教員の声を聞きながら、唐突にピアノを弾きたくなった。あの楽譜を取り戻して以来、取手は頻繁にそんな衝動に襲われた。指が鍵盤に落ちる瞬間を夢想して、心底のどこからともなく溢れ出る音色に耳を澄ます。終業の鐘が鳴るや否や、取手は音楽室に向かった。
 夢中で音を連ねていると、不意に悲しくなる瞬間がある。過去の様々な記憶が浮かび上がり、取手はたまらなくなって手を止めた。思い出してしまった幼い頃の自分を振り払おうと、深く呼吸を繰り返す。

「もう終わり?」

予期せぬ声に、思わず肩がビクリと震えた。驚いた顔を隠す余裕もなく視線を上げれば、部屋の隅に立っていた葉佩と目が合った。いつの間に、と問うより早く、こんな姿を見られた羞恥に頬が熱くなる。
 この子供も、自分の幼さを憎んで涙を流す時があるのだろうか。よぎった疑問はしかし明確な言葉にならず、出てきた言葉はどこか言い訳じみていた。

「今日は調子が悪いみたいだ」
「そうか」
「ごめん」
「謝るなよ」
「うん」
「もう弾かねぇの?」
「どうだろう」
「俺は聴きたい」
「ありがとう」

彼が何を思ってそんな優しい言葉をくれたのかは分からなかったが、取手は素直に喜んで礼を言った。本心から望んでくれたのなら嬉しいけど、気を遣わせてしまったのなら心苦しい。だが礼を言った直後にそんな考えが浮かび上がってきて、卑屈な自分にまた憂鬱が積もる。
 葉佩は沈黙を厭わないが、取手は静寂が嫌いだった。何か話題を、と必死で脳内を引っ掻き回す。

「え、ええと、いい天気だね」
「そーだな」
「あー、雨、降らないかな」
「予報じゃ明日は雨だってさ」
「そうなんだ」
「俺、雨って嫌い」
「そうかい?」
「濡れるから」
「じゃあ、てるてる坊主でも作ろうか」
「?」

怪訝そうな顔を向けられ、不安が取手の胸を刺した。てるてる坊主なんて子供じみていると思われたのだろうか。くだらない事を言ってしまった。きっと呆れられたに違いない。知性的な瞳に見詰められ、取手は急に恥ずかしくなった。

「あ、あの違うんだ」
「てるてるぼーずって?」
「は?」
「なにそれ」
「あ、えーと、あの、ほら、吊るすと晴れるっていう、あれ」
「どれ?」
「もしかして、知らないのかい?」

葉佩が顔を歪めた。それが屈辱を含んだ肯定だと瞬時に察し、取手は慌てて言葉を探す。身振り手振りを交えてその形状と存在意義を伝えると、葉佩は僅かに目を見張って口中で何事か呟いた。取手は、相手の無知をあげつらって喜ぶような人間ではない。だが平凡な《墓守》には知りようもないほどの知識を持つ彼のささやかな無知は、取手の自尊心を刺激した。

「あ、でも、日本にしかないし」
「日本独自の文化なんだ」
「うん、あれ?起源は中国だった、かも?」
「人形を吊るすってのは穏やかじゃないな」
「たしかに、よく考えるとちょっと怖いね」

 小さく呟きながらH.A.N.Tに目を落とす葉佩を見て、取手は部屋の片隅にあったティッシュと、何故かポケットに入っていた輪ゴムでてるてる坊主を作製してみた。誇って差し出すには粗末なそのプレゼントを、葉佩がくすぐったそうに笑いながら受け取る。子供の遊びに付き合ってやる大人のような笑顔だった。
 訳も分からず悲しくなって、彼の喜ぶような情報を探し、しかし目的のものは発見できず、取手はどうか笑えていますようにと願いながら唇を歪めて見せた。心の底では憐れんでいるなどと知ったら、葉佩はきっと二度とここへは来てくれない。

「これね、逆さまに吊るすと雨になるんだ」
「ふうん」
「あ、あの、詳しい事は知らないけど」
「だろうね、こういう民間で行われる呪術の名残ってのは起源を探るのが難しいんだ」
「そ、そう、だね?」
「形骸化した儀式だけを伝えて、いつだって本質は蔑ろにされる」
「ええと?」

どうやら途中から独り言に移行してしまったらしい。役目を果たせなかったら首を落とされる、と歌われた人形を手にしたまま、葉佩は思考の海に潜ってしまった。
 世界には法則があると、この子供はもう知っている。彼には、無知なる全能の時代である『子供の頃』があったのだろうか。












 かすかにピアノの音が聞こえる。音色だけで弾き手を聞き分けるなどという能力を皆守は持っていないが、奏でているのは取手だと漠然と思った。あの子供は、きっとこの音に引かれて音楽室にいるのだろう。優しくて柔らかくて穏やかで美しいものを、誰しもが好んでいる。あの子供も例外ではない。皆守は上記のいずれも持っておらず、また持ちたいとも思っていなかった。

