九つの怪談があると噂される天香學園に、新たなる謎が誕生したらしい。皆守がその噂を耳にしたのは、昼休みが終わる数分前だった。
皆守がまどろんでいた意識を取り戻したのと、七瀬が「そういえば八千穂さん、知ってますか?」と言ったのがほぼ同時だったのだ。教室を出て行こうとする足を止めて、七瀬が少しだけ声をひそめて友人の耳に囁く。
いわく、図書室に子供の幽霊が出る。
その子供は、ある者の目撃証言では本棚の上に寝そべって昆虫図鑑を眺めていたという。
またある者の目撃証言では、日当たりの良い窓辺でうたた寝をしていた。
床に座り込んで携帯ゲーム機を熱心に操作していた。
幼い頬には似合わない物憂げな表情で、じっと料理の本を見詰めていた。
証言は様々で、しかし二つの共通している事項がある。その子供に近づこうとすると、ふっと煙のように消えてしまうのだという。その際、窓が開いているというのが二つ目の共通項なのだが、直後に窓から地上を見下ろしても、やはりその姿は確認できないそうだ。
皆守は、聞かなかった事にした。
午後の授業が始まる前に、皆守は屋上にやって来た。特に理由があった訳ではない。ただ、さざめく教室に居続ける事が不快だったからだ。他に理由などない。噂になっている子供が気になった訳ではない。そもそも、ここに来ても必ず会えるとは限らない。噂どおり図書室にいるのかも知れないし、皆守には与り知らぬ秘密の場所にいるのかも知れない。だから、ここに来た事に理由などない。
胸中で誰にともなく主張しながらドアを開ける。目に入ったのは、フェンスに座ってぼんやりと空を眺める子供の背中。視線は空に向けたまま、子供が「みなかみ」と呟いた。
期待などしていなかった。名を呼んだ子供にもそう伝えようと、眉をしかめて舌を打つ。皆守の露骨な態度に怯む様子もなく、葉佩がやはり空を見たまま言った。
「トンボ、いないね」
「そろそろ冬だからな」
「冬になると死ぬんだってさ」
「らしいな」
越冬する種類もいたか、などと記憶を探るが、目当ての知識は見当たらなかったので諦めた。黙りこくってしまった葉佩を、ちらりと見遣る。彼が嬉しそうにトンボを追いかけていたのは、つい数週間前の事だ。飛び交うトンボを撃ち落とそうとしたのを殴り倒して止めたのも、遠い記憶ではない。
皆守の思考が逸れてきた事など知る由もなく、葉佩が独り言のような音量で続ける。
「図鑑に書いてあった」
「ほお」
「きれーだったのに」
「秋になったらまた来るだろ」
「秋になったら?」
と言いながら、フェンスに座ったまま風に煽られたように、葉佩が不安定な動作で上体を傾がせた。彼に限って落ちはしないと分かっているが、皆守の心臓にひやりと不快な温度の水が流れ込んだ。咄嗟にその背中に手を伸ばしそうになって、慌てて引っ込める。あまりに無意味な自分の行動にうんざりして、今度は葉佩に聞こえないように舌を打った。
葉佩は、まだぼんやりと空を見ている。トンボを探しているのだろうか。もういないのに。待っていても、あの綺麗な生き物は、もうどこにも。
「葉佩お前、図書室で目撃されてるぞ」
「うん、そうらしいね」
「しかも幽霊とか言われてるぞ」
「え、そーなの?」
「本が好きで自殺した子供の幽霊」
「本好きと自殺の因果関係は?」
「そんなの俺に訊かれても」
「それもそーだね」
給水塔に寄りかかりながら投げられた皆守の声に、葉佩はどのような感情も含まずに応えた。
この子供は、《學園》に潜入した異分子だ。隠された真実を暴き、それを奪おうとする略奪者だ。執行委員の中には心を開いて協力すら申し出る者もあるようだが、基本的に排除されるべき対象だ。そんな存在が公然と噂になるのは、忌避すべき事態なのではないか。存在が知れ渡れば、この小さな《宝探し屋》は為す術もなく排斥されてしまうだろう。保護という名目で捕らわれるか、そこまでいかなくても、この場所にはいられなくなるのは明らかだ。葉佩は、それでもいいと思っているのだろうか。
