遠野はいつものように校門を通り過ぎようとして、ふとその足を止めた。珍しい顔が見えたのだ。否、珍しいのは顔ではない。その男の顔は毎日のように見ている。同じ学校に通う同じ学年の友人なのだから、それ自体は不自然な事ではなかった。問題は時間だ。
現在の時刻は午前7時48分。始業の3秒前に走り込むのが日課の彼を目撃するにしては、驚くべき時間だろう。そしてどうでもいい事なのだが、彼は何故に校門の上に胡坐をかいているのだろう。銅像にでもなりたいのだろうか。様々な思考と感情を脳裡で処理しつつ、こちらに気付いた蓬莱寺に向かって手を振ってみた。銅像にならんとして頑張っている(仮説)彼が、気だるげに視線をこちらに寄越す。
「おう、お前か」
「誰か待ってんの?」
「別に」
「ああ、緋勇君か」
「え、もしかして俺って分かりやすい?」
「まあ、控えめに言っても見てるこっちが恥ずかしいぐらいには」
挨拶代わりの軽口を投げ合い、あからさまに眉をしかめて目を逸らした蓬莱寺を見上げる。そうしてから、彼がとても疲れている事に気付いた。よく見れば髪も服も汚れていて、倦怠感と疲労でその目はどんよりと曇っている。この面相は遠野にも見憶えがある。徹夜明けの朝に、鏡の中で見る顔だ。
「あんた、寝てないの?」
「いや、ちょっとは寝た。2時間ぐらい」
「まさかとは思うけど、徹夜で旧校舎?」
「あー、なんか、こう、あるだろそーゆー事」
「ない」
きっぱりと首を横に振りながら、もう少しだけと繰り返しながら気付けば空が白んでいた経験ならば数え切れないほどある、と声には出さずに頷く。あどけないこの男も、あんな風に夢中になる事があるのだろうか。
間違っても表に出すような男ではないと思っていた。努力も苦悩も情熱も、上手に隠して微笑む男なのだと。それが、この無様な姿は何事だ。今は袱紗に包まれた、愛用の得物を握る手を見る。小指の爪が割れていた。シャツに散った染みは、紛う方なき血痕だ。乾いて変色する前ならば、さぞや夏装の白によく映えた事だろう(おまわりさんに会わなくて良かったね)。そして遠野が何より信じがたいのは、その顔に浮かぶ色だった。
「ほら、休んだろ、昨日、あいつ」
「あ、そーいえば」
「しかも無断で」
「緋勇君が無断欠席なんて珍しいわね」
「だろ?」
「あんたの影響じゃない?」
「ばっかじゃねーのお前!俺の影響とか!」
「は?え?あ、ばかとは何よ!ばかって言う方がばかなんですー!」
「んなわきゃねーだろ!そんな、俺の影響とかっ!」
だからその反応は何事だ。毎日のように顔を合わせていれば、影響くらい与え合うのが普通だろう。事実、蓬莱寺は目も当てられないほどの影響を受けている。それが良い事なのか悪い事なのか、遠野にはまだ分からない。
ひとしきり慌てふためいて、蓬莱寺はそれっきり口を噤んだ。校門の上から下りようともせず、膝に頬杖をついて登校する生徒が増え始めた道を睨む。その横顔があまりに必死で、それが滑稽で、遠野は口の端で笑ってからその場を立ち去った。
結局その日、緋勇は姿を見せなかった。そして蓬莱寺も授業中は姿を見せなかったらしい。授業の合間にふらりと現れて緋勇の不在を確認し、そのままふらりと消えてしまった、というのが美里の目撃証言だ。
放課後になってからC組に顔を出し、いつもの5人がそろわないと言って不満気に口を尖らせる桜井の頭を撫でながら、これはスクープかしらと考える。噂の転校生と不良少年が二人で欠席。駄目だ、話題性などどこにも見当たらない。どうせ風邪でも引いたか、或いはただのサボりだろう。面白みの欠片もない。
寄り道をするか否かを他愛ない雑談のついでに検討していると、朝よりも更に薄汚れた蓬莱寺が教室に入ってきた。真っ先に名を呼んだ桜井に軽く頷き、次いで教室を見回す。探しているものは見付からなかったようだ。
