H.A.N.Tが冷静な声で危険を告げた。耳を澄ましても物音は聞こえない。自分の息遣いだけが、やけにうるさく感じられた。音もなく闇にうごめく気配だけが、周囲をぐるぐると回っている。
壁に背をつけて、残弾数を思い浮かべる。絶望はしないが、絶望的だ。目の前に飛び出してきた、犬のような獣に銃弾を撃ち込む。2発、3発、まだ死なない。左手のナイフを獣の眼球に突き立てて、跳びすさる。
走り出すとほぼ同時に、冷たい塊が肩に飛びついてきた。命のようにあたたかくはないその存在を、おぞましいと感じる余裕もなかった。ただ呼吸を喘がせて、葉佩は走り続ける。
扉は、開かなかった。手持ちの弾丸も食料も心許なくなってきて、葉佩が撤退を決意したのは、48分ほど前の事だ。往路では静まり返っていた廊下に、魔物の気配が充満していた。
はるか遠くに光が見えるが、辿り着ける気がしない。最後のマガジンをリロードして、弾丸と罵声を同時に撃ち出す。頭がぐらぐらする。視界が歪む。
彼には自分の死を知る術がないのだと、貧血気味の脳裡で思った。彼を思い出すと、浮かぶ景色はいつも冬になる。枯れた木々と、乾いた風と、かんじかんだ手と、陽だまりのぬくもり。缶コーヒーがあんなにも美味しかったのは、産まれて初めてだった。
右側から覆いかぶさってきた獣が、驚くほど熱くて混乱した。少し遅れて、皮膚に触れているのが自分の血液だと気付く。頬に流れているのが、血液ではないという事にも気付いた。
会いたいのではない。思い出せればそれでいい。
振り切るように弾丸を撃ち出して、光に向かって走り出す。その光を、影が横切った。瞬いて、暗くなりかけた視界に目を凝らす。目を閉じてはいけないと、ほとんど恐怖にように葉佩は考えていた。
不意に、周囲が静かになった。怪訝に思う暇もなく、低い男の声がした。
「ロゼッタのハンターか」
「だったらなんだよ」
「意外と頼りないんだね」
「うるせぇ」
この場所で聞くとは思っていなかった。日本語だ。懐かしいと感じるより早く、銃を上げる。かすむ視界の真ん中の、黒い影に銃口を向けた。影はかすかに息を吐き、「残り少ないのなら温存しておいた方がいい」と至極もっともな助言をくれた。
どうやら、今すぐに排除の必要がある危険人物ではないようだ。銃は手放さぬまま、葉佩はそう判断した。
「日本語だ」
「ああ、キミも」
「日本人?」
「そうだね」
「俺の、えーと、知り合い、も日本人だ」
「へえ」
「新宿に住んでる」
「奇遇だね、ボクの友達も新宿に住んでるんだ」
「日本は、今、なに?」
「なにって、何が」
「春はまだ?」
「ああ、そういう事か。まだ冬だよ」
「花は?」
「梅なら、たぶんもう咲いてると思うけど」
「ウメかぁ、ウメは、見た事ないなぁ」
「綺麗だよ」
「雪は?」
「東京でも、少しは降ったみたいだね」
「ところでどちら様ですか?」
影が、ふ、と息を吐いた。笑ったのだろうか。問いには答えず、すいと立ち上がる。音もなく流れるような動作が、彼もまた戦う人なのだと葉佩に教えた。だが、《宝探し屋》ではない、ような気がする。
「ロゼッタじゃないな」
「どうしそう思うんだい?」
「ロゼッタの奴は、もっとやかましい」
「そうかい?」
「レリックの奴に、喋り方がちょっと似てる」
「《秘宝の夜明け》か、あんなのと一緒にされるのは心外だな」
「あ、分かったM+Mだろ」
頷く代わりに、影は沈黙した。ひんやりとした静寂が、熱を持った体に心地好い。思わず頬を緩めると、影も表情をやわらげた。陰鬱な雰囲気の男だと思っていたが、笑うと穏やかな印象になる。優しい人なのかも知れない。
通りすがりの、自分とはまったく関係のない人が優しいというのは、なんだか嬉しい。人は優しいのだと思える。世界は優しいのだと、錯覚できる。幸福な幻は、生きてゆくのに必要だ。幻だと気付かなければもっといいのだが、それは望みすぎというものだろう。死ぬまで生きるのなら、愚かなままではいられないのだ。
「M+Mには、でも、やかましいのいるよね」
「まあ、わりと賑やかな人が多いと思うよ」
「宇宙刑事がいるよね」
「は?」
「変身できるって、ほんと?」
「ああ分かった、あの人か」
「ほ、ほんとなの?」
「さあ、ボクも知らない」
きっと本当なのだと、葉佩は考えている。おそらく正体は組織にも秘密にしているのだ。そうに違いない。
たとえ嘘でも自分に影響がないのなら、信じた方が面白いではないか。その程度には、信じている。そのような意味での真実には、葉佩はあまり興味がない。
「あ、やっぱ取手に似てるかも」
「友達かい?」
「うん」
「じゃあ、帰らないとね」
「帰る?」
「友達は、きっとキミを待ってるよ」
それは、とても幸福な仮定だった。信じられればそれだけで生きてゆけるほどに。虚空を見詰めて微笑んだ葉佩に、影もうすく微笑んだ。尽きる命にせめて安寧をと願うような、穏やかな微笑だった。
影が立ち去り、耳鳴りのような静寂を聞きながら、春になったら彼に会いに行こうと思った。
眠って、起きたら、きっと春だ。
そう信じて、葉佩は目を閉じた。
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