
「名前は?」
「蓬莱寺京一」
「俺は」
「知ってる」
「ああ、そうだったな」
本当は弱い事も、実は意外と抜けてる事も、わがままなのも、分からず屋なのも、負けず嫌いなのも、知ってる。
だから、俺には負けてもいいんだ。全力で来い。受け止めてやるから。お前が負けたって、俺もお前も何も変わらない。
あ、でも、ちょっとぐらいは手加減して欲しいってゆーか、ええと、ごめん、なんでもない。
いいぜ、かかってきな!
そういえば、彼は以前、奇妙な事を言っていた。比良坂は、本当は死んでいたのだと。過去に戻り、歴史を変えて、そうしてあの人は今ここに立っているのだと、そんな事を。
ここはもしかして、彼が言っていた、その場所なのか。
まっすぐに自分を貫く瞳に、危うく涙が零れそうになった。その名を呟きそうになって、慌てて口を閉じる。
この夢が覚めたら、再び彼に出会えるだろうか。
何も残さず逝ってしまった薄情な彼に、もう一度。
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