脳内で描いていた行動の半分も実行できなかった。空を切り裂いて迫る爪先を辛うじて躱し、追撃に備えて腕を上げる。その時にはもう、二撃目が葉佩の側頭部に触れていた。衝撃を逃がす為に、攻撃とは反対方向に跳ぶ。だが、葉佩の跳躍力を容易く凌駕して、皆守の靴が脳を激しく揺さ振った。着地と同時に転がって距離を取り、棒立ちのように見える皆守を見上げる。
「どうした?もう終わりか?」
そう言って煙を吐き出した皆守は、微笑みを浮かべていた。見憶えがある。何度も見た顔だ。
監視という仕事を、半ば放棄しているように思っていた。暴かれる事を望んでいるからだと、ずっとそう思っていた。自分の愚かさに、葉佩が奥歯を噛み締める。皆守の本当の役目は、監視などではない。排除だ。侵入者に永い眠りを捧げ、静寂を守り続ける。その為の存在だった。その行為が容易く行えるという確信があったからこそ、皆守は葉佩を止めなかったのだ。
涙が溢れた。結局、何も変わらなかった。皆守は微笑みすら浮かべて葉佩を見ている。その瞳に、僅かでも躊躇いが見出せていたら、或いは救われたような気分にでもなっていたかも知れない。
泣き出した葉佩を、皆守が無表情に見詰めている。戦闘を放棄して顔を伏せた葉佩に、ゆっくりと近付く。その靴音も、酷く無表情だ。一寸の揺らぎすら聞こえない。囁くように、いっそ優しげな声音で、皆守が言った。
「悪く思うな」
なんて傲慢な言葉!
葉佩が顔を上げた。皆守が見下ろしている。愚かな子供。憐れな存在。取るに足らない、非力な侵入者。瞳が、音も無く言っていた。此処で死ぬのは、お前が弱いからだ。俺の所為じゃない。葉佩の手から、G26ADが滑り落ちた。
「お前は、悪くないのか」
「これが俺の仕事なんだよ」
「そんなこと訊いてねぇ!お前が悪いって、俺は思っちゃいけないのかよ!」
「好きにしろ」
皆守が左足を浮かせた。ゆっくりと、まるで覚悟を促すように、時間を掛けて構えを作る。葉佩が覚悟を終えようと終えまいと、皆守はその足を振り下ろすのだろう。まるで蜘蛛の巣に捕らわれた蝶を、可哀想だと言って解放する子供のようだ。蜘蛛が飢える事など想像もせずに、それが慈悲だと信じている。
腰に差した小さな刃を、皆守に向けて放った。皆守が、少しだけ驚いた表情を作る。頬を掠めた痛みに、自嘲のように笑った。見慣れたその表情が嘲りだったのだと、葉佩は漸く気付いた。
「この状況で反撃した奴は、お前が初めてだ」
「だったらなんだよ」
「大抵の奴は、泣いて命乞いするか、諦めて目を閉じる」
右腕が、全く上がらない。右膝も、既に体重を支えるだけの力は無い。脈動と同じリズムで激痛を発する体に、葉佩は絶望した。活路を拓けない非力さにではない。目の前の瞳に何の影響も与えられない事に、葉佩は震えた。
「皆守」
「どうした?」
「俺を殺さないで」
「それは出来ない」
「皆守、嫌だ、死にたくない!」
「死ぬんじゃない。眠るんだ」
「やだ!そしたらお前はどうするんだよ!」
「どうもしない」
「嘘だ!だってお前、待ってるって言ったじゃねぇか!」
「待ってたのは、お前じゃなかった」
ああ、失望させてしまった。やっぱり、望んでたんだ。
渇望しながら、絶望しながら、彼はずっと生きてゆくのだろうか。
誰かが《墓》に入る度、夢を見て微笑むのだろうか。
「皆守」
「もう黙れ」
「皆守」
「・・・もう眠れ」
「ごめん、弱くて」
泣きながら見上げる葉佩に悲しそうに笑い、皆守が手を伸ばした。葉佩の髪を撫で、抱き寄せる。そっと首に触れ、皆守はその細い体に手を差し入れた。皮膚、肉、血管、筋、そして骨。溢れた血液は、鮮やかな赤。動脈からの出血だ。温かく濡れた感触に、生命の終わりを思う。
皆守の頬に流れた一筋の涙が、汚れた炎に煽られて消えた。
葉佩にはもう、それを知る術は無い。
そこで目が覚めた。
枝葉の隙間から青空が見える。小鳥の囀りが聞こえる。シュラフを固定していたバンドを解き、葉佩は音を立てて地面に着地した。その瞬間、朝露でぬかるんだ土に足を取られた。踏ん張る気力は残っていなかった。そのまま泥に突っ伏す。空気よりも温かく、柔らかい感触に全身を預けた。泥に濡れる前から下着が濡れていた事は、これでもうバレない。
風呂から上がり、担がれたまま寝室に運ばれ、そのままベッドに引き摺り込まれそうになり、ほうほうの体で逃げ出したのは、昨夜の事だ。微かに残った熱い腕の感触と甘い香りが、葉佩の背筋を震わせる。
まだ寝ているであろう人を思い浮かべ、葉佩は仰向けのまま空を見上げた。
この心臓が止まるのは、死ぬ時ではない。
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