彼は音信不通のまま行方をくらまして、皆守が忘れた頃、思い出したように現れた。決死の夜など夢だったように、ひょいと窓枠に足を掛けて夜空を背に笑っていたのだ。皆守はこの夜が明けたら寮を出て、新しい生活を始める。そんな春の夜だった。
「俺もう行くよ」
「部屋に入るなら靴を脱げ」
「入らない」
「ならいい」
「ねえ皆守」
「あれはお前にやったんだ」
「ああ、カレー鍋?」
「捨てるなら自分で捨てろ」
「できなかった。ねえ皆守」
「俺はお前なんか待ってなかった」
「だろうね」
精一杯の強がりは、しかし功を奏さずさらりと流された。誰かが自分を待っているなどと、きっと彼は想像もしていないのだろう。全ては流れ去るのだと、ただ無邪気に信じている。自分を前提にした帰納的思考法に基づき、その誤解は導き出されたに違いない。要するに、葉佩は誰にも期待などしていない。だから、誰かが自分に期待するなどと有り得ないと、そう考えている。
彼の立つ場所が安息の地ではないと、そんな事は知っていた。
確かに知っていたはずなのに、皆守は今、彼と同じ地を踏んでいる。眼前には見慣れたキッチンがあり、テーブルがあり、椅子がある。風呂上りとおぼしき葉佩の姿もある。記憶が確かならば、この部屋は皆守の部屋で、皆守は一人暮らしだ。どういう訳だろう。記憶が不確かなのか、そうかそれなら仕方ないな。寝起きの頭でそんな諦観を導き出した皆守に、葉佩がどこか空々しい挨拶を投げる。
「おはよう皆守」
「お前、ええと、アラスカじゃなかったのか」
「俺はアラスカじゃないよ」
「そうだな」
「うん、玉子はどうする?」
「たまご?」
「オムレツでいい?俺オムレツな気分だからオムレツにするよ」
「カレーで頼む」
「よっしゃ任せろ」
まるで会話のように双方が言葉を発したが、これは果たして会話なのだろうか。まだ80%ほどは夢の中にいる皆守が、何故かキッチンに立っている葉佩に焦点を合わせようとして途中で諦めた。まずは顔を洗うべきだと判断した訳ではないが、惰性で洗面所に向かう。冷水で寝汗を流し、どうにか50%ほどは現実に戻ってきた皆守を待っていたのは二人分の朝食だった。
テーブルの真ん中では、ケチャップで『カレー』と記されたオムレツが鎮座している。もしあの時「目玉焼き」と答えていたら、ここに記されたのは『目玉焼き』という単語だったのだろうか。見慣れた自室の見慣れたテーブルに着く事も忘れて、皆守はぼんやりとこの非常識的な風景を視界に入れたまま立ち尽くした。
「シャツにアイロンかけといたぜ!」
「・・・へえ」
「あ、コーヒー飲むだろ?」
「・・・飲むけど」
「そうだ忘れてた、これお土産」
「・・・なんだこれ」
「持ってると災厄を防いでくれたりくれなかったりする石」
「いらん」
「俺さー、これ持ってたお陰で事故っても死ななかったんだ」
「事故った時点で災厄じゃないのか?」
「・・・お前、あったまイイな!」
「うん、まあ、お前よりはな」
葉佩の手の中で、災厄を防いだり防がなかったりする石が朝日を反射してきらきらと光る。休日は寝倒すと決めていたのに。溜息を吐き出し、皆守は椅子に座った。
皿にはみずみずしい野菜が色鮮やかに盛られているのだが、皆守の記憶では昨日までこの部屋にそのような物は存在していなかった。そういえば玉子を買った憶えもない。眼前にある魅力的な朝食がどのような素材で作られているのか。その疑問に、皆守はようやく思い至った。危うく手をつけそうになっていたオムレツからフォークを離し、飲んでしまったコーヒーについては考える事を自分に禁じて、指先で石を突付く葉佩に視線を合わせた。
「アラスカは来週から」
「そうか」
「たぶん長期になると思う」
「ほお」
「有能なバディが必要なんだ」
「ふうん」
「皆守」
なんの因果かと思い返すもの面倒臭いが、ここ数年は嵐に呑まれたかのように目まぐるしかった。国名すら聞いた事もないような国の奥地に眠る、黴と怨念の渦巻く遺跡に身を投じ、ちょっと躁鬱の気があるコミュニケーション能力の足りない《宝探し屋》のバディとして、異形に蹴りを入れたり突っ走る背中に蹴りを入れたり合間にアロマを吸ったりカレーを作ったりと、兎にも角にも慌ただしかった。止まっていた時間が急に流れ出したようだ。
疲れを知らないのか止まったら死ぬのかは分からないが、常に動き続ける《宝探し屋》に引きずり回されて、気づけばその筋では知らぬ者のいない有能なバディとして名を馳せていた。この現状が本意だったかすら、もう思い出せない。
ただ一つだけ、皆守は確信している。後悔だけはしていないと、この心は誇るのだ。彼の背中を守るのは、世界で唯一この身だけなのだと。
「頼んだぜ、相棒」
どこかで間違ってしまったとしか考えられない。平穏な生活より、明日をも知れぬ闇を選ぶなどと。
