目映いほどの膨大な量の氣が流れ込んで来る。それは力強く、厳粛に緋勇の体内に侵入した。全てをそれに託して目を閉じて眠ってしまえば、渇望していた安息を得られるのではないか。過ぎった想像を振り払うには、緋勇は疲弊し過ぎていた。身を委ねれば全て忘れられる。守れなかった命も、背負った心も、儘成らない自分の感情も、全て忘れて眠れる。
遠くで誰かが叫んだ。滑稽なほど必死に、何かを伝えようと声を張り上げている。しかしその声は、嵐のような奔流に阻まれて緋勇には届かなかった。届いたとしても、緋勇には何の影響も無い。世界の為に命を投げ打つ事が自分の存在理由だ。緋勇はそう信じていた。それは誇らしく、重要な役割だ。放棄するなどと、考えた事も無い。
だが緋勇は思ってしまった。世界の為に存在する力を全て捧げても、彼の心を満たしたい。傍に居て欲しい。名前を呼んで欲しい。自分の声で、彼が振り向くのが嬉しい。
それは、世界を裏切る事だ。
金色の龍が大きく吠えた。厳然たるその声は体を貫き、砕かれた精神を引き連れて天を裂く。緋勇は、大きく開いた口蓋に身を投じようと目を閉じる。その瞬間、閉ざされた瞳が幻を映した。
優しい手。鋭い視線。穏やかな沈黙。子供のような笑い声。背中の温もり。
嵐が躊躇うように威力を弱めた。閉じていた瞳を開く。視界は黄金に満たされていた。投げ出した筈の記憶が激しく揺れ動く。確かめる為に、緋勇は拳を強く握った。爪が掌に食い込み、鈍い痛みがじわりと広がる。ゆっくりと、今度は拳を開く。浅く爪跡の残る掌を見詰め、思い出す。いつだったかは思い出せないが、確かにこの手は何かを掴んだ。
収まったかに思えた嵐が、再び激しく猛り出す。緋勇はそれに気付き、今度こそはっきりと嵐の正体を意識する。同時に、聞こえなかった声が言葉になって緋勇を刺す。
黄龍の氣が緋勇の身体を駆け巡る。器として緋勇は産まれた。その存在理由を果たすべく、細胞の全てがその強大な氣を受け入れようとしていた。精神は既に異物として認識されている。記憶が砕け、思考が薄れ、喉から溢れ出す声は意味を成していない。指を伸ばし、緋勇はそれでも叫んだ。
渡さない。彼が存在する、この世界の全て。
心は既に彼にあげてしまった。それはもう緋勇のものではない。他人のものを、自分の都合で折る訳にはいかない。何処か言い訳染みているが、それでも緋勇はそう信じていた。「生きていたい」と言えない緋勇の、それが抵抗する理由だった。
雄叫びを上げ、手を伸ばす。かつて掴んだと思っていたものは、幻だったのかも知れない。いつだって恐れていた。目を覚ましたら、全ては消え去ってしまうのかも知れない。
それでも良い。緋勇が晴れやかに笑った。忘れなければ良いのだと、緋勇はもう知っている。彼がくれた全てのものを守り抜く。
衝動ではなく自分の意思で、緋勇は渾身の雄叫びを上げた。
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