緋勇が雄叫びを上げ、視界が光に包まれた。強大な黄龍の氣が空間を埋め尽くし、その直中にいた蓬莱寺の体をも取り込もうと激しく揺れ動く。
これが決戦なのだと、その場にいた誰もが考えていた。
呼び起こされた黄龍と、それを受け入れるべく存在する二つの器。その片方は、既に打ち砕いた。残った陽の器がその氣を受け入れ、支配すれば、それで全てが終わるのだと。
天を向き、確と両足を地に置いて、緋勇が黄龍に飲み込まれた。もしくは、その身を黄龍に捧げた。苦悶のような恍惚のような表情を浮かべ、緋勇が意識を手放す。その瞬間、蓬莱寺は腕を伸ばしていた。
砕かれる寸前の意識の端で、緋勇が瞳を揺らめかせる。茫洋と、何も映さない瞳で蓬莱寺を見る。それが耐えがたく恐ろしくて、蓬莱寺は辛うじて掴まえた腕にすがり付いた。ほぼ同時に、後ろから襟を掴まれて引っ張られた。緋勇に触れていた部分が焼け付くような痛みを発している事に、漸く気付く。引き離された緋勇の体が、既に人の形を成していない事にも気付いた。
それなのに、彼が微笑んでいるのだと分かった。
夢中で名を呼ぶ。もう届かないなどとは思わなかった。砕け散るように叫ぶ。
背後で誰かが、危ないと言った。これが彼の宿星なのだ、とも聞こえた。誰が言ったのかは分からない。自分自身の内側から発せられた声だったのかも知れない。
背後で誰かが悲鳴を上げている。それが自分の名前と同じ音だと察したが、振り向く理由にはならなかった。焼け爛れた腕を伸ばすと、強い力で引き戻された。離せと、彼に触れさせてくれと、泣きながら懇願した。
だって、そんなの知らなかった。
悪そうな奴をぶっ殺して、それで終わるのだと思っていた。黄龍というものはよく理解できなかったが、緋勇ならばそんなものには負けないと、ただ無邪気に信じていた。もし万が一にも負けそうになったら手助けしてやればいいのだと、朝が来る事を疑わぬように考えていた。
だって、誰も教えてくれなかった。
勝利を約束する言葉に、緩やかに、穏やかに頷いた彼が、本当は何を考えていたのかなんて、知ろうともしなかった。いとおしむように髪を撫でられた意味など、考えもしなかった。死ぬなよと言って珍しく優しげに目を細めた彼の気持ちなど、理解しようとも思わなかった。
だって、信じていたから。同じ心でいると、同じものを見ていると。
全ては幻だったのか。未来を語る自分の隣で、緋勇は終焉を見詰めていたというのか。
緋勇に走り寄ろうとして、痛いほど強く肩を引かれる。肩を掴んだその手も震えていたのだが、蓬莱寺は気付かなかった。自分を拘束するその手が、その時はただ憎かった。
空間に亀裂が走り、誰かがまた危険だと叫んだ。蓬莱寺の意思などまるで無視して、力強い手が胴に回される。そのまま持ち上げられ、浮いた爪先で無為に空を蹴った。身をよじり、ただ緋勇のもとへ行けない不満を喚き散らす。疲弊した体で為されたその行動は実のところ抵抗にもなっていなかったのだが、無様に泣きながら離せと繰り返し、慟哭のように緋勇の名を呼んだ。
夜明け前の静謐が満ちた空間に投げ出された時には、蓬莱寺は声も出ないほど疲れていた。まだ体を拘束していた腕が醍醐のものだったと察して、力なく払い除ける。顔を上げるほどの気力は残っていない。
不意に桜井の声が聞こえた。実際はずっと聞こえていたのだろうが、意識には至らなかったらしい。子供のような泣き声に、彼女も自分と同じように裏切られたのだと悟った。そんな風に感じる愚鈍が自分だけではなかったのだと、浅ましく安堵する。
言葉を発する者はいなかった。
短い静寂が寛永寺の境内に広がっていた。それが刹那の沈黙であると、頭ではなく体が察している。予想に違わず、程なくして薄闇が震動した。玉砂利を踏む音が、ざわめくように心臓を圧迫する。
