屋上に上がってから、雨が降っている事に気付いた。朝は降っていなかったのに、と空を睨んでも、水滴はあとからあとから落ちてくる。一つ溜息を吐き出し、皆守は別の寝床に向かおうと踵を返した。
 雨音は嫌いではない。傘に雨が当たる感触も、濡れた景色を眺めるのも嫌いではない。雨の日の屋内は水底のようで心地好いし、喧騒もどこか遠くなるような気がする。
 吐き出した紫煙を泳ぐように歩き、辿り着いた保健室で劉に頭痛がするとかなんとか呟いてベッドに潜り込んだ。しかし、いつもなら程なくして落ちてくる睡魔が、今日は何故か訪れない。目を閉じても寝返りを打っても羊を数えても、一向に眠れない。しばらくは未練がましくシーツと戯れていたが、やがてそれにも飽きて保健室を辞した。
 逃避先を見失った苛立ちと、その理由が形而下に現れそうになったので、劉の軽口には反応できなかった。

 雨が嫌いだと言っていた子供を思い出しそうになって、思考を止めようとアロマに火を点ける。
 濡れるし、火薬は湿気るし、足場は悪くなるし、寒いし。並べられた不満が、追い払っても脳裡をうろうろと行き来する。この雨で、濡れてはいないだろうか。寒さに震えてはいないだろうか。そんな事を考えてしまう自分を持て余し、どうせあの子供の為にできる事などないのだと、いつもの結論に辿り着いてまた溜息をつく。
 人気のない廊下でふと窓の外を見るが、ガラス越しに手を振る姿は見えない。地下に潜っているのだろうか。それとも、皆守には与り知らぬ秘密の場所にいるのだろうか。浮かんだ仮説がなんだか面白くなくて、しかしそれを覆す新説は発見できず、苛立ちがもやもやと胸中を漂う。
 仕方なく教室に戻ったが、やはり睡魔は訪れない。眉間に皺を寄せて黒板を睨む皆守に、教員が少し気味悪そうにしていた。

 放課後になっても雨はやまず、朝には降っていなかったのだから傘も持っておらず、皆守は霧雨のそぼ降る中を無言で歩いた。俯きがちになってしまったのは、雨が降っていたからだ。
 濡れた服を着替えるついでに風呂に入り、今度こそ眠ろうと決意してベッドに入る。外は雨で、ベッドはあたたかく、日は沈んだ。これで眠れなかったら、きっと心の病気に違いない。保険医に相談するべきか。いや、しないけど。












 何度目かの寝返りを打ち、何本目かのアロマに火を点けた。雨音が耳につく。今夜は墓地も静かだ。窓を叩く音もしない。
 特に意味はないが、カーテンを開けてみた。目視が可能な範囲に人の気配はない。別に、誰かを探している訳ではないのだが。口中で呟いた独り言も、声にはならずに夜に吸い込まれていった。

 更にアロマを費やして時間を潰し、それでも降りてこない睡魔に舌を打つ。このままでは、一睡もせずに朝になってしまう。そうしたら昼間に眠くなってしまう。しかしそれは、いつもの事だ。ならば問題はない。いや、でも眠れないのは問題だ。
 すれ違っては衝突する言葉たちをぼんやりと遊ばせながら、雨音を聞く。濡れてはいないか、凍えてはいないか。振り払うのも億劫になって、浮かぶ言葉が漂うのを眺める。あたたかいベッドなら、ここにあるぞ。

 窓が鳴ったのは、アロマを消して再びベッドに潜り込んだのと同時だった。思わず跳ね起きて駆け寄りそうになったが、体はその動作を拒否していたので事なきを得た。怠惰な自分に胸を撫で下ろし、息をひそめる。

