皆守は動かなかった。葉佩ならば避けられると思ったからだ。浮遊する化人が狂喜するように空中を踊るのが見えても、皆守は動かなかった。葉佩が低く呻いて膝を付いても、皆守は動かなかった。
 八千穂が大声で葉佩の愛称を叫び、ようやく皆守は目を見開いた。駆け寄った八千穂の手を払い、葉佩がハンドグレネードのピンを引き抜いて放り投げる。その軌道をぼんやりと眺めながら、皆守はゆっくりと事態を把握した。

 泣きそうな声で名を呼ばれ、皆守はやっと重たい足を動かした。ぐったりと横たわる葉佩の上体を抱えて、八千穂が震えている。ピエタと題された宗教画が脳裡をよぎったのは一瞬で、皆守はすぐに我に返って、力なく投げ出された葉佩の脚を爪先で小突いた。
 葉佩が小さく声を漏らすと、八千穂はとうとう泣き出した。












 泣きじゃくる八千穂を宥めるのは諦めて、重たい葉佩を抱えて寮に戻った時には、皆守はもう一歩たりとも動きたくない状態だった。ベッドに葉佩を投げ出して、舌打ちをしてきびすを返し、ドアまで歩み寄ったところで、葉佩が小さくつぶやいた。

「皆守、ありがと」
「八千穂の事は自分でどうにかしろよ」
「やっちーには、ええと、明日ちゃんと謝るよ」
「気付かなかったとでも思ってんのか」
「ただの脳震盪だよ」
「じゃあそう言ってやれ」

 言い捨てて、ドアを閉める。予想どおり、ドアの前で待機していた八千穂が無言で見上げてきた。まだ目が赤い。目蓋も腫れている。すがるように、あるいは責めるように、濡れた目が何事か訴えているのだが、皆守にはそれを察する気力も能力もない。なので無言のまま横を通り抜けようとして、八千穂に腕を捕まれた。

「何しやがる」
「九チャン、どうだった?」
「聞いてたんだろ?」
「よく聞こえなかった」
「ただの脳震盪だとよ」
「うん、それは聞こえた」
「聞こえてんじゃねぇか、それで全部だ」
「うん」

 うなずき、そのまま視線を落とし、八千穂が唇を噛む。もういいだろうと殊更に眠たげな声で言うと、八千穂は否定も肯定もせずに、俯いたまま「おやすみ」とささやいた。

 避けられるはずの攻撃を避けなかったのは、背後に八千穂がいたからだ。












 翌朝、皆守が教室に到着した時には、すでに葉佩は沈んでいた。机に突っ伏したその背中からは、ありとあらゆる負の感情が立ちのぼっている。突っ伏したまま、葉佩が喋りだした。

「おはようございますおやすみなさい俺の事はほっといてください」
「うっとーしい」
「せめてヒナ先生の顔を見て癒されたいと思って教室に残ってる俺にこれ以上の追い討ちは可哀相だ」
「まだなんも言ってねぇ」
「やっちーは俺が守る」
「がんばれ」

 おざなりに返すと、葉佩は更に深く沈んでいった。断片的な言葉を繋ぎ合わせると、どうやら八千穂は、視線をそらしたまま「おはよう」と小さく告げて、逃げるように立ち去ったらしい。気まずいのは分かるが、八千穂にしては随分と消極的だ。

「泣いていいですか」
「別にいいけど」
「胸を貸してください」
「断る」
「腹でもいいよ」
「意味が分からない」
「皆守の腹で泣きたい」
「何が目的だ」
「やっちーを守りたい」
「そうか」
「でもやっちーは守られたくないんだ」
「それは、まあ、そうだろうな」
「そ、そうなの!?」

 葉佩が顔を上げた。さすがの葉佩も一晩で完治とまではいかなかったようで、額に巻かれた包帯には血が滲んでいる。八千穂はこれを直視できなかったのだろう。葉佩が守りたいと望む彼女は、自分の為に誰かが傷付いて、平然としていられる人間ではないのだ。

 昼休みになると、今度は八千穂が寄ってきた。お前らいい加減にしろよと言いたくなって、しかし言ったところで伝わらないのはもう分かっているので、せめて虚空に憐憫を乞う。
 遠い目をした皆守に、八千穂はいともたやすく難題を投げる。

「あたし、もう行かない方がいいのかな」
「なんで」
「だって、あたしがいると、九チャンが危なくなる」
「あいつが毎朝ここにいるのは、なんでだ」
「は?」
「あそこで自給自足できそうな勢いでゲットレしまくってるのに」
「あ、たしかに、その気になれば住めそうだよね」
「でもあいつは地上に戻ってくる」
「うん」
「なんでだ?」
「ええと、武器とか、補充したいから?」
「それもあるな」
「あとは、みんなに会いたいから、とか?」

 皆守は、あの男の狂気を知っている。放っておけば闇に混じってやがて帰れなくなるだろうという事を、知りたくもないのに知っている。葉佩が本当に望むのは、守る事ではない。あの狂人が望むのは、どこまでも深く潜っていって、誰も知らない最奥で、秘宝を抱いて死ぬ事だ。守るのも救うのも、彼の本意ではない。

 八千穂がいなければ、葉佩はきっと避けただろう。そうしてやはりハンドグレネードのピンを引き抜いて放り投げて、何事もなかったように進むのだろう。戻る道など必要とせず、退路など初めから存在しないように、ひたすらに進み続けるだろう。殺した化人を食い散らかして、銃弾が尽きればナイフを振りかざして、いつかその身体が動かなくなるまで。

「分かってんじゃねぇか、それで全部だ」

 八千穂がいるから、葉佩は生きて帰る。それは八千穂だけでなく、雛川でもあるし、取手でもあるし、またその中には自分も含まれているのだろうと、皆守は口元を歪ませて考える。
 今夜もあの男は潜るだろう。足手まといを引き連れて、死なないように気をつけながら、期せずして誰かを救ってみたりするのだろう。不本意ながら。

「今夜も行くらしいぞ、お前も行くだろ?」
「でも」
「お前のスマッシュはすでに主戦力だ」
「え、ほんと?」
「それと、葉佩には謝らせろ」
「え?」
「怪我したのはあいつの不注意だ」
「だけど、あたしがいたから怪我したんだよ」
「お前がいなきゃ地上まで戻れなかった」
「運んだのだって、あたしじゃなくて皆守クンだよ?」
「俺だけだったら間違いなく放置してた」

 少し笑って「嘘ばっかり」と言った八千穂は、きっと葉佩の狂気など知らない。そして、その狂気を理解してしまう皆守の胸中など知る由もない。

「お前も来い」
「・・・うん」
「あいつが死ぬ前に引きずり戻してやれ」

 どうかあの憐れな男が、自分の呼び名を憶えていられるように。