最初に構えたのは如月だった。次に醍醐が腰を落し、お前は下がっていろと蓬莱寺に向かって囁く。てめぇだってボロボロじゃねぇか。そう返せば、お前よりはマシだ、と苛立ったように吐き捨てられた。違いない。
かつて緋勇だったものが、僅かに視線を流す。一瞬だけ目が合った、ように感じた。錯覚だろうか。空っぽの胸でそんな事を考えていたら、背後でキリ、と憶えのある音が鳴った。桜井の弓の弦が軋む音だ。鼻をすする音も同時に聞こえ、彼女も傷付いていたのだと思い出す。それでも立ち上がる彼女が、妬ましくて、とてもかなしい。
緋勇の形をした異形が揺らめく。閃光のように氣が空間を走る。異能の魔人達が、気圧されて低く呻いた。
真っ先に地を蹴ったのは、やはり如月だった。四神の役目を果たす時が来た。横顔でそう告げて、走り出す。同時に放たれた弾丸が、炎をまとって緋勇だったものに向かう。醍醐が、低く構えて獣のような唸り声を上げた。
蓬莱寺が、眼前の光景を理解できずに口を開ける。なんで、と発したつもりの声は、しかし空気を振動させる力も有してはいなかった。あの死闘のあとで、どこにこんな余力が。呆然と、場違いな疑問だけを胸中で転がす。
黄金の氣が、向かい風のように頬を打つ。美里がこらえきれず後方に吹き飛んだ。短い悲鳴だけが空間に残され、蓬莱寺の心臓を締め上げた。これは恐怖ではない。言い聞かせるように胸中で呟く。
これは怒りだ。緋勇に対する、世界に対する、己に対する、憤怒だ。
得物はどこかに落してしまったらしい。空の拳を握り締め、蓬莱寺は叫んだ。あの野郎の顔面に叩きつけるまで、この拳は絶対にほどかない。あいつが詫びるまで、絶対に許さない。否!泣いて謝ったって許してやんねぇ!
如月が、嫌になるほど冷静な声で止まれと叫ぶ。破壊してはいけない。封印しなければ、器はその意味を果たせない。
うるせぇと怒鳴り返す。意味なんて知るか。俺には関係ねぇ。やりたいようにやるだけだ。止められるもんなら止めてみやがれ。
この命、唯一の自分、誰にも支配などさせない。己を知るのは己だけだ。なあそうだろう?忘我の淵に身を投げた友人の名を、声で心で繰り返し呼ぶ。
お前は下がっていろと、醍醐が再び言った。人間のものではない咆哮がそれに混じっている。ああ、彼は白虎なのだと、絶望のように思う。黄龍を守護する獣。緋勇の肩を叩いた手が、今は彼を否定する目的で振り上げられる。人類では持て余すほど膨大な氣を鎮め、押し留める為の存在。
あいつは龍麻なんだぞ、と大声で叫ぶ。お前だって友達だっただろう。あいつが好きだっただろう。助けてやりたいと思っただろう。だが、声は轟音に掻き消されて何物にも届かず意味を失った。四神は獣と成り果て、残された異能の魔人達は我が身の非力を嘆いて地に伏している。
桜井が泣いていた。その腕に傷付いた美里を抱いている。弓は既に、その傍らに落ちていた。
拳を解かぬまま緋勇の形のものに向かって走り、しかし思わぬ方向から打撃を受けて転倒した。限界を超えて震えだした膝を叱咤して身を起こせば、最早よく知った友人ではない醍醐が見える。その視線が射抜くのは、ただ黄龍に身を捧げた器の成れの果て。受け入れるべきものを受け入れて、あとは静かに眠る運命の、かつて蓬莱寺の友人だった男。友人だったと、勝手に信じていた男。それを見詰める瞳もまた。
どうしちまったんだよ醍醐。ともすれば崩れ落ちそうな心で語り掛ける。頼れる親友は、蓬莱寺の声など聞こえていないように喉から咆哮を迸らせた。獣の声だった。共鳴するように、甲高い音が鼓膜をつんざく。朱雀のさえずりだと理解するほどの能力は、蓬莱寺に残されていなかった。
