一陣の風が吹き、蓬莱寺がその冷たさに悲鳴を上げた。桜井の「腕まくりやめれば?」という至って真っ当な提案は、根拠も不明のまま却下されたようだ。捲り上げた袖を下ろしもせず、蓬莱寺は醍醐の腕に縋り付くようにして歩いている。

「こら京一!俺を風除けにするな!」
「やー大将ってば頼りになるなー!惚れるねその背中!」
「誰よりもお前には言われたくなかった科白だな」
「つれねぇなー」

仲睦まじい二人の後姿を眺めつつ、緋勇はこの場で巫炎をぶっ放したい衝動と戦っていた。蓬莱寺が笑い声を上げる度に、握り締めた拳がピクリと上下する。
 ラーメン屋にでも寄るか、と、決定事項を確認するように言いながら醍醐が振り向いた。桜井が大声で是を発し、美里もそれに同意する。蓬莱寺は早くも、店で注文するような口調で「俺は味噌バター、コーン大盛りで」などと歌うように宣言した。その手は、まだ醍醐の袖を掴んでいる。緋勇の右手から、季節外れの陽炎が立った。そのような超常現象には気付かず、桜井が緋勇に笑顔を向ける。

「ひーちゃんも行くでしょ?」
「・・・行く」
「うん!やっぱみんなで食べた方が美味しいもんね」
「そうだな」

無邪気に放たれる言葉に頷きながらも、緋勇の目は一点に集中していた。じゃれ付く蓬莱寺を振り払うような仕草で、醍醐の拳が赤毛に落ちる。それを難なく受け止め、蓬莱寺は肘を極める動作でその腕を抱えた。素早く足元を払いながら、醍醐が身を離そうとして歩道の段差につまづく。腕を掴まれた蓬莱寺が、その力に引かれて揺らいだ重心を立て直す為に数歩だけたたらを踏んだ。どうにか踏み止まり、笑ったまま毒づく。

「おい醍醐!あぶねぇだろ!」
「誰の所為だ!」
「修行が足んねぇな」
「お前はせめて真っ直ぐ歩く修行をしろ」

道路で遊ぶのは危ない、という美里の提言に苦笑いを返し、不意に蓬莱寺が視線を流した。陽炎を背負って立つ緋勇に向けて、挑発的な表情を作って見せる。

「ひーちゃんならあの程度じゃよろけねぇよな」

当然だ、と返そうとして、緋勇は一瞬でその状況を脳内で展開した。醍醐は腕を両手で取られ、体重を掛けられていた。しかも此処は道場ではない。小さな段差、間近にはガードレールや電柱、大きく肩を揺らせば通行人にもぶつかりかねない。道の端には砂も浮いている。アスファルトとマンホールでは、靴底との摩擦も変わってくるだろう。真顔で長考の構えに入った緋勇に、「そんなに真剣に考えなくっていいから」と桜井が思わず声をかけた。

「まったくだ。龍麻、こいつの言う事は気にするな」
「そーだよ、どうせ京一だし」
「殴るぞお前ら」
「やれるもんならやってみろー!」
「上等だやってやらぁ!」

今度は桜井と戯れる蓬莱寺を見ながら、緋勇が再び拳を握る。その肩に手を置き、醍醐が何故か少しだけ疲れたような表情で無言のまま首を横に振った。美里は、走り出した二人が無辜の通行人に被害を与えないようにと注意を促している。得物を取り出した二人にジハードすら辞さない意を表明しつつ笑みを浮かべると、被害の規模では自分達のじゃれ合いなどと比較にならない制裁を想像し、二人がピタリと動きを止めた。
 漸く進むべき道に戻ってきた蓬莱寺は、まだ遊び足りないとでも言うように、ご機嫌ながらも不満気な顔をしている。当然のように隣を歩く醍醐は、投げ遣りな相槌を返しながらも蓬莱寺が気紛れに揺らす袱紗を制していた。食べ終わったら旧校舎に行こう、などと話しつつ歩を進めている。
 当初の予定どおりラーメン屋に到着し、無事に食事を終えた。スープまで綺麗にたいらげ、蓬莱寺が箸を置く間ももどかしげに立ち上がる。

「さーてと、じゃあ腹ごなしと洒落込むか」
「洒落てなーい」
「文句あんならお前は来るなよ」
「文句は旧校舎じゃなくって京一に言ったんだもーん」

軽口を叩きながら暖簾をくぐると、辺りは完全に日が落ち、風は更に冷たくなっていた。またしても醍醐の陰に避難した蓬莱寺は、やはりまたしても拳を落とされながらまとわり付いている。再び湧き上がった衝動を宵風に散らしつつ、緋勇は五人の最後尾を歩いていた。蓬莱寺は醍醐の拳に夢中で、振り向きもしない。
 俺の方が温かいぞ。口をついて出そうになった言葉を、緋勇は慌てて飲み込んだ。無意識に拳から放出されていた灼熱の氣も、気付かれぬようそっと仕舞う。身を切るような冷たい風が、今は心地好かった。

