冬用のコートをクロゼットの奥から引きずり出した。約一年ぶりに袖を通した上着は、少し見ないうちに色褪せたような気がする。買った当時の色を思い出そうとして、少し考えても思い出せなかったので諦めた。初めからこんな色だったのかも知れない。
 気に入っていた大きなポケットに手を突っ込み、指先に触れた何かにふと嫌な予感がよぎった。恐る恐る取り出してみたそれは、約一年前の飴玉だった。最早、飴『玉』ではなくなっている。感触は硬いが、何度も溶けては固まっただろう事を容易に想像させる形状だ。勿体無いと一瞬だけ思ったが、それを口に入れる勇気はない。それは勇気ではなく、命知らずと言うべきだろう。まあ、飴玉一つで死ぬ事もないとは思うが。
 それを入手した時の事を、夷澤は今でも思い出せる。












「夷澤、こっちおいでー」
「なんでっすか?」
「行かない方がいいぞ」
「なんもしねぇって」
「いや、あんたに近づく事で俺にどんな利益が」
「お前の予感は正しい」
「ほら飴あげるから、こっちおいでー」

 夷澤は逃げ出した。
 しかし回り込まれた。

「大丈夫、怖くないよ」
「その表情が既に怖いんすけど!」
「痛くしないから、ね、俺に任せて」
「そういう台詞は皆守先輩にでも言ってあげてください!」
「おい、こっちに話を振るな」

早くも数歩の距離を置いていた皆守が、さも迷惑そうに顔をしかめる。そちらに視線を流した隙に、葉佩がふっと身を沈めた。膝裏をすくわれて、崩れたバランスを立て直そうと肩を揺らす。その肩を軽く押されて、夷澤は床に突っ伏した。透かさず乗り上げてきた葉佩が、屈辱に握り締められた拳に、やけに優しく触れる。手首をひねり上げられ、堪らず開いた手に黄色い紙に包まれた物体が押し付けられた。

「受け取ったな!」
「あんたが押し付けたんでしょうが!」
「これで俺の誘いを断る権利は永久に消え去った!」
「永久に!?」

そうして闇の底まで連行されて、楽しそうに化人を虐殺する葉佩の背中を追うはめになったのだ。隣でゆらゆらしている皆守は、確かめた訳ではないがカレーで拒否権を売り渡したのだろう。












 かつては飴玉だった物体を手の平に乗せたまま怒涛のような追憶に襲われた夷澤は、ためらわずそれをゴミ箱に放り投げた。かつては飴玉だった物体が縁に当たって跳ね返り、床に転がる。往生際が悪いぞ、と声に出さずに凄みはしたが、歩み寄って拾い上げるのも億劫で、そのまま部屋を出た。

 空を見上げるようになったのは、いつからだったか。以前は、上など見なかった。空が晴れてようが曇っていようが、全く気にならなかった。空を見上げてはその色を口にした人を思い出し、自分の変化がその男の影響である事を認めた。
 切るように硬い風が髪を掻き混ぜてゆく。きんと冷えた空気が胸に染み込んで、少しだけ涙が滲んだ。星が無音でざわめいているように錯覚する。彼が歌うように星の名を口にしながらこの道を歩いたのは、暮れも押し迫った頃だった。












「寒いよ夷澤!」
「俺が寒いみたいに言わないでください」
「お前も寒いけど、俺も寒いんだよ」
「そりゃ奇遇っすね」
「だよなー!ふっしぎー!」
「一番不思議なのはあんたの頭っすけどね」
「俺は、お前のその鉄壁の前髪も不思議だな」
「だってそれが俺のチャームポイントっすから」
「あと、絶対にズレない眼鏡も」
「実はこれ、眼鏡じゃないんすよ」
「ま、まさか、あの、あれじゃ、ねぇよな?」
「あれです」
「なんだとぉ!」

結局、彼の言う「あれ」がなんなのかは分からなかった。しかし今になって取り立てて知りたいとも思わないので問題はない。生きる上で、彼の発言はほとんど意味不明なままで問題ない。ほんの時折、分かりすぎるほど分かってしまう発言もあるのだが、それはさておく。

「ん?皆守は?」
「え、あれ、さっきまでそこにいましたよ?」
「いねーよ」
「ほんとだ」
「寝ちゃったのかな」
「歩きながら!?」
「あいつの一日を円グラフで表してみようか」
「え、それ今じゃなきゃ駄目っすか?」
「こうなる」

葉佩は小石を拾い上げて道にいびつな円を描き、1/4ほどを塗り潰そうとしたが途中で面倒になって数本の斜線を引き、そこにカレーと記して、そうしてからしゃがみ込んだまま頭を抱えて「悲しくなってきた」とささやいた。残る3/4が睡眠なのだろう。彼の生活に立ち入るべき隙を見出せなかった事が、葉佩の精神を深く傷つけたようだ。
 この人は何がしたいのかと考えるのはそもそも無意味だと夷澤はもう悟っているので、来た道を少し戻ってベンチに横たわる皆守を発見した。