緋勇のように見える異形が、ゆらりと腕をかざした。反射的に防御態勢を取る。凄まじい氣が大気を震わせ、心までも砕き尽くす。折られまいと、必死で名を呼ぶ。届かないなどと、決して思わなかった。
名を呼ぶ。隣にいた男を思い浮かべる。凛とした立ち姿、強い眼差し、手の平のぬくもり、気高い声、花にかすむ背中、汗に濡れた頬、夕焼けを映した瞳、星を睨んだ横顔、全て記憶にある。負けるな。ここで負けやがったら許さねぇ。嗚咽にも似た無様な声で、それでも繰り返す。まだ、拳はほどかない。
四神が何事か叫んだ。皮膚に感じていた圧迫感が弱まる。訝しんで顔を上げれば、緋勇の形のものが天を仰いだまま直立していた。場を包んでいた黄金の氣が、ゆっくりと拡散してゆく。
どうやら、打ち克ったようだね。どこか誇らしげに、如月が呟いた。
何はさておき殴ると決めていた顔が、眠たげに瞬いて弛緩した。駆け寄ってその体を支えたのは、拳を握り締めていた蓬莱寺ではなく醍醐だった。倒れ込んだ体を受け止め、しかしその重さに耐え切れず膝を折り、玉砂利の上に突っ伏した。その横で、マリィとアランが拳を合わせて満面の笑みを浮かべている。
どうして彼等はそんなに晴れやかに笑っているのだろう。湧き上がった疑問を言葉に変換する前に、蓬莱寺は眼前の闇に身を投げた。
目覚めて最初に蓬莱寺が見た物は、いつものように天井だった。しかしいつもと違う天井だ。自室の物ではない。視線を転じ、窓を見る。朝ではないが、もう夜でもない。何故だかは自分でも分からなかったが胸を撫で下ろし、身を起こそうとして、そうしてから初めて自分が寝ているのが桜ヶ丘中央病院のベッドである事を認識した。
記憶を辿り、浮かび上がった映像が夢なのか現実なのか判断できず、我が身を見下ろす。その途端、激痛が走った。肋骨が折れている。憶えのある痛みだったので、すぐに思い当たった。両腕の包帯を見て、記憶が夢ではないと確信する。
体の内側から発せられる痛みに低く呻きながら、そっとベッドを降りる。素足で床を踏み、左の足首が腫れ上がっている事にも気付いた。湿布が当てられている。
呼吸の度に全身が痛むので、自然と呼吸が浅く、早くなる。自身の呼吸を聞きながら、蓬莱寺は部屋を出て無人の廊下を歩いた。
どうにかその場所に辿り着いた頃、蓬莱寺は既に一歩たりとも動きたくない状態だった。体が重い。痛い。膝が震える。呼吸が苦しい。壁に取りすがって歩を進め、その場所に立った。
眼前では、緋勇が眠っている。指先でその吐息に触れ、あたたかさに涙が滲んだ。腕を上げているのがつらかったので、そのまま緋勇の頬に手を置く。立っているのも億劫だったので、床に座り込む。近くなった緋勇の顔があまりに安らかで、訳も分からず腹が立った。ベッドの下に足を投げ出し、シーツに肘を付き、顎を乗せる。
早く起きろ。小声で言ってみたが、寝息は乱れもしなかった。痛みに呻きながら腕を上げ、再び頬に触れる。髪に触れ、額に触れ、耳に触れ、目蓋に触れ、鼻梁をなぞり、もう一度頬に触れ、唇に触れる。
ぜってぇ許さねぇから、早く起きろ。
呟くと、緋勇の目蓋が僅かに震えた。心臓が痛いほど大きく鳴った。緋勇が身じろぎ、小さく声を発する。日が昇る直前の水平線を見るように、蓬莱寺は息を詰めてそれを見ていた。
緋勇が目を開く。その瞬間、痛みも怒りも全て吹き飛んだ。軋む体を無視して立ち上がり、まだ寝惚けている緋勇の上に覆いかぶさり、真正面からその瞳を覗きこむ。全く事態を把握していない緋勇が目を見開き、何度か瞬いた。
きょういち、と、かすれた声が発音した。
その唇に、雫が落ちる。
覚悟はいいかこの野郎。耳元で凄むと、背中に熱い手の平が触れた。
俺からお前を奪う奴は、誰だろうと許さない。
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