葉佩が眠りについたのは夜明け前だった。神の名で呼ばれる異形を殺し、校庭の隅に設置されている手洗い場で全身の汚れを落とし、皆守の部屋の明かりが消えている事を確認して、いつものように自分の寝床に戻った。穴場だった用具室や機関室に変な男が出没するので、頻繁には使用できなくなったのが最近の悩みだ。探偵を自称しているが、葉佩にはそれが嘘だと一目で分かった。それはさておき、そうして葉佩はいつものように浅い眠りに落ちた。
 いつもと違ったのは、眠りについてからだった。夢を見たのだ。












 跳ね起きた勢いで危うく地面に激突しそうになり、辛うじて枝に取りすがって落下を免れたが、心臓は夢の中から引き続き恐ろしいまでの速さで脈打っていた。目覚める一瞬前に見た映像が、今まさに眼前で起こっている出来事のように精神を苛む。
 眠っていたのはほんの短い時間だったようで、朝はまだ訪れていない。静まり返った空間に、自分の呼気と心音が鳴り響く。葉佩はたまらなくなって寝床を抜け出した。
 そのまま皆守の部屋に侵入して、ベッドで毛布にくるまった皆守を見下ろして、葉佩は自分が先程の夢から逃げ切っていないのだと理解した。足がすくむ。呼吸が震える。目を閉じたまま微動だにしない人が、訳も分からず恐ろしい。

「みなかみ」

叫ぼうとしたが、声はかすれて音にならなかった。それなのに、皆守は薄く目を開いて葉佩を見上げた。たったそれだけの事で、脱力するほど安堵したのは何故だろう。

「皆守」
「何時だと思ってる」
「何時でもお前には関係ねぇだろ」
「殴られたいのか」
「殴らないで」
「何か用か。用もないのに起こすな」
「え、俺まだ返事してない」
「そうか、まあでも用はないんだろ?」
「あるよ、用、えっと、あのね」

不機嫌そうな目が、ほとんど睨むようにして葉佩を見据える。それが憎しみに感じられて、葉佩は慌てて言葉を探した。睡眠を阻害したのだ。カレーにも匹敵するほどの重要な用件を出さなければ、彼は失望してしまう。とはいえ、葉佩は彼を納得させるような急用を持っていなかった。勿論、カレーの材料も持っていない。怖い夢を見たから心細くなって会いに来た、などと言ったら、間違いなく冷ややかな目で睨まれるだろう。踵落としを食らうかも知れない。それは嫌だ。
 葉佩の言葉を待たず、皆守が再び目を閉じる。溺れる者が呼吸を求めるように、葉佩はその瞳が完全に閉ざされる前に手を伸ばした。

「皆守!」
「うるせぇ」
「起きて、寝ないで」
「なんで」
「理由なんてどうでもいいだろ」
「ほお、理由もなく俺の眠りを阻害したのか」
「あ、いや、えーと、違うよ、あのね」

葉佩がすがるように掴んだ毛布を、皆守が引き戻す。行かないでと懇願するような気持ちで、葉佩は毛布を掴んだ手に力をこめた。しかし薄情なぬくもりは、あっさりと葉佩の手をすり抜けて持ち主の体を覆う。皆守が小さく息をついた。
 眠ってしまう。こんな静かで暗い空間に、一人で取り残されてしまう。闇と沈黙が怖いなんて、以前の葉佩には有り得ない感情だ。ずっと闇を見詰めていた。きっとこれからも。葉佩は今でもそう信じている。だからこの恐慌がどこから来るのか、さっぱり見当もつかなかった。

「皆守」
「黙れ」
「黙ったら寝るだろお前」
「寝たいから黙れと言ってるんだ」
「寝るなよ」
「うるせぇ永眠させるぞ糞餓鬼」
「なんでそんな喧嘩腰なんだよ」
「睡眠を妨害して、更に温厚な態度まで求めるのか」
「だって皆守、あ、おい寝るなってば!」
「叩き出すぞ」
「やだ」

毛布の隙間から、皆守が物凄い目で睨んできた。底冷えするような威圧感だが、その目が閉ざされて沈黙されるよりは嬉しい。彼が眠っているのを見るのは嫌いではなかったが、今夜に限ってそれは葉佩にとって恐怖でしかなかった。
 夢の残像がちらつく。足元から怖気が這い上がる。喉まで上がってきた涙をこらえて、葉佩は恐る恐る手を伸ばした。毛布の端を掴み、床に膝を付き、祈りの言葉のように彼の名を声にする。大いなる救いなど信じていないのに、それは敬虔な信者がするように畏れを含んだ動作だった。
 真夜中に部屋を訪れて、彼の安息を奪い取る。怒られても仕方ない行為だ。蹴られても、蔑まれても、嫌われても仕方ない。後悔のようにそう思ったが、掴んだ毛布から手を離すのは不可能だった。深々と冷えた部屋で、葉佩は自分が孤独であるという事実を嘆き声を殺して泣いた。