桜井が、からかうような口調で言う。
「そんなに気になるんならお見舞いでも行ってくれば?」
「べっつに、気にしてねーし」
「いや、それはもういいから」
「どーせ紗夜ちゃんとよろしくやってんだろ」
「紗夜ちゃん?ってあの、桜ヶ丘で会った?」
「来てただろ、あいつに会いに」
「えー!知らないよ!そーなの?」
「そーなんだよ!だから俺はどーなったか聞いてやろーと思ってただけで」
「うわあ!あおいー!聞いてー!大変だよー!」
何やら張り切って美里に駆け寄る桜井を見送りながら、これはスクープかもねと考える。噂の転校生が他校の美少女と交際。これは売れそうな話題だ。もとい、友人として是非とも応援してあげなければ。
「京一、ちょっと詳しく話しなさいよ」
「なんで命令口調なんだ。あとにしろ、疲れてんだよ」
「なんでそんなに疲れてんのよ」
「・・・いたら殴ろうと思って」
「ねえ、主語って知ってる?」
「るっせぇなー」
「なに、やきもち?」
「は?」
「緋勇君が離れてっちゃうのが寂しいんでしょ」
その時の蓬莱寺の顔を見たのが自分だけで良かったと、遠野は心の底から思った。いつものように笑って流すか、または言い当てられて苦い顔でもしてくれれば、遠野もこんな気持ちにならずに済んだのだ。
蓬莱寺はまず軽く目を見張り、自分の内面を見詰めるような不思議な目付きで静止して、まるで初めて人間というものを見たような目で遠野を見て、ふと窓の外を見て、自分の手の平を見た。
そうしてから彼の瞳に浮かんだ色を、なんと呼ぶのか遠野は知らなかった。
次の日の朝、やはり蓬莱寺は校門に座っていた。
「おはよ、銅像にはなれそう?」
「なったってどーせ落書きされて蹴り入れられて撤去されるんだろ」
「あら卑屈」
「だから銅像にはなりたくない」
「ご主人様をずーっと駅で待ってた犬の話、知ってる?」
「あれ、通行人が餌やってたって聞いたぜ」
「でもきっとさ、最初の2、3日は本当に待ってたんじゃないかな」
「俺は忠犬じゃねぇよ」
「そうね、あんたには似合わないわ」
本心から言ったつもりだったのだが、蓬莱寺は力なく笑って黙り込んだ。まったく、傷付きやすくて困る。
昨日は家に帰ったらしく、白いシャツに染みはない。しかし、瞳はやはりどこか曇っていた。春以来、まぶしいほどに光を放っていたのに。もういっそ鬱陶しいほどだったのに。
道を睨むその横顔があまりに悲痛で、それがなんだか面白くなくて、遠野は何も言わずにその場を立ち去った。
その日も緋勇は姿を見せなかった。蓬莱寺は、放課後になるまで机に突っ伏していたらしい。
C組に向かう廊下で、眉間に皺を寄せた犬神とすれ違った。先生も大変ね、と言って笑うと更に皺が深くなったので足を速めたら、背後で「廊下は走るな」と、まるで言う前から諦めているような声が発せられた。
悩みは人それぞれ、などと有り触れた言葉を胸中で転がしながら教室に入る。
「あ、ねえアン子!緋勇クン今日も休みだったよ」
「みたいね」
「どーしちゃったのかな?」
「自分探しの旅にでも出ちゃったのかも」
「え、アン子にとって緋勇クンってそーゆー存在なの?」
「人間は誰しも無限の可能性を持ってるのよ」
「そ、そうかなぁ?」
「まあ、限度ってのもあるけどね」
「無限じゃないよねそれ」
桜井の声で目を覚ました蓬莱寺が(遠野が見ていた限りでは、「緋勇クン」に反応したように思えた)、寝惚けたまま教室を見回した。探していたものは見付からなかったようで、溜息をついてまた机に突っ伏す。美里が苦笑しながらその髪に触れた。
「京一くん、もう放課後よ」
「あ、ほんとだ」
「そんなに心配なら様子見に行きましょうか」
「美里ぉ!お前もか!」
「え、な、なに?」
「俺は別に心配とかしてんじゃねぇんだよ!」