自分を心の奥で嘲りながら、皆守は適正と考えられる額の報酬を要求した。以前なら想像もつかなかった額だが、葉佩は「たけーよ」と言って笑っただけだった。「格安だ」と言って残っていたコーヒーを喉に流し込むと、違いないと葉佩は嬉しそうに頬を歪める。正常ではない笑みだと感じたが、心は痛いほどざわめいた。
どうかしている。休日の朝っぱらから部屋に侵入されて、シャワーまで無断で使用され、正体不明の朝食を知らぬ間に用意され、闇へと誘われて昂揚している。病んでしまったのだと感染源である男に視線を流せば、朝っぱらから盛るなよ、とやけに常識的な言葉が返ってきた。嬉しいんだろう、とは言わないでおいた。それはそのまま自分にも跳ね返ってくる揶揄だ。
そんな訳で、皆守は今も闇の中で薄明かりを頼りに彼の背中を見ていた。壁を注視する葉佩は、皆守など存在しないように振舞う。独り言を呟き、H.A.N.Tを確認しながら正しく扉を開き、道を進む。
音もなく現れた異形に仮初の死を与えるのは、主に皆守の役目だ。生物を殺傷しているような錯覚は、病んだ心を心地好く刺激した。打ち抜き、叩き潰し、返り血を浴びて薄く笑う皆守を、冷めた瞳で葉佩が見詰める。狂ってんなお前、と背後で発せられた声に、お前もだろうと引き攣った笑みのまま返すと、葉佩は銃のグリップで鼻先まで迫っていた異形の側頭部をぶん殴った。溢れるほどの喜びを、葉佩は往々にしてそのように表現する。伝える為の感情表現が苦手なのはお互い様だ。脳漿のような血液のような液体が飛び散って、葉佩と周囲の床を赤黒く染める。
歌うように叫びながら、葉佩が扉の奥に待ち構えていた化人に突っ込んだ。負けじと走り、葉佩より早く到達して左足を振り上げる。ほぼ同時に銃声が空間を震動させ、そこに異形の断末魔が混じった。
葉佩がライフルを担いで笑う。
「とどめは俺だったね」
「抜かせ。俺が動きを止めてやったからだろう」
「ここまで来たのは俺だぜ」
「俺がいなかったら3回は死んでたけどな」
「邪魔したのはその倍だけどね」
「お前がトロいからだ」
血まみれのまま笑い合い、戯れに拳をぶつけ合った。
異形が守っていた扉を開き、葉佩が更に暗い深奥へと足を踏み出す。ためらいは見えない。そんな心は、遥か昔に失ってしまった。取り戻したいとも思わない。
清浄な祈りの間を血と硝煙と暴力で汚し、皆守はかつて自分が守っていた場所をふと思い出した。隔絶された永遠の静寂。連綿と受け継がれた誓約。息をひそめ、心を殺し、この身を鍵として閉ざした扉。なんて滑稽な姿だ。葉佩が嘲笑った気持ちを、今なら理解できる。
「ねえ皆守」
「ん?」
「お前って変態だよな」
「お前ほどじゃない」
「俺は変態じゃないよ」
「自覚なしか」
「俺が変態だったら皆守はド変態だね」
「褒めても何も出ないぞ」
「なんか出せよ」
「分かった出してやる」
「待て!それは出すな!人として!」
「そんなに喜ばれるとは思わなかった」
「いいから仕舞え!ド変態!」
ちょっと涙目で罵られて、葉佩に向けていたタクティカルランチャーの銃口をほんの少しだけずらしてトリガーを引いた。葉佩の背後、薄暗い部屋の壁際に立っていた青白い顔の人間が、消し飛んだ頭部を瞬時に再生して何事もなかったように起き上がる。
「なあ葉佩」
「おう」
「こんなおもちゃより、俺の方が頼りになるだろ?」
「んー、どうかな?」
「素直に認めろ」
「お前ってよく暴発するしなー」
「見てろ、証明してやる」
この遺跡を守るのは異形だけではない。虚ろな目をした人間が要所に立ち塞がった。それを打ち抜く自慢の左足は、遺伝子に組み込まれた異能だ。あの呪わしくも莫迦げた《學園》に感謝したくなる。こんなにも救いようのない世界に、俺を産み落としてくれてありがとう。
あの《學園》が存在しなかったら、こんなにも生きられはしなかった。彼の隣になど立てなかった。地べたを這いずって進む事もなかった。泥濘に身を浸し、星を見上げて泣きたくなる事もなかった。破壊された自分ではない者を見て安堵する事もなかった。心臓が軋むほどの悦びも、きっと知らずに死んでいた。
呪わしい、おぞましい、俺を産み育てた故郷。紛い物の常闇。今、あの場所とあの人をこんなにも懐かしく思う。
砕けた人間の血を浴びて、葉佩が幸福そうに笑った。それに笑い返す事はせず、皆守はアロマを取り出して火を点けた。
「皆守、疲れた?」
「いや、まだ行ける」
「うわお!絶倫!」
「お前、足が変な方に曲がってるぞ」
「歩けば治るよ」
「じゃあ行くか」
「おうよ」
そうして踏み出した瞬間に、残忍なトラップが発動するかも知れない。強大な化人が襲ってくるかも知れない。次に脳漿をぶちまけるのは自分たちかも知れない。相棒だと思っていた男が突如として裏切るかも知れない。裏切らずとも狂うかも知れない。
それでいい。闇に呑まれた名もない男が、誰にも知られず死ぬだけだ。
次の休日は、南の島で過ごそう。
明日が来るなどと信じていないが声には出さずにそう呟いて、皆守は闇に向かって走り出した。
|