 不意に、苛立たしげな溜息が聞こえた。ベッドにすがって泣いている自分の状況を思い出し、葉佩が慌てて身を起こす。濡れた頬を袖でぬぐい、音を立てずに、しかし素早く、ベッドから跳びすさって壁際まで後退する。
 毛布を被り、葉佩が立っているのとは反対の壁に顔を向けたまま、皆守が囁くような音量で言った。

「なんで逃げてんだ」
「にっ逃げてねーよ」
「寒いのか?」
「いや別に」
「朝方が一番冷えるんだ」

独り言のように(事実、葉佩の声は無視していたのだから独り言だったのだろう)呟き、皆守が窓に視線を向けた。葉佩が部屋に立ち入る際にカーテンを開けたので、窓からは空が見える。

 群青色の空は、もう夜ではなかった。

 皆守が体の向きを変えて、毛布の端を少しだけ上げた。その動作が何を目的としているのか判じかねて、葉佩が注意深くそれを見詰める。すると、またしても凄絶な瞳で睨まれた。どうして寝起きの彼はこんなに怖いのだろう。訳も分からずおののいて、葉佩は壁に背を付けたまま途方に暮れた。

「早くしろ」
「なっななな何を?」
「寒いんだよ」
「だろーね」

皆守の目が、氷点を越えて更に下降した。あまりに冷たい物に触れると、まるで灼熱のように感じられるのだと、葉佩はぼんやりと思い出す。その情報が、この状況で役に立つのだろうか。否、きっと意味はない。しかし有効な解答も発見できず、葉佩はどうしていいか分からないままその空洞にじっと目を凝らした。

「入らないのか」

葉佩が解答を探し当てるより早く、皆守の口が小さな声で告げる。
 なんだその優しい言動。お前は本当に皆守か。信じられないと理性が判断する前に、葉佩はベッドに飛び込んだ。勿論、招いてくれた人にぶつかるような無作法な真似はしない。自分の為に空けられたささやかな隙間に、なめらかに滑り込む。思わず手を伸ばして触れた体がまるで炎のように熱く感じられて、葉佩はようやく自分が冷えきっていた事に気づいた。

「冷たいな」
「うんごめん、すぐあったまる」
「早くしろ。寒い」
「うん」

小さな身を包んだぬくもりと芳香に、何故かまた喉が詰まる。目元まで込み上げたそれが溢れてしまわぬよう、葉佩は薄い胸に頬をすり寄せた。髪を無造作にかき回されて、腕と毛布に全身を包まれる。

「怖い夢見たんだ」
「ほお」
「だから来た」
「そうか、どうでもいいな」
「皆守」
「・・・」
「寝るの早い!」
「なんだようるせぇな」
「ええと、あのさ」
「・・・」
「だから寝るなよ!」
「叩き出すぞ糞餓鬼」
「ごめんなさい」
「おとなしくしてろ」
「うん」

 あんなにも心臓を圧迫していた恐怖が、一瞬にして溶かされてしまった。訳の分からない衝動も、戦慄も、寒気も、跡形もなく消え去った。ほんの数秒前まで脳裡に貼り付いていた悪夢の残骸も、気づけば綺麗にはがれ落ちている。
 それが何故だかは分からなかったが、次に恐慌状態に陥ったら、皆守に会いに来ようと葉佩は考えた。悪夢が彼の姿だったような気もするが、粗方の記憶は意識の深奥に流れ落ちてしまったから確証はない。

 小さな体を包むぬくもりが、本質的には寒風よりも残酷なものだと、葉佩はまだ理解していない。
 声さえ押し潰すほどの恐慌を、この幼い《宝探し屋》は既に知っていた。それは主に自分の危険を察知すると起こる状態異常で、それを取り除くには、安定した足場と、吸い込んでも苦痛を感じない空気が必要だという事も、もう知っていた。だが、目を閉じて動かない彼の姿が悪夢とよく似ていた、という事実が意味するところを、この子供は知らない。
 ましてや無防備な寝息に耳をくすぐられて、どうすればいいのかなんて。