醍醐が変わった。蓬莱寺が初めてそう感じたのは、出会ってから一年ほど経って立夏も過ぎた頃だった。汗と土と太陽の匂いしかしなかった体から、人工的な香料の匂いがするようになった。数週間前までは苦笑しながらも付き合ってくれた猥談にも、あまり乗ってこなくなった。話しかけても鈍い反応しか返さない。かと思えば、そわそわと落ち着かない仕草で一人の女生徒の様子を盗み見ている。
あいつにも漸く遅い春が来たか。安堵のようにそう思うと同時に、胸の隅で何かが疼いた。
誰にも支配されない、自分の為だけに存在する自分。それが蓬莱寺の思う自己の在り方だった。挨拶を交わす機会を逸しただけで一日の終わりまで落ち込むなどと、滑稽に感じられてならない。たった一人に掻き乱されるなどと、理解したいとも思わなかった。姿が見えないだけで夜も日も明けぬなんて、冗談じゃない。
自分は永遠に感じる事のない想いだと考え、心の底ではそんな友人を嘲っていた。
今日も今日とて醍醐の目はあの少女を追っていた。くるくるとよく動く体を、夏服の袖が追随するように舞う。その残像を視界の端に入れたまま、醍醐がさも億劫そうに蓬莱寺を見た。随分とご執心だな、などとからかえば、醍醐がゆらりと立ち位置を変えて蓬莱寺の足を絡めとった。そのままするりと腕を取られ、緩やかな動作の意味するところを判じかねてされるがままに立っていると、気付いた時にはコブラツイストを極められていた。思わず悲鳴を上げ、抜け出そうと渾身の力を振り絞る。
教室の片隅で披露された見事な極め技に、一部の生徒が感嘆と惜しみない拍手を送った。沸き立つコールに応えるように、更にきつく締められる。本気で泣きそうになりながら腕を叩いて抵抗すると、あっさりと技を解かれて大きな体が離れていった。以前なら懇切丁寧に抜け出す方法も教えてくれたのに、身を離した醍醐はもうこちらを見もしない。
痛みに涙を滲ませて、蓬莱寺が親友を睨み上げる。しかし醍醐は、どこか遠くを見る目でそれを受け流した。その視線は、慌ただしく教室に駆け込んだ少女を追っている。見上げたその顔が、痛みを感じているように歪められた。苦しそうだな、と漠然と思い、そんなに苦しいのならやめればいいのに、と同時に思う。
呆れるほどの熱をこめて見ているのに、拒絶を恐れて話しかける事もできない。理解しがたいな、と口中で吐き捨て、蓬莱寺は始業の鐘が鳴る前に席を立った。
恋を知った友人が、己を見失っているようにしか見えない。自分は心底から欲するという事も永久に知らぬまま死ぬのだろう。それでいい。あんな無様な姿を晒すくらいなら、知りたくもない。
教室を出るところで、醍醐が想う少女の名を呼ぶ美里とすれ違った。「小蒔」というのが、件の少女の名前らしい。級友の名などほとんど記憶していない蓬莱寺だが、美里の名は知っている。真っ直ぐな黒髪と、大袈裟な感情表現を控えるその姿を、蓬莱寺は好ましく感じていた。
軽佻浮薄を装う彼は、実は意外と古風な嗜好を有していた。奥ゆかしくも強い意志を感じる美里は、多分にその嗜好と合致する。だが、友人のように骨抜きになるほどには傾倒していない。きっと自分にはそのような感情が欠落しているのだと、そう考えていた。女の柔らかい体は魅力的だが、その為に全てを捨てるなど愚昧の極みだ。
我知らず、得物を握る手に力がこもる。その背中に、どこか挑むような色を含んだ声がぶつかった。
「蓬莱寺京一ね?」
「あ?」
「醍醐君と仲がいいんでしょ?」
「別に」
「ズバリ!真神の総番の恋のお相手は?」
「知るか」
「あ、あたしは遠野杏子、アン子でいいわよ」
「聞いてねぇよ」
「で、本題の醍醐君についてなんだけど」
「おめーも聞いてねぇな」
矢継ぎ早に不仕付けな質問を投げかける少女の眼鏡の奥で、好奇心がちらちらと踊っている。嫌いな人種だ。短い会話の中でそう判断し、蓬莱寺は噛み合わぬ会話を打ち切って踵を返した。露骨な拒絶を感じとれないのか、はたまた感じてはいるが無視しているのか、遠野がその背中に尚も声を投げる。
「隠す事ないでしょ?もう周知の事実よ?」
「何が」
「あの醍醐君にもついに年貢の納め時がきた!って」
「ねんぐ?」
「もうどこ行ってもこの話題で持ちきりなんだから」
「どこでだよ」
「主にあたしの脳内で」