「そ、そう?」
「たださぁ!なんか、最近、暑くなってきたなぁ、と」
「え、ええ、そうね」
「で、そ−すっとそこの万年冬服男が鬱陶しくなるだろ!」
「ん?俺か?」
「脱げ!」
「な、なんだいきなり!」
「だいたいさぁ!あんな可愛くっておとなしそうな子、龍麻にはもったいねーよな!」
「なんの話だ」
「ぜってーなんかやらかして泣かしちゃうに決まってんだよ!」
「おい、京一?」
「おめーは早く脱げ!」
醍醐の右拳が唸り、蓬莱寺が今度は床に突っ伏した。それでも床に向かって「どーせ振られるに決まってんだからとっとと俺に慰められに来いよー」などと呟いている。誰の事を言っているのか、その場にいた全員が察して同時に口を噤んだ。不幸にもまだ教室に残っていた級友たちさえ、何やら生ぬるい表情で押し黙った。
数日前まで、蓬莱寺は傍から見ていて呆れるほどに浮かれきっていた。それはもう春も盛りとばかりに咲いていた。その隣には、しかつめらしい顔をした男が立っていた。もう学校中の誰もが知っている。この男は、あの奇妙な転校生に夢中なのだ。それが恋とも憧れともつかぬ綺麗な色をしていると、今更それを口に出すまでもないほど知っていた。知らないのは当人だけだ。
かそけく淡い想いならば、いっそ花を見るようにその心を見ていられただろう。新芽に水をやるように、あたたかな気持ちになれたのだろう。
床と睦みあうのをやめた蓬莱寺が、何事もなかったように身を起こして遠野を見た。
「お前もそう思うだろ?」
「緋勇君って、意外とやる時はやりそうよね」
「・・・そ、そぉかぁ?」
「そうだね、比良坂サンって、なんてゆーか、こう、可憐!て感じだしね」
「そうなの?」
「あれ?アン子は会ってなかったっけ?」
「そんなに可愛いの?」
「もうね、なんかね、果かなげってゆーのかな」
「そうそう、お前らと違って脚も細いし」
「踏むよ!」
「踏むなよ!」
「そっか、そんなに可愛いんだ」
これは是非とも突撃取材を敢行せねば。決意も新たに目を輝かせた遠野に、蓬莱寺が勢い込んでつっかかった。「紗夜ちゃんが可哀想だからやめろ」などと主張するその顔が本当に不安げで泣きそうで、これは素晴らしいネタを掴んだものだと遠野は胸中でこっそり微笑む。
「それでなくともあんな仏頂面の鈍い男に付き合ってんだから」
「でも誘ったのは、その比良坂さんなんでしょ?」
「なんで知ってんだ!」
「ああやっぱり、緋勇君から言うとは思えないもんね」
「そ、そーだよ!龍麻は別にそんな、好きとか言ってねぇし!」
「詳しいのね、見てたの?」
「・・・そんな訳ねぇだろ」
「そうよねー!まさか真神の蓬莱寺京一ともあろう男が人の恋路の覗き見なんて!」
「してねぇよ!覗き見なんて!」
「でも見てたんだ」
「いや、だって、あの野郎すげぇ冷たい態度だったんだぜ」
「うんうん、それで?」
「で、だからー、紗夜ちゃんが可哀想で、つい」
「つい?」
「いや、龍麻もさぁ、なんかちょっとへこんでるっぽかったし」
「へこんでる?」
「いや、なんとなーく」
言葉を探して虚空を見詰め、蓬莱寺がはたと気付いた。手帳を片手に聞きの体勢に入っていた遠野が、小さく舌を打つ。
「本人に聞きゃあいいだろ!なんで俺に聞くんだよ!」
「だって、緋勇君だと絶対こんなにするっと話してくれないもん」
「ぐああ!誘導尋問か!」
「あんたそれ間違ってるわよ、誘導尋問ってのはねー」
「あーもーうるせー!」
今日も平和だったな、と、今日の続きの明日を疑わず、或いは一心に祈って、学徒と戦士たちが家路に着く。蓬莱寺も、この時はまだ信じていた。明日になればあの不機嫌そうな顔に会えるのだと、少々の危険など退屈な日常のスパイスでしかないのだと、自分だけは死ぬまで自分のものなのだと。
そんな幻を、愚かにも信じていた。
|