大広間の二階からご丁寧にロープがぶら下がっていると気付いたのは、壁を半分ほどよじ登ってからだった。アロマをくゆらしつつ下で待っていた皆守が、不意にふらりと移動してそのロープを手に取って、「こっちの方が早いんじゃないか?」と興味の欠片もなさそうに眠たげな声で言ったのだ。
 登った倍の時間をかけて着地して、葉佩は早く言えよと口中で呟きながらロープを掴んだ。先程は「だるい」とひとこと呟いて動くのをやめた皆守も、今度はどんな気紛れが発動したのか、葉佩のあとに続いた。

 そうして崩れかけた壁の上に到達して、葉佩は小さく舌を打った。遠すぎる。薄暗い空間の向こう側に目を凝らせば何やら怪しげな壺が見えるのだが、足場は途中で崩れ落ちていた。葉佩の身体能力は決して常人に劣るものではないが、物理的制限という超えがたい壁がある。否、この場合は溝か。要するに、幼く小さい葉佩が跳んで超えられる距離ではない。
 背後で、寝言のような声が呟いた。

「遠いな」
「だね」
「無理だろ」
「そうだね」

頷きつつも、葉佩は無意識に距離を測っている。葉佩は幼く無知であるが、自分の能力を知らぬ愚か者ではない。可能と不可能を瞬時に選り分け、可能だけを行う。それが葉佩の知る生き残り方だった。愚かではないから、葉佩は今も生きている。それを誇るほどには、この子供は愚かだった。

 今にも崩れ落ちそうな足場の縁でゆらゆらしている皆守に視線を移す。まさか落ちはしないだろうと思うが、どうにも気になって仕様がない。寝惚けたまま歩くには向かない場所だ。不安定なその立ち姿にたえかねて、葉佩が声を投げた。

「皆守、落ちるなよ」
「ん、ああ」
「ってゆーか起きてる?」
「うん、それとなく」
「そこ崩れてる!」
「まあ、落ちても死にはしないだろ」
「いやでも石だよ下は。打ち所悪かったらやばいよ」
「一理あるな」
「いや、いちりってゆーか」
「しかしそれは、無数にある理の中の一にすぎない」
「お前なに言ってんの?」
「あ、あんな所にカレーが」
「それ幻覚!」
「目に見えるもの全てが幻覚じゃないと、誰が証明できる?」
「どーでもいいから!うろうろすんな!」
「俺が死んだら嬉しいんじゃないのか?」

夢見るような口調でそんな事を言われて、喉がかっと熱くなる。込み上げたのが怒りなのか悲しみなのかも判じかね、そのような激情を言葉に変換する方法も知らず、葉佩は唇を噛んだ。
 死んでしまえと心にもない悪態を吐き捨て、目を離せずにいたその男から無理矢理に視線を引き剥がす。それでも完全に視界の外に追いやるのは不可能で、危うく綱を渡るように揺れる人を盗み見た。ふわりと、その肩が揺れる。

 みなかみ、と発したつもりの声は、現実に声とはならなかった。全身の血が逆流する音を聞き、刹那にも満たないほどの間をおいてその原因に思い至る。
 靴が、床に接していない。背後でゆらめく人に気を取られて、自分の足場を確認していなかったのだ。皆守が口を開けた。アロマパイプを取り落とすほど慌てて、葉佩に手を差し出す。硬くて冷たい綺麗な手が、葉佩の腕を掴んだ。

 結果、葉佩と皆守はもつれあって落下した。












 二人よりも先に落下していたアロマを拾い上げ、皆守はそれに火を点けるよりまずは葉佩を睨み付けた。葉佩は石の床に突っ伏して、身じろぎ一つしない。葉佩は恐怖していた。
 体は痛むが、致命的な怪我ではないと分かった。それは皆守が落下しながら壁を蹴って速度を抑えてくれたからで、自分の能力ゆえではないという事も分かっていた。あの時、この怠惰な男が驚くべき瞬発力で腕を引いてくれなかったら、きっともっと重大な怪我を負っていた。
 胸の辺りを押さえて、葉佩が小さな体を更に小さくしてうずくまる。

「おい糞餓鬼」
「・・・」
「俺になんか言う事はないのか?」
「・・・ごめん」
「おう」
「ごめんなさい」
「うん、まあ次からは気を付けろ」

 込み上げるように涙が出てきた。こらえようと奥歯を噛み締めたが、それはあえなく雫となって床に落ちる。
 葉佩にとって、このような失態は産まれて初めてだった。あんな高さから落ちた事なんて、今まで一度もない。死なないように注意を払うのは当たり前の事で、それができなければ死ぬのだから、つまりそのように迂闊な人間だったら葉佩はとっくに死んでいただろう。
 だが葉佩が恐れたのは、眼前に見えた自身の死ではない。落下は今も続いているのだと思い知り、その事実にこそ恐怖していた。

