眼前に、遺跡の欠片というには大きすぎるほどの石が落ちてきた。どうせなら、脳天にでも落ちてきてくれれば良かったのに。
背中のぬくもりに身を預ける。大きな背中は、まだあたたかく息づいていた。せめて、この男より後に。この優しい男にこれ以上、死を見せたくない。だから、彼の死を見届けてから。ぼんやりと、思考というにはあまりに曖昧に、そんな言葉を浮かべた。
破壊の轟音の中、阿門がささやいた。どうして聞き取れたのか、皆守にも分からない。ただ、彼に名を呼ばれたのが、ひどく懐かしい気がした。遠く、二度と戻らぬ景色を思うように、目を閉じて耳を澄ます。
お前は、あの男とともに行くのだと思っていた。
吐息のようにひそやかに、耳に声が触れた。応える言葉も見当たらなくて、皆守は目を閉じたまま続く声が耳に触れるのを待つ。彼の声は深く暗くあたたかく、聞こえると全身を毛布でくるんだような心地がした。ずっと守られていたのだと、自覚しないほどに皆守は愚かではなかった。
あの男ならば、お前を助けられる。
自分はそんなに頼りないのか、と、自嘲ぎみに皆守は思う。できる事なら、守ってやりたかった。もういいと言ってやりたかった。お前がここで死んでも、何も変わらない。だから、こんな事に命を懸けるのは無意味だ。早く諦めてここから出て行け。英雄になりたいのなら、他をあたれ。ずっと言いたかった。誰かを守る手段など、皆守は持たない。
こんなのも、悪くないさ。
崩壊の音を聞きながら、皆守は本心からそう言った。無為だと嘆きながらも浅ましく永らえた命が、この時の為だったのなら。孤独な友人に、最期だけでも寄り添えたのなら、それはきっと無為ではない。ならば、悪くない。
ああ、悪くない。返事はなかったがひとり頷いて、繰り返す。悪くないどころか、もしかしたら最高かも知れない。広い背中にもたれ、皆守は声もなく笑った。
すまなかった。謝るなよ。まるで静寂の中にいるように、ひっそりと言葉を交わす。
言っただろう、悪くないって。俺もお前も、あいつだって、悪くない。それが声だったのか、あるいは思っただけなのか、皆守には判ぜられなかった。それなのに、伝わっていると確信する。
遺跡がひときわ大きく揺れた。最期の瞬間が同時だったらいいと、皆守は夢見るように考える。そうしてから、何故か葉佩を思い出した。
微笑んで手を振ったら、まるで傷付いたような顔をした。少しだけ、胸がすいた。英雄気取りの《宝探し屋》。手に入れられないものなどない。だって俺は《宝探し屋》だから。狂気に似たその確信は、時々ひどく皆守を苛立たせた。絶望を知らないその心に、屈辱と悔恨を刻んでやりたい。今になって理解したそれは、要するに八つ当たりだった。自分は持っていないから、持っている人が妬ましかった。それだけだ。
まあ、あいつなら大丈夫だろう。どうせすぐに忘れる。致命的ではない傷が、いつの間にか治るように。声には出していないつもりだったが、阿門が深い溜息をついた。本気でそう思っているのか?
皆守の心臓が、ぞくりと冷えた。
爆発音が響き渡り、毀れたナイフが頬をかすめた。思わず目を見開き、阿門のコートの裾を掴む。
葉佩が笑っていた。否、笑っているのではなく、牙を剥いていた。肩で息をしながら、血と汗と泥と埃とその他いろいろなもので汚れた葉佩が、皆守に向かって牙を剥いていた。
「やあ皆守、また会ったね!」
「お、おう、久し振り」
「まさかこんな所で会えるなんて!」
「ええと、あの、まあ落ち着け」
「すごい偶然だね、神様っているのかも!」
「そ、そうか?」
「ところで皆守!」
「なんだよ」
「覚悟はいいか?」
葉佩の背後には、崩壊を上回る爆破の跡があった。つまり、崩れゆく遺跡を爆破して、埋もれた二人まで到達したのだろう。なんの為に、などと口にするほど、皆守は愚かではなかった。葉佩の行動の理由を察したのではなく、この状態の葉佩に疑問を呈する愚を犯さなかった、という意味で。
皆守が、まだ掴んでいた阿門のコートをすがるように引き寄せる。その手を払う事はせず、阿門がゆっくりと向き直った。皆守を押しのけて、葉佩の前に立つ。葉佩が吠えた。
「お前は皆守の母ちゃんか!」
「男は母親にはなれん」
「なりてぇのかよ!」
「なりたくはない」
「だったら、そこどけよ!」
「それはできない」
「ま、まさか!」
「?」
「アイムユアファーザーとか言うんじゃねぇだろうな!」
「なんだそれは」
「すどりんがやっちーのファーザーってだけで衝撃だったのに!」
「そ、そうなのか?」
「阿門が俺のファーザーかよ!」
「いや、あの、まあ落ち着け」
「ってゆーかお前、朱堂のあれを信じてたのか」
呟いた皆守の声は、葉佩が起こした爆風に掻き消された。どうやら落ちてきた瓦礫を爆破したらしい。激昂しているようで、その動きはやけに冷静だ。戸惑う阿門をぎらりと睨み、その陰に隠れた皆守に手を伸ばした。袖を掴まれ、皆守が咄嗟にその手を払う。葉佩は一瞬だけ静止して、数秒前までの空回りっぷりが嘘のように抑えた口調で言った。
「てめぇら、俺の戦歴に傷付けといて、ただで済むと思ってんじゃねぇだろうな?」
「お前の戦歴など、俺の知った事ではない」