 人気の絶えた校舎に忍び込み、懐かしい修羅の地に降り立つ。自分は其処で産まれたのだと、緋勇は信じていた。この手には、本当は温もりなど存在しない。ただ怨嗟と慟哭を作り出す炎だけが、自分が有する唯一のものだ。ご機嫌に揺れ動く赤毛が、その事実を酷く惨めに思わせた。近付けば、きっと彼をも燃やし尽くしてしまうのだろう。
 階段を降りながら、緋勇はぼんやりとそんな事を考えていた。先を行く蓬莱寺と桜井の声が、壁に反響して聞こえる。

「えーと、この前はどこまで行ったっけ?」
「あれ?こんなに下まで行ってないよね」
「あ!ひーちゃん!また一人で潜りやがったな!」

唐突に呼ばれ、身に憶えの無い罵倒に疑問符を浮かべて見せる。詰め寄られ、記憶を探り、思い当たった。放課後になって蓬莱寺が行方をくらましたので、繋ぎが取れた仲間数人を伴って地下へ降りた日があった。

「ああ、先週の金曜日だ」
「一人で潜るなって、いっつも俺」
「いや、醍醐もいた」
「醍醐?」
「あと雨紋と裏密もいた」
「高見沢もいたぞ」

醍醐がそう続けると、蓬莱寺はあからさまに顔を歪めて緋勇を睨み付けた。「一人で潜るな」という(一方的な)約束は違えていないのだから、そんな目で見られる筋合いは無い。緋勇がそう言うと、眼光が更に研ぎ澄まされた。攻撃的な氣に反応して、緋勇の体が思わず昂ぶる。剣戟の間に辿り着く前に始まってしまいそうな気配を感じた桜井が、意識してその空気を攪拌するように明るい声を出した。

「ひーちゃん、気にする事ないってば」
「いや、気にはしてないんだが」
「気にしろよ!なんで俺も誘わねぇんだ!」
「お前が行方不明になるからだ」
「ちょっと寝入っちまっただけだろ」
「寝てたのか」
「おう、目ぇ覚めたら夜だったぜ」
「それはお前が悪い」
「うん、京一が悪いね」
「確かに、京一が悪いな」

集中砲火を浴びる蓬莱寺に、美里が困ったように眉を下げた。さすがの美里も、それはフォロー不可能だったらしい。蓬莱寺が舌を打ち、緋勇の胸を押して体を離した。「探してくれたっていーじゃねぇか」などと呟きながら、殊更に足音を立てて階下に向かう。

「京一君はやきもち焼いてるのよね」
「そうそう、ひーちゃんが構ってくれな〜いってね」
「龍麻も厄介なのに懐かれたな」

蓬莱寺のあとに続きながら、美里と桜井と醍醐が笑った。同時に、緋勇が階段を踏み外し、壁に取り縋ってどうにか踏み止まった。唐突に響き渡った痛そうな音に、先を歩いていた蓬莱寺までもが何事かと振り返る。階段の角に打ち付けた脹脛の痛みを飲み込みながら、緋勇は何事も無かったように階段を降りた。その胸中では、一つの言葉が鼓動と同じリズムで回っている。つまり、八雲の連撃も斯くやというほどの速度で。
 先程から湧き上がる巫炎の衝動が、要するにやきもちを焼いてただけだなどと、そんな恐ろしい仮説に思い当たったのだ。表面には出さずに慌てて否定する。そもそも懐かれてなどいない。蓬莱寺がじゃれ付く相手はいつだって醍醐だし、楽しそうにじゃれ合うのは桜井だし、咄嗟に助け舟を求めるのは美里だ。そうだ、そんな筈が無い。今日は特に寒かったから、蓬莱寺はただ暖かい場所を探していただけだ。その場所がたまたま醍醐の懐だったのだから、それについても何事か感じる理由など無い。
 すげぇ音したぞ大丈夫か、などと言いながら触れてくる体温が、まるでずっと求め続けていたように嬉しいなんて、そんなまさか。ただ触れて欲しかっただけなんて、そんなまさか。ぐるぐると廻る思考に気を取られていた緋勇の肩に触れた蓬莱寺が、「あれ、お前あったけーな」などと言って上着の中に手を突っ込んできた。喉まで出かかった驚愕の声を苦労して飲み下し、緋勇がそれを振り払おうと腕を上げる。

「そっかー寒い日はひーちゃんが一番なんだなー」

だが、その手が振り下ろされる事は無かった。せめて無様によろけぬよう、確りと足を踏み締める。
 まとわり付く体温が、緋勇の攻撃性にも似た何かをしきりに刺激した。無言でその何かに耐える緋勇を、美里と醍醐がじゃれ合う子猫を見詰める目で見ている。「甘やかしちゃ駄目だよ」などと厳しくも優しい提言をしてくれる桜井に、渾身の精神力を総動員して無表情に頷いた。腹の辺りでぬくまる手に意識の全てを持っていかれそうになりつつも、背中に貼り付いた体温に内臓が沸騰しそうになりつつも、緋勇は背筋を伸ばして真っ直ぐに歩いた。
 焼かれるには、この炎はあまりに温かい。しかし、寄り添うには熱すぎる。どうする事も出来ずに、明日も寒いといい、とか、日本に冬があって良かった、とか、脳裡をよぎる言葉を必死で払い除けながら、緋勇はただ無心に地を踏んだ。

 その夜の巫炎は、常よりもよく燃えたらしい。