何故か胸を張ってそんな事を言うので、蓬莱寺はその頭をほぼ無意識ではたいた。直後に、鋭い軌道で遠野の手が閃く。まさか反撃が来るとは思っていなかった蓬莱寺が、その軌道を咄嗟に追いきれずに目を見開いた。遠心力と重力を利用し、いい音を立てて遠野の手の平が頬を打つ。蓬莱寺は心でこっそり感嘆した。初動の速さといい、ヒットした瞬間の手首のスナップといい、見事な掌底だ。いっそ清々しい気持ちで遠野を見ると、彼女は腰に手を当ててきっぱりと矛盾を体現して見せてくれた。
「暴力反対!」
「って暴力で主張すんな!」
「先に手ぇ上げたのはあんたでしょーが!」
「どー考えても突っ込み待ちだったぞ今の!」
「言葉でしなさいよ!それでも剣道部なの?」
「剣道部とかさっぱり関係ねぇ!」
「む、思ってたほどバカじゃないのね」
「どんだけバカだと思ってたんだ」
「武道やってる男って、みんな頭悪いのかと思ってた」
「全国の武道家に泣いて詫びろ」
「うんごめん、さすがにそれは言いすぎたわ」
なんだか脱力してふと溜息を吐き出せば、遠野は唇の端を少しだけ持ち上げた。その目は、やはりどこか挑むような色を含んでいる。強い人間なのだろうか。それとも、弱さを隠す術を身につけざるを得なかったのだろうか。そんな疑問が脳裏をよぎったが、深くは考えずにその疑問を放棄する。追求したところで、有益な解答が得られるとも思えない。
そもそも明確な目的地があった訳ではないので、蓬莱寺は止まった足を進める理由を失った。見ないようにしていた自分の虚を再認識してしまったような気分になって、投げ遣りに足を踏み出す。すると、またしても遠野がその背中を追ってきた。
「ついてくんなよ」
「あたしの勘では、美里ちゃんじゃないかと思うのよ」
「言葉のキャッチボールって、お前には無理か?」
「総番と深窓の令嬢の恋とか!どうよ!」
「どうもこうも」
「なんかこう、血沸き肉踊る感じしない?」
「お前は脳が踊ってる感じがする」
「やだもう!口が巧いんだから!」
先程の掌底が、今度は蓬莱寺の肩を襲った。透かさずそれを躱し、屋上のドアを開ける。心地好い風が髪を掻き混ぜて去ってゆく感触に目を細め、蓬莱寺は床に寝転がった。覗き込んでくる遠野から目を逸らし、しかし目を閉じると身の内の虚が見えるので目蓋は上げたまま、己の心とよく似た空の青を視界の端で睨む。
遠野が、完全に周囲を遮断した蓬莱寺を連れ戻すのは諦めて、少し離れた場所に腰を下ろした。ポケットから手帳を取り出し、何事か呟きながらそれを見詰める。
変わってしまった友人の事を考えていると、どうにも居た堪れない気持ちになった。彼はいつだって、呆れてしまうほど誠実だ。他人にも自分にも嘘をつかない。そうして見つけ出した心を、彼は丁寧に手の平で包んだ。たゆまぬ研鑽の積み重ねで硬くなった手は、きっと愛する者を守るのだろう。
では、自分のこの手は?
目を刺す陽光を遮る為にかざした空の手を、無意識に強く握りこむ。
恋をして急変した人を、過去にも何度か見た。何がそんなに嬉しいのかと思うほど浮かれていたかと思えば、世界に見放されたように落ち込む。そんな人を、ずっと軽蔑していた。たった一人に振り回されて一喜一憂する姿を見る度に、なんて憐れなのかと冷笑した。そんな世界を知らぬ自分は、彼らよりも高い場所にいるのだと考えて優越感すら抱いた。己を見失うほど心を奪われてしまうなんて、可哀想に。
自分だけは違うと、そう考えていた。
黙りこんでいた遠野が、ふと風に紛れるような声音で囁いた。
「あたしも恋したいなぁ」
「は?したいか?」
「したい。だって素敵じゃない」
「どこが?」
「・・・ああ、あんた知らないの」
そう言った遠野の瞳に表れたのは、憐憫のように見えた。そう、何より理解しがたいのはこれだ。誰もが恋を褒め称える。苦しそうに身悶えながら、喜びを叫ぶのだ。気が知れない。無言でそう主張して、蓬莱寺は今度こそ目を閉じた。
幼子の行いに苦笑するような表情で、遠野が唇を曲げる。
「早くあんたも出会いなさいよ。笑ってあげるから」
そんな日は絶対に来ない。思ったが、口には出さなかった。
次の桜の季節は、まだ遥か彼方。
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