「あ、よかった起きてた」

いや、どう見ても寝てるだろう。声には出さず返しながら、そういえば鍵をかけ忘れたと白々しく後悔する。
 窓が開き、冷気とともに雨音が室内に侵入した。だが子供の気配は窓辺から動こうとしない。抑えられた息遣いと、その視線までもを感じるような気がして、どうにも落ち着かない。背を向けたのは失策だったか。
 どうして、いつものように部屋に入らないのだろう。そんな疑問もあるにはあったが、振り向くと負ける勝負がいつの間にか始まってしまったので振り向けない。仕方なく、耳を澄まして気配に集中する。

「皆守、濡れなかった?」
「・・・」
「俺、やっぱ雨って嫌い」
「・・・」
「寒いし、冷たいし」

どうやら濡れた体を気にして、部屋への立ち入りを遠慮しているようだ。時折、実にどうでもいい遠慮をする子供だ。本当に必要な気遣いはせず、こんなにも些細な、くだらない配慮をする。
 皆守が負けを認めて振り向くと、葉佩は一瞬びくりと肩を揺らし、頬を引き攣らせた。それは無視して、端的に告げてやる。

「入ればいいだろう」
「え、いや、でも濡れてるし」
「タオルぐらい持ってる」
「でも、あの、拭くのめんどくさいし」
「その程度の労力を惜しんで《宝探し屋》が勤まると思ってんのか」
「お前、《宝探し屋》をなんだと思ってんの?」
「いいから入れ。入らないなら窓を閉めろ」
「だって皆守、怒ってる」
「怒ってない」
「ぜってぇ嘘だ。すげぇ不機嫌だ」

何故か責めるように言われて、座標軸を失って揺れていた機嫌が傾くのを自覚した。葉佩が、後退しようと踵を上げてから我が身のある場所に思い至り、せめて精神だけでも逃げ出そうと視線を空に向ける。その仕草で、皆守は思い当たった。

「怪我してるのか」
「いや、えーと、してない」
「そうか」

頷いて、葉佩が拍子抜けして息を吐いたその瞬間、油断した子供の襟首を引っ掴んで部屋に引きずり入れた。葉佩が抵抗を忘れている隙に、背中から衣服を捲り上げる。葉佩が息を呑んだ。痛みにも泣かないこの子供の泣き顔を、皆守はうんざりするほど知っている。
 現れた負傷箇所を確認し、やっぱり傷って気持ち悪いな、と再確認して皆守は満足した。解放された葉佩は、何故か泣きそうになりながらこちらを睨んでいる。古い傷は、銃創のように見えた。

 騒ぎ立てられるよりはマシかと考え、座り込んで絶望と幸福という相反する感情を表現せんと試みて失敗したような顔をしている葉佩はそのままにして、皆守はタオルを探そうと抽斗を開けた。
 記憶していたとおりの場所に目的の物を発見して、それをまだ床に座り込んでいる葉佩に投げる。葉佩は最小限の動きでそれを躱し、タオルがふわりと床に落ちてから拾い上げた。飛んでくる物を不用意に受けたりしないのだと、皆守は彼の行動をそのように理解した。

「拭いたか?」
「うん」
「嘘つけ」
「ちゃんと拭いたよ!」
「どこを」
「え、床」

葉佩が手に持っていたタオルを奪い取り、もう一枚を頭から被せる。床を拭いたタオルは明日にでも洗濯しようと、部屋の隅の「要洗濯物スペース」と今まさに決定された位置に放り投げた。葉佩の頭を押さえつけながら、動くなと低く凄む。上着はどうやら防水性のようだ。中にまでは染み込んでいなかった。
 ひととおり葉佩を拭き終えて、達成感よりも徒労感に息を吐く。ほぼ同時に、葉佩も深く息を吐いた。

「まずは原因、それから結果だ」
「ああ、俺が濡れてるのが原因。その結果として床が濡れた、って事ね」

言葉足らずの自覚があった皆守は、いともたやすく理解を示した子供を見下ろし、笑みを浮かべようとして失敗した。伝えたかったのは本当はもっと違う言葉だったのだが、まるで意思が過たず伝わったように錯覚する。つまり、伝えたかった言葉がどのようなものだったのか、思い出せなくなった。
 怪我をして雨に濡れて凍えている子供に憐憫を覚えたなどと、たとえ認識しても皆守は口にしないだろうが。

