いきなり目が覚めた。空は朝の気配を含みながらも、夜の名残に沈んでいる。枕と毛布の隙間からそれを確認すると、皆守は再び目を閉じて毛布を頭まで引き上げた。

 窓が鳴ったのは、それとほぼ同時だったのか、それとも数分が経過してからなのかは、誰にも分からない。意識を引かれてまたしても目を開けてしまった皆守が窓を見ると、空はまだ朝ではなかった。夜でもなかった。
 控えめなノックの直後に窓が開き、清らかな空気が無遠慮に部屋へと入り込む。夜明け前の風と一緒に入ってきたのは、夜更かしなのか早起きなのかそもそも定期的に寝ているのかも判然としない、主に夜行性の生き物だった。

「皆守!」
「うるせぇ何時だと思ってやがる」
「皆守、来て!」
「いやだ」
「すげぇんだよ!」
「すごくなくていい」
「いいから来いってばぁ!」
「なんで」
「すげぇから!」
「すごくない方がいい」
「じゃあすごくないから!」
「すごくないのか」
「うん、全然すごくない!」
「じゃあ行かなくていいだろ」
「いいから来いよぉ!」

 毛布を引っ張られて、枕も引っ張られて、髪まで引っ張られて、皆守は仕方なく半分だけ目を開けた。泥だらけの葉佩が、ベッドに乗り上げているのが見えた。愛しの寝具を汚された怒りと、それでも布団から出たくないという怠惰が、同時に皆守の胸を刺激する。
 そんな皆守の胸中など知る由もなく、葉佩は頬と鼻を赤くしたまま、皆守を寒風の吹きすさぶ屋外へと誘う。しかしあたたかい寝床よりも魅力的な誘いには思えなかったので、皆守は目を閉じて葉佩に告げた。

「窓を閉めろ」
「あ、うん」
「閉めたら出ていけ」
「閉める前じゃないと出られないよ」
「それもそうだな」
「ねえ皆守ってばー」
「おい乗るな」
「皆守の為にひとつ残しといてやったんだぜ」
「その気持ちだけで充分だ」
「嬉しい?」
「ああ、うん、嬉しい嬉しい」
「なんで二回言うんだよ!」
「だから残さず食え」
「お前、そのなんでもカレーに変換するのやめろよな」
「考えてもみろ」
「何を?」
「たとえば、それがカレーだったら、食べたい」
「・・・うん」
「そういう事だ」
「ど、どういう事だ?」

 皆守は、答えなかった。しかしその沈黙を振り切って、葉佩はなおも訴える。
 とても素敵なものを見つけた。お前にだけは教えてあげる。一緒に行こう。幼い声で語られるのは、うんざりするほど無邪気な言葉だった。その傲慢に気付かない子供は、さも誇らしげに皆守を呼ぶ。

 無視したら、泣くだろうか。唇を噛んで俯いて、無言で部屋を飛び出して、誰にも知られず泣くのだろうか。
 自分にとって素敵なものが、誰かにとっても同様だとは限らない。そんな事実に、気付くだろうか。皆守には魅力的なスパイスが、葉佩には辛すぎる。そういう事だ。
 この子供が感動したほどには、自分は感動しないだろうと、皆守は知っていた。












 知っていたのだが、皆守は寒空の下で葉佩に手を引かれていた。正確には、袖を引かれていた。触れた葉佩の手が冷たくて、そう言ったら彼は手ではなくコートの袖を掴んだのだ。

 わずかに白む東の空には、爪の先のような三日月が浮かんでいる。西には傾いたオリオン。青冽なる天狼星が、うるさいほどに瞬いている。
 殊更に存在を主張するような冬の星が、皆守は嫌いだった。叫ぶように命を燃やす星を見るのが、とても嫌いだった。そして、そんな想像をしてしまう自分が、何よりも嫌いだった。

 葉佩が立ち止まった。なんの変哲もない土の上で皆守を見上げる。褒めてくれと言わんばかりに、その瞳が星よりも強くかがやく。しかし皆守は、その目が具体的に何を期待してかがやいているのか判ぜられなかった。
 疑問を含んで葉佩を見下ろす。皆守のコートの袖を掴んだまま、葉佩が踏み出した。

 ぱきっと音がして、葉佩がそれは嬉しそうに微笑んだ。
 足元を見ると、薄く張った氷が、葉佩の靴底に踏まれて割れている。よく見ると、地面には無残に踏み荒らされた薄氷が散らばっていた。葉佩が、微笑んだまま皆守を見上げる。

「ね?」
「何が」
「面白いだろ?」
「そうか」
「皆守も踏む?」
「俺はいい」
「なんで?」
「お前、踏みたいんだろ」

 ずっとポケットに入れていた右手で、幼い額に触れる。耳も頬も冷たくて、痛々しいかさぶたが皆守の指先を小さく引っ掻く。それなのに葉佩は、まるで春のようにやわらかく笑った。袖を掴んだ小さな手が、ぎゅっと力をこめる。そうしてから、ふいと顔を逸らした。

 でも、皆守に踏んで欲しい。
 恐れと期待を含んで差し出されたささやかな心を、断る術はもうなかった。

 靴底で、心地好い音がする。
 小さな破壊。踏まずとも朝が来れば溶けてなくなる薄い氷を、わざわざ踏んで壊す。無邪気な蹂躙。
 皆守がその快感を体験したと確認して、葉佩は満足したようだ。こんなとこにもあった、と皆守に報告しては、丁寧に靴底で踏みしだく。

「葉佩」
「なに?」
「霜柱もあるぞ」
「あ、ほんとだ」
「これは踏まないのか?」
「これも踏むものなの?」

 葉佩の問いに答える代わりに、皆守は無言でそれを踏んだ。ざくっと音がして、葉佩の瞳がかがやく。俺も踏みたいと言って走り出した葉佩は、瞬く間に氷と霜柱を踏み砕き尽くした。

 朝が来れば、このささやかな罪の証拠は溶けてなくなる。朝が来る前に、二人はその場を後にした。

 新聞紙を敷いて、泥だらけの靴を二足、窓際に置く。
 それが罪の証拠だと、知る者はいない。