灼熱の地を踏み、葉佩は今までのように扉を開いた。
 地上での生活は、葉佩の精神に如何なる影響も与えなかった。級友の言葉も、対峙した《墓守》の素顔も、退屈な授業も、全ては流れ去るだけのものだった。
 深奥に近付いている事は既に確信している。次に扉を開いた時、与えられた仕事は完遂されるだろう。その予感も、葉佩を昂揚させる事は無かった。与えられた役目を果たし、次の命令が下るまで、空虚な体を抱えて生きなければならない。そんな未来が、漠然と心を占めていた。どんな感情も持たずに、葉佩はその扉を開いた。
 目に入ったのは、子供だった。年の頃は7、8歳だろうか。細い首を傾げ、未熟な体を斜に構え、眠たげな目付きで葉佩を見ている。その幼さに内心では驚いたが、葉佩は至って冷静に銃を構えた。
 この地を治める者が、高校という組織に所属している事は認識していた。《執行委員》と呼ばれる守人が、自分と同年代である事も知っている。そして彼等の素顔が、恐ろしいほどに幼い事も。その中枢たる《生徒会》には、副会長と呼ばれる者が存在していた。

「ああ、成る程」

得心し、呟く。誰もその姿を知らなかった、遺跡を守る最後の鍵。それは、この《學園》に所属する生徒ではなかった。どのような経緯でこの場に立っているのかは判じかねたが、この場所を守る最後の砦は、この子供だ。

「お前が皆守か」
「そうだ。俺が副会長だ」

無表情に返った肯定は、やはり葉佩に如何なる影響も与えなかった。一寸の躊躇いも無く、いつものようにトリガーを絞る。同時に、皆守が地を蹴った。予想していたよりも速い。小さな体は、その分だけ受ける重力の束縛も小さいのだろう。軽やかに間合いを詰めた。相手が子供だという事実は、手を緩める理由にはならない。着地の瞬間を狙い、弾丸を放った。












 花弁のように、ひらりと舞い落ちてきた写真を拾い上げる。その瞬間、皆守が目を覚ました。弾かれたように跳ね起き、葉佩を睨み上げる。次に自分の体を見下ろし、その足が砕かれている事を確かめた。完全なる敗北を自覚し、目を見開いて口を引き結ぶ。そのままの表情で、再び葉佩を見上げた。その瞳に憶えのある色を見出し、葉佩が苦く笑う。自分を生かしていたものが、本当は幻だった事に気付いたような、そんな表情だった。その感情は、知っている。この地に降りて初めて、葉佩は昂ぶる自分を感じた。それを押し隠し、可能な限り冷厳に響くよう声を落とす。

「お前の負けだ」

宣言し、傷付いた幼い体を見下ろす。心までも砕かれて、皆守が呆然と葉佩を見上げた。与えられた役目を果たせなかった。認識したその現実が、皆守の精神を絶望に叩き落す。それは、自分に生きる価値が無いという事だ。酷く冷静に、皆守はその事実を見詰めていた。

「殺せ」

吐き出された言葉は、やはり無表情だった。葉佩は、この子供が自分よりも聡明であると悟った。この世には、生きる理由など存在しない。その事実を、この小さな囚人は知っている。役目という幻を奪われて生きる事など、苦しみでしかない。葉佩が最近になって漸く気付いたその真実を、この子供はもう知っている。
 皆守の望みどおり、葉佩は銃を構えた。皆守が、ほんの僅かに微笑んだ。解き放たれる喜びか、或いは何事も為さずに消える己への憐憫か。混じり気の無い、健やかな笑みだった。
 引き金に掛けた指が軋む。葉佩は見出してしまった。皆守が浮かべた微笑は、かつて葉佩が浮かべたものと同じだ。満たされぬ飢え。得られない望み。果たされなかった誓い。そんな記憶が脳裡をよぎる。優しかった人を思い出す。
 自分にも意味があると信じていた、愚かな子供だった頃、葉佩は一人の男に出会った。怠惰で大雑把でカレーにしか興味を示さない男だったが、哀しみを知っている人だった。彼は、腐りきっていた葉佩に、キスをして、下手くそな歌をうたってくれた。彼の為に生きようと誓った、今は遠くなった日を思い出す。だが、あの日の歌は、もう忘れてしまった。
 俯いて微笑んだ、小さな体を見下ろす。その表情は知っている。かつて、鏡の中に見た顔だ。終焉だけを夢見て笑う、闇を見詰める子供の瞳だ。それを見下ろす葉佩は、そこから掬い上げてくれた歌を、もう忘れてしまった。ならば、この子供に与えられるものなど、もうどこにも存在しない。この憐れな存在が、救われる日は永遠に来ない。