「死ぬかと思った」
「俺がいなかったら死んでたぞ」
「皆守がいなかったら皆守も死なないからいいよ」
「あ?」

皆守が眉を寄せ、思い出したようにアロマに火を点ける。カチリと音がして、ジッポの蓋が閉じられた。白い頬を映した小さな火が見えなくなる。それが不吉な暗喩のように、幼い心をざわめかせた。
 どうして今まで、何も感じずにいられたのだろう。恐怖に押し潰された肺が、情けない音を立てている。それを止める術も見出せず、葉佩はただ恐怖して泣いた。
 この道の先には、彼の死体か、あるいは自分の死体か、どちらかが転がっているのだ。そんな事は知っていたはずなのに、どうして今更こんな気持ちになるのか。












 葉佩はまだ床でうずくまっている。そんなにショックだったのかと考え、慰めてやろうかと数秒だけ言葉を探し、しかし皆守は途中で探索を放棄した。
 この子供に「生きていて良かった」などと、どうして言えよう。遠くない未来に誰にも知られず地下でひっそりと死を迎えるであろうこの子供に、生きていて良かったなどと残酷な言葉を、どうして。

「死にそうになった事ぐらいあるだろ」
「あるけどさ」
「じゃあいつまでも泣いてんじゃねぇよ鬱陶しい」
「泣いてねぇよ」

皆守が溜息をついた。葉佩が顔を逸らしたまま、のろのろと身を起こす。
 あの時もし引き寄せなかったら、この子供は死んでいただろうか。それほどの高さではないと安易に結論付け、葉佩の手がわずかに震えていると気付きはしたが無視して、手を差し伸べようとしてためらい、結局は何事も為し得ず、皆守は小さな背中から目を逸らした。

「怖かった」
「そうか」
「まだ怖い」
「だろうな」
「なんでお前は平気なんだよ」

責めるように問われて、皆守が視線をさまよわせる。
 皆守の目には、落下地点までの距離が見えていた。床に到達するまで何秒かかるのか、どのような姿勢で接地すれば落下の衝撃がやわらぐのか、すべて見えていた。それは産まれ持った視力ゆえでもあるし、後に与えられた能力ゆえでもある。後者が少しだけ大きいだろうか。
 脳裡をよぎったそのような言葉を、しかし皆守は口にせず黙した。葉佩が感じた恐怖がそのようなものではないと、漠然と察していたからだ。しかしそれを指摘する意思は、皆守には存在しない。

 それを口にすれば、子供は更に恐れるだろう。いつか永遠に失う時を想像して、恐怖に身をすくませるだろう。決定された自分の道を嘆くだろう。敷かれた道に抗う術さえ持たない、自分の無力を嘆くだろう。皆守がやっとの思いで諦めたものを、再び眼前に、とても残酷な形で現すだろう。
 だから皆守は黙して、ただぼんやりと天井の薄闇を見詰めていた。












 虚空を見詰めて返事もしない皆守から言葉を得るのは諦めて、葉佩が頬を拭う。無様に震えている手を強く握り、嗚咽をこらえて息を止める。まだ動悸が治まらない。膝に力が入らない。

 死が米神をかすめる戦闘でも、ここまで恐怖した記憶はなかった。
 恐れるべきは死ではなく、真実に到達する意思の喪失だ。葉佩はそのように教えられ、またそれを信じていた。疑えば餌を貰えなくなる。そうしたら生きていられない。だから葉佩は、自分が死を恐れていないのだと考えていた。矛盾にも気付かず、ただ一心にそう信じていた。
 そして葉佩は、自分が与えられる餌だけで生きているのではないと、この時に初めて知った。恐ろしかった。いつの間にか変質して、それを自覚しない事が何より恐ろしい。

「皆守」
「ん?」
「えっと、どっか痛いとこない?」
「あるって言ったら、何をしてくれるんだ?」

意地の悪い事を言う、眠たげな顔を睨む。それなのに、無造作に髪を撫でる手は悔しいほど優しいくて、くすぐったくて、無性にはがゆい。油断すると緩みそうになる頬を苦労して引き締め、その手を乱雑に振り払う。そうすると、皆守が少しだけ唇の端を持ち上げた。

 落ちたと思ったのだが、どうやらここはまだ底ではないようだ。
 その証拠に、葉佩はまた落ちた。