阿門の言葉は至極もっともだ。敵対していた相手の戦歴など、慮る道理はない。しかし葉佩に道理が通じない事を、皆守は嫌というほど知っていた。葉佩を動かすのは道理ではない。だからといって、理屈でも理論でもない。ではそれは何かと問われても、皆守には答える術がなかった。つまり、さっぱり分からない、というのが、皆守にとっての葉佩という存在だった。
さっぱり分からない存在が、怒気を湛えて睨んでくる。皆守は、この夜に初めて恐怖した。玄室で対峙した瞬間でさえ、この男が怖いとは思わなかった。氷のような眼差しに、皆守は今度こそはっきりと恐怖を自覚した。
「お、おい、葉佩」
「うるせぇ呼ぶな」
短く吐き捨て、葉佩が一度は拒絶された腕に再び手を伸ばした。振り払う隙も与えず、引き寄せて担ぎ上げる。皆守が裏返った声で何事か叫び、助けを求めて阿門に視線を向けた。阿門には、同時に銃口も向いていた。皆守が、恐怖も忘れて葉佩の背から怒鳴る。
「やめろ葉佩!」
「てめぇは黙ってろ」
「暴走しすぎだ、いい加減にしろ!」
「逃げられるとでも思ったか?」
道理も言葉も通じない葉佩に語りかけるのは諦めて、皆守は押さえつけられた腰をひねって重心を移動させた。葉佩が支えきれず手を放したので顔面から落ちそうになって、危うく手を付いて受身を取る。葉佩に掴まれた部位が熱い。物凄い力で拘束されていたようだ。
今の葉佩には、崩れ落ちる遺跡すら見えていなかった。ひとときも整わぬ呼吸で、それが唯一の救いであるかのように銃を握り締めている。眼前の男を真直ぐに見据え、憎悪と殺意だけをこめて、讒言のように怨嗟を繰り返す。
逃がすかよ、俺の獲物。俺を誰だと思ってやがる。俺は《宝探し屋》だ。
葉佩が正気ではないと、皆守はようやく察した。もともと狂気が常の男ではあったが、どうも今回は常にも増して迷惑な狂気だ。血を流しすぎたのだろうか。うつろな声で憎悪を吐き出し、しかし上げられた銃口はピタリと静止したまま、血の気の失せた頬を引き攣らせ、慟哭する。
阿門が、そっとその銃口に触れた。ガツンと音がして撃鉄が落ちたが、どうやら銃弾は撃ち尽くしていたらしい。空洞からは何も発射されなかった。発砲する直前を見計らってそれを蹴り落とそうと身構えていた皆守が、こっそり息をつく。
葉佩が表情を変えた。右手には拳銃を握り締めたまま、皆守を見上げる。
「ぜってぇ逃がさねぇ」
今にも泣き出しそうな顔だった。
崩壊した遺跡を見下ろし、八千穂は唇を噛んだ。
八千穂を担いで地上へと戻った葉佩は、「動くんじゃねぇぞ」と底冷えするような目で言い置き、その直後に再び地下へと走って行った。普段の葉佩なら、そのような物言いはしない。だが、八千穂は知っていた。正確には、なんとなく察していた。葉佩は、本当は優しくなどない。むしろ狭量で、卑屈で、とても暴力的だ。他者を気遣う余裕など、本当は持ち合わせていなかったのだろう。
ずっと肩を抱いていてくれた白岐に「ありがとう」と言って、身を離す。白岐の手は、すこしだけ虚空をさまよってから下ろされた。
結局、誰も救われなかった。みんな死んでしまった。止まらない涙を拭うのはやめて、流れるままに地面へと落とす。どうすればよかったのか、何がいけなかったのか、今の八千穂には分からない。後悔さえも間に合わず、ただ涙だけが無為に零れる。
地が揺れた。そう思った瞬間、綺麗な黒髪が鼻先でたなびいて揺れた。白岐が前に立ちはだかったのだと、少しの間をおいて認識する。続いて、視界が光に包まれた。守るように立つ白岐が光を受けて、まるで彼女が輝いているように見える。彼女が神の使いなら、きっとこんなに綺麗ではない。鈍痛のする頭で、八千穂はそんな事を考えた。
やがて光が収まって、咳き込む音が聞こえた。荒い息遣いと、小さく毒づく声。知っている声だ。気だるげで、冷たいのにどこか甘い。
「この野郎、あとで殴る」
「あとにしろ」
「だからあとでって言ってるだろ」
「その時は俺も呼べ」
「ああ、お前も殴るか?」
「いや、それだけでは済まさん」
それに応える陰気な声は、あまり馴染みのない声だった。白岐が、その名を呼ぶというよりも呆然と呟く。陥没した地面から這い出た二人の男がこちらを見て、すぐに気まずそうに目を逸らした。
皆守が、抱えていた物体を地面に落とす。それは血まみれの葉佩だった。まるで死体のようだが、小さく呻いて身じろいだのを、八千穂の目と耳が確と捉える。肩の荷を下ろした皆守が、八千穂に視線を向け、やはりすぐに逸らした。気まずいのだろう。それはそうだ。燃え上がるような怒りを感じて、胸が詰まった。
強く優しくありたいと願った友人は、この男に手酷く裏切られた。傷付いた葉佩を見て、皆守は微笑んだのだ。満足そうに、それはもう幸せそうに微笑んだのだ。握り締めた拳が震える。
この拳を、その顔面に叩き込んでやりたい。
いや、むしろスマッシュをぶち込んでやりたい。
それより何より、抱き締めたくてたまらない。
そのいずれも的確に表現する術を持たず、八千穂はただ泣きじゃくって、男たちが生還した事実を喜んだ。
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