「ふざけんな」

湧き上がったのは、否定だった。囁かれた言葉を聞き取れず、皆守の瞳が揺らめく。
 どうして俺は、まだ生きてるんだ。
 無音でそう問う瞳に、葉佩は嫌というほど見憶えがあった。ここに居るのは、あの日の自分だ。でもその前に立つのは、優しかった彼ではない。銃を構えたままその瞳を倣岸に見下ろすのは、汚れた手で武器を持つ、全てを諦めた無力な男だけ。無邪気な仕草で疑問を表す子供に、どうしようもなく掻き乱された。

「期待してんじゃねぇよ」

落とされた言葉に、皆守がきょとんと瞳を丸くした。銃を下ろし、侮蔑の表情を作って見せる。気に食わない。認めない。心で呟く。そんな顔をするな。慈悲など、どうしたって遣るものか。

「甘えてんじゃねぇぞ。
 楽に死ねるとか思ってんじゃねぇだろうな。
 お前はボロボロになって路上で野垂れ死ぬんだよ」

湧き上がる罵倒が、本当は皆守には向かっていない事を知っていた。口を開けてそれを聞いている皆守が、ゆっくりと理解を示して表情を変える。もう一度その体に照準を合わせ、今度こそトリガーを引いた。打ち抜かれた膝が、ビクリと跳ね上がって血を噴き出した。皆守が痛みに絶叫する。自身の血に濡れた床を転げ回り、涙と唾液を撒き散らして泣き喚く。もう一発、大腿に撃ち込んだ。短い悲鳴を上げて、皆守が脱力する。その瞳に光るものが、葉佩を酷く昂揚させた。

「どうした餓鬼、言われっぱなしか?」

見上げる瞳が、葉佩に向けて憎悪を発している。まるで微風に吹かれるようにその視線を受け、葉佩が哂った。くすぐったいキスも、下手くそな歌も、もう失くしてしまった。ならばもう、あの緩やかな日々は永久に戻らない。いま目の前に居るあの日の自分には、決して与えられない。あるとすれば、ただ一つ。

「俺が憎いだろう?」

声は返らない。だが、その目は確かに肯定を示した。虚無だけを映していた瞳に、炎が宿った。悲しみと嫌悪と歪んだ自己愛が、葉佩を更に昂揚させる。
 銃を投げ捨て、拳を握った。左手で小さな体を持ち上げ、腹に拳を突き入れた。その体のあまりの軽さに思わず涙腺が緩み、慌てて頬を引き締める。薄い肉を容易く貫き、拳が内蔵に突き刺さった。皆守が、口元を押さえて顔を逸らす。床に叩き落とした体が痙攣し、嘔吐する音が聞こえた。血の混じった吐瀉物に突っ伏して、皆守が声を上げる。

「ころしてやる」

凄絶な瞳で、汚れた言葉を吐き出す。葉佩が胸中で笑みを浮かべた。闇の中の炎のように燃える眼差しが、葉佩を奮わせる。そこにあるのは、ただの自己肯定でしかない。幼い頃の自分を重ね見て、自分が得られなかった、生きる意味を提示する。ずっと望んでいたのは、許しではない。情熱だ。心を震わせる、痛いほどの激情だ。それが未だこの心に存在していた事に、葉佩は深く感謝した。

「殺してやる」

血と吐瀉物で濡れた頬を、まるで洗い流すように透明な涙が伝う。足を撃ち抜かれ、立ち上がる力さえも奪われた体が、怒りと憎しみに震えた。貫く強さで見開かれた瞳が、真っ直ぐに葉佩を射抜く。柔らかく小さな手が、傷付く事も厭わずに床に爪を立てる。丸い爪が、割れて剥がれた。その痛みを無視して、皆守が吠えた。

「殺してやる!」

それが、きっと理由になる。葉佩が無音で囁いた。傷はやがて癒えるだろう。幼い体は、いつか力を得るだろう。空虚な精神は、きっと情熱を宿すだろう。産まれなおすような気分で、怨嗟を吐き出す幼い体を見詰めた。
 くすぐったいキスも、下手くそな歌も、髪を撫でる手の平も、抱き締める腕も、優しい眼差しも、もう失ってしまった。有るのはただ、彼の居ない現実と、彼を殺した世界への憎悪。彼を助けられなかった、自分への憎悪。喪失の嘆きすら、もう思い出せない。だから、ただ一つ。

「やってみろよ」

 俺が理由になってやる。
 だから、生きろ。