「ねえ皆守」
「という訳で、俺は寝る」
「俺さ、雨って嫌いだったんだ」
「知ってる」
「え、なんで知ってんの?」
「前に聞いた」
「そうだっけ、言ったっけ?」
「憶えてないのか」
「ごめん忘れた」
「俺は憶えてたのに」

葉佩が不思議そうにこちらを見て、次に天井を見上げ、窓の外を見て、自分の手を見下ろして、また皆守を見た。その動作が終わってからも、葉佩は無言で、何か信じられないものを見るような目付きで皆守を見詰めた。
 もしかしたら、なんというか、物分かりの悪い女が拗ねているようだと感じる人もいるかも知れない物言いになってしまったような気がしないでもない。「わたしはこんなにも貴方が好きだ」と迂遠に主張するような、そんな言葉に聞こえてしまったらちょっと嫌だ。しかも拡大解釈して、いつも彼の事を考えていると誤解されたら非常に不愉快だ。

「ええと、それってさ」
「違う」
「え、違うの?」
「違う」
「なんだそっか、喜んで損した」
「人生なんてそんなもんだ」

そう応えると、葉佩が脱力してベッドに突っ伏した。うつ伏せなのは、汚れた背中をシーツに触れさせない配慮だろうか。無防備に晒された背中を、意味はないが捲り上げてみた。小さな体がビクリと震え、疑問を含んだ視線が上がる。

 どす黒く変色した皮膚が、まず目に入った。範囲は広くないが、刺傷は深いようだ。皆守が思い浮かべたのは、用途も知れぬ枝のような突起を多く有する刀という名の武器だった。それをどこで見たのか、あるいは、本当は見ていないのか。あやふやなまま、追憶を放棄する。この幼い侵入者は、深奥に近い部分にまで到達しているのだという情報が、脳裡の片隅の更に端でかちりと揺れたがすぐに静かになった。
 古傷は、銃創のように見えた。それに触れようとした瞬間、葉佩が身を起こした。

「何がしたいのお前」
「いや、痛そうだなーと」
「思うだけ?」
「まあ、基本そうだな」
「痛くないよ」
「そうか?」
「うん、だからそんな顔すんな」

それに返す言葉が見付からなかったので、何も言わずに葉佩の頭を撫でる。冷たい髪が、しっとりと指に絡まった。葉佩が目を細めて、再びベッドに突っ伏す。捲くり上がったシャツをそっと戻してやると、見たければ見ていいよ、と葉佩が言った。

「見たくはない」
「もう痛くないよ」
「見てるこっちが痛い」
「皆守って、なんでそうなんだろう」
「俺が、どうだって?」

取り立てて興味があった訳ではないが、惰性で発せられた会話の続きとしての問いは、しかし返答を得られず雨音に消えた。
 二人が同時に雨音を認識した。それは二人が同時に沈黙したからで、特に意味のある事象ではない。ただ、二人は同時に同じ雨音を聞き、ほぼ同時に外は雨が降っている事を思い出した。

「雨、やむまでいていい?」
「やんだら行くのか?」
「行くよ」
「どこに?」
「ねえ皆守、やっぱ俺、雨って嫌いじゃないよ」

やはり発せられた問いには答えず、葉佩が薄く笑った。雨風を避けるねぐらも持たず、冷えた体をあたためる手段もなく、濡れそぼって遠慮がちに窓を叩く事しかできない子供が、雨が嫌いではないと言う。

 背中の古傷は、銃創だった。つまりこの子供は、もっと幼い頃に背後から撃たれたのだ。という事は当然、この子供を背後から撃った人間が存在する。それは思考するまでもなく、認知とほぼ同時に導き出される程度の情報で、しかし皆守はそれを胸中で言葉にした。

「だって皆守が優しいから」

 どうして自分は彼を助けられないのだろう。
 その夜から、皆守は雨が嫌いになった。