「皆守先輩!」
「んー?」
「そんなとこで寝てたら風邪引きますよ!」
「つーかこの季節、下手すると死ぬよね」
「るっせぇな、俺が死のうと生きようとお前には関係ねぇだろ」
「寂しいっすよそれ!もっとこう、あの、あれ、分かち合いましょうよ!」
「そうだよ!皆守が死んだら俺、悲しいような気がしなくもない!」
「お前が悲しくても、俺にはなんの影響もない」
「起きてぇ!カレーあげるから起きて!」
「そうだな、俺にはまだカレーがあったな」
「ねえ夷澤、俺これ喜ぶべきかな?」
「それで喜ぼうと思えば喜べるあんたがちょっと羨ましいっす」

カレーにつられてのろのろと起き上がった皆守は、どうやらアロマが切れたので動かなくなったらしい。そうか、あのいつも銜えていた重そうなパイプは充電器だったのか。












 うっかり納得しそうになった過去の自分が、どうしようもなく毒されていたのだと自覚する。あれから一年が経ち、少しは毒も抜けただろうか。それとも、今でもあの毒は少しずつ体を冒しているのだろうか。こんな静かな夜に、あの男を思い出してあまつさえ懐かしい気持ちになっている事を鑑みると、後者の確立が高そうだ。吐き出した息が、鼻先で白くたゆたう。

 この場所は、もう墓地ではない。靴底で柔らかい土を踏みながら、ぼんやりと考える。この下には何もない。封じるべきものも、補佐すべき人も、打ち倒すと決めた相手も。今この足元にあるのは、縦横無尽に新宿の地下を走る無数の隧道だけだ。下水道や地下鉄などに影響はないのだろうか。












 寮から人気がなくなる正月休みに、帰郷しなかった皆守がふと呟いた。

「お前は何を捧げたんだ?」
「は?」
「魂とかって、人によって違うんだろ」
「ああ、あれか」
「取り戻してよかったと思ったか?」
「まあ、ないよりはあった方がいいかなって」
「何を捧げたんだ?」
「スニーカーでした」
「?」
「俺、こう見えて努力家なんすよ」
「へえ、知らなかった」
「地道な努力って大事っすよね」
「ほお」
「そんな感じの魂でした」
「雑草魂ってやつか」
「もうちょっと歯に衣着せてください」

上がった不満の声には応えず、皆守はふうんと息を吐き出して一人で納得の仕草を見せた。そんなもんでよかったのか、と呟いた声は、後悔すら追いつけない虚無に満ちている。夷澤が同じ質問を投げ返す前に、皆守は腰を上げて自室へと戻っていった。












 何もかも好き放題に壊し尽くして去って行った《宝探し屋》を憎んだのは、その時が初めてだったような気がする。それまでは、侵入者としての彼を排除する意思を持ちつつも、彼自身に憎しみを感じる事はなかった。むしろ、道化の顔で痛みを隠す彼の背中を見てからは、助けてやりたいと思っていた。

 夜空を見上げ、星を睨む。あの夜は曇っていたので、星は見えなかった。それどころではなかったから、見えていても記憶には残らなかっただろうが。
 ざわざわとうごめく星々に、我知らず怨嗟の眼差しを向ける。どうせ届かないだろうと、分かってはいたけれど。
 星のささやきだけが響くかつては墓地だった場所で、ゴトリと何かが鳴った。思わず息を呑み、上がった心拍数を抑えつける。続けて聞こえてきたのは、疲れていても嬉しそうな男の声。

「あ、外だ!脱出できたよ皆守!」
「早く出ろ、つっかえてんだよ」
「うわさむっ!あ、夷澤だ、久し振りー」
「こんな所に繋がってたのか」
「ん?あれ?夷澤?」
「しょうがない、戻るぞ葉佩」
「え、なんで?」
「他の出口を探す」
「だからなんで」
「邪魔したな、夷澤」
「あ、夷澤!そのうち連絡するから、また遊ぼうな!」

いかなる動作も起こせずにいた夷澤の前で墓石が開き、二人が薄汚れた顔を出して、何事か矢継ぎ早に言い放ち、また墓穴に消えてゆく。それを、夷澤はただ見ていた。
 どうやら二人は相変わらずのようだ。

 部屋に戻り、床に転がった飴玉を拾い上げた。今度こそ、ゴミ箱に入れる。これで拒否権は復活する筈だ。
 落ちた飴玉は、空だったその中でコツンと鳴った。

 この冬が終われば、卒業だ。