 不意に音色が途切れた。昼休みはまだ20分ほど残っている。ピアノを弾くよりも有意義な時間の使い方を見つけたのだろうか。そうだといい。こんなにも綺麗な音を止めるのだから、それはもっと綺麗なものに違いない。夢の中でそんな事を考えていたら、大声で名を呼ばれた。

「皆守!見て見て!」
「なんの権利があって俺の視界を限定しようってんだ」
「いいから見ろよ!ほらこれ!」
「まずは見るに値すると証明してみろ。話はそれからだ」
「取手が作ってくれたんだ!」
「ほお」

一方的に希望だけを告げられて、絶対に目を開けてなんかやるものかと意気込んでいた皆守は、しかし途中で面倒臭くなったので目を開けた。闇に慣れた目が光に刺され、真っ白い世界に放り出されたように錯覚する。反射的に閉じようとした目蓋をどうにか上げて、皆守は鼻先に突きつけられた奇妙な物体を視界に入れた。

「なんだこれ」
「やっぱ皆守も知らねーか」
「いや、なんとなく知ってるような気はするが」
「てるてるぼーずってゆーんだぜ!」
「ふうん」

 その名称を知らない訳でもなかったが、皆守は誇らしげに掲げられたいびつな人形を無言で見返した。点と線で描かれた目鼻口は、微笑んでいるようにも見える。あるいは泣いているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
 空は晴天。こんな日に、どうしてこんな物を作製するに至ったのか。皆守の疑問などには全く気づかず、葉佩は嬉しそうに仕入れたばかりの知識を口にしている。手榴弾を自製する知識はあるのに、変な事は知らないんだな、などとぼんやり考えた。

「逆さまに吊るすと雨が降るんだって」
「へえ」
「って訳で、皆守の部屋に吊るしといたから。逆さまに」
「なんで」
「だってお前、天気いいと動かないし」
「雨でも動きたくない」
「だいじょぶ、俺が守ってやるよ」
「いや、別に濡れると溶けるとかじゃないから」
「なんだつまんねぇの」

 そのまま葉佩が黙り込んでしまったので、皆守は身を起こして屋上を後にした。雲が多くなってきたのは、逆さまに吊るされた人形の呪いだろうか。それとも予測可能な気象現象なのだろうか。












 放課後になって皆守が空を仰いだ時には、もう雨が降っていた。当然ながら傘は持ってきていない。置き傘をしている誰かから無断で借りようかと考えたが、同じような事を誰しもが考えるらしく、出遅れた皆守の前にはただ空虚な傘立てしか存在しなかった。校舎と校庭の境目で、皆守は灰色の空を睨む。そんな行動が天に影響を与えるなどとは思っていないが、そうせずにはいられなかった。祈りと憎しみが似ていると感じるのは、こんな瞬間だ。
 仕方ないなと溜息をつき、皆守は足を踏み出した。屋上にいた葉佩は、どこでこの雨音を聞いているのだろう。急ぐでもなくいつもどおりの歩調で道を踏んで寮の自室に戻ると、窓の外にはいかにも不器用な手で作られたであろう奇妙な人形が逆さまにぶら下がっていた。正直ちょっと不気味だ。
 濡れた服を脱ぎ捨てて風呂に向かおうとして、呪いの人形を捨てるか、それとも見なかった事にするかで少しだけ迷った。捨てると更に呪われそうな気がしたので、見なかった事にして風呂に向かう。

 湯船でうとうとしていたら溺れそうになったのはさておき、部屋に戻った皆守を待っていたのは、もう何体目かの呪い人形を作製している葉佩だった。窓の外には、まだ逆さまのてるてる坊主。輪ゴムを片手で伸縮させながら、葉佩がこちらを見てやけに嬉しそうに笑う。お前の所為で雨に降られたと殊更に恨めしい口調で言うと、じゃあ戻しとく、と葉佩は窓に走り寄った。逆さまに吊るされていた人形を反転させ、頭が上になるようにして吊るしなおす。
 葉佩は分かっている。雨が降ったのは逆さまの人形の所為ではないし、皆守が傘を持っていなかったのも葉佩の所為ではない。不恰好な人形は天候を左右する能力など有していないし、皆守もそんな事を信じてはいない。あやふやな何者かにすがる事など、彼も自分もきっとしない。

「こうしたら明日は晴れるんだって」
「そうかよ」
「晴れたら寝るんだろ?」
「雨でも寝る」
「予報じゃ雨だってさ」
「じゃあお前、ここで寝るか?」

 彼が信じればいいと思った。無知な子供のように、欺瞞に満ちた戯言を心から信じればいい。くだらない児戯に夢中になって、何も見えなくなればいい。この世に秩序など無く、心が動けば世界が動くのだと、疑わずにいてくれたら。
 ベッドに潜り込んできた子供を足で端に寄せながら、そんな幸福な記憶は自分にも存在しないのだと気づいて、皆守は胸元にあったぬくもりに爪を立てた。あやすように背中を撫でられ、どうせ信じていないくせに、と憐れがましく心が嘆く。

 明日も雨はやまないだろうが、きっと誰も失望なんてしない。
 憐れな人形など、誰も信じていないのだから。