無為に漂うばかりの思考がどこかに辿り着く前に、皆守は外的刺激を受けてそれを中断せざるを得なくなった。つまり、葉佩が上に乗ってきた。
「皆守、俺がいなくなったら寂しい?」
「重い。乗るな」
「心配すんなよ」
「お前は俺の内臓を心配しろ。あと骨も」
「俺はどこにも行かないから、当分は」
「何をどう心配してるように見えたんだ」
「俺が見つかってここにいられなくなったら、寂しい?」
察しが良すぎるのも考え物だ。しかも途中でどうにか止めた思考の続きすら、さらっと言ってくれやがった。
だが皆守は、それに肯定も否定も返さない。正確には、返せない。たとえば、肯定したとしよう。寂しいのだと認めて、それでどうなる。葉佩は《宝探し屋》だ。墓守の手にかかって死ぬか、全てに勝って去ってゆくか、どちらかの道しか有り得ない。いかなる言葉も無意味だ。悲しくなるほどに。それは、たとえ否定したところで変わらない事実であり、皆守も葉佩もそれを知っている。
だから、葉佩の発言は、どうしようもないほど無意味なのだ。寂しかったところで、喪失は必ず訪れる。この子供のあまりの愚かさに、皆守は思わず笑みを浮かべた。いつものあからさまな嘲笑ではなく、柔らかく滲むような、哀しい微笑みを。
「・・・なにその表情」
「いや、なんか可哀相になってきた」
「え、自分が?」
「なんでだ、お前だろ」
「俺が、なんで可哀相なんだよ」
「自覚なしか、ああ、やばい泣けてきた」
「なんでだよ!泣くなよドキドキするだろ!」
丁度良い高さにあった頭を撫でながら目頭を押さえると、葉佩が物凄い勢いで後ずさった。
この子供は、何を欲しているのだろう。振り払われた手を上着で拭きながら(葉佩の額が汗ばんでいたから)、皆守は込み上げたものを煙に溶かして吐き出した。気味が悪そうにそれを見ていた葉佩は、まだ胡乱な目付きで注意深く距離を測っている。皆守が手を伸ばしても届かないギリギリの距離だ。だから皆守は手を伸ばさず、給水塔にもたれかかって目を閉じた。
目を閉じて動かなくなった皆守に、葉佩が膝立ちでにじり寄る。そっと触れてきた手は、少しだけためらうように皆守の髪を撫でてから、すぐに離れていった。
「秋になったら、トンボは戻ってくる?」
「戻っては、来ないだろうな」
「ああそうか、別の固体がまた産まれるんだ」
「お前、あんまり人前に出るなよ」
「なんで?」
「潜入してるのがバレてもいいのか?」
そう言って、皆守は薄く目を開いた。それは、決して葉佩の顔を見たかったからではない。目蓋の裏を見ているのに飽きただけだ。しかし目に入ってしまった葉佩の表情は、皆守を激しく後悔させた。
トンボが好きだと言った葉佩は、しかし実際にそれを目にして驚いていた。群れを成して空を飛ぶトンボに、歓声を上げて手を伸ばした。まるで初めて見たようだ、と皆守が揶揄するつもりで呟くと、無邪気な肯定が返ったのだ。
本物は初めて見た。そう言って笑った顔と、同じ表情で葉佩は笑っている。
「皆守、俺はね、《宝探し屋》なんだ」
「知ってる」
「お宝ゲットしたら次のとこに行くんだよ」
「知ってる」
「ずっと一緒にはいられないんだ」
「俺をばかにしてんのか」
「皆守」
「もう黙れお前」
「来年は一緒にトンボ見に行こうな」
「どこに」
問いには答えず、葉佩は微笑んだ。泣きそうな顔だった。いっそ子供のように泣いていれば、抱き締めてやれたのに。
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