日も沈み、世界は探索日和の月夜となった。
愛用のグローブの留め金を確かめ、葉佩はいつもどおり仕事場に向かった。面倒臭いとぼやきつつも遺跡に潜った葉佩を追ってきて、特に何をする訳でもなく甘い香りを漂わせるあの人は、今夜も来てくれるだろうか。与えられた作業を完遂するよりも、葉佩にとってはそちらの方が重要だった。
食堂からくすねた穀物(未脱穀)の使い道に思いを馳せながら軽やかに歩を進めていると、聞き憶えのある声が耳に届いた。低くて気だるげな、あの人の声だ。同時に聞こえてくる音から誰かと一緒なのだと察し、姿は見せずに様子を窺う。存在を知られるのは拙い、という思考も勿論あったのだが、それ以上に大きかったのはもっと漠然とした不安だった。
もしかしたら、自分の声では振り向いてくれないかも知れない。葉佩よりも、彼は隣にいる誰かを優先するかも知れない。どうやら日常的には役職を隠したがっているらしい皆守は、それには都合の悪い葉佩を黙殺するだろう。まったく知らない人のように振舞うだろう。そんな想像をする度に、葉佩は心臓が嫌な音を立てて軋むのを感じた。それが現実になってしまったら、と思うだけで体が竦んだ。
隣を歩いているのは神鳳だ。常に何かを含んだ表情をしている彼を、葉佩はあまり好きではない。そこに、夷澤が走って追いついた。「待ってくださいよ」と喚きながら、一向に歩調を緩めない皆守と神鳳の間に突進するような勢いで入り込む。故意か事故かは判じかねたが、その進路に存在していた皆守の足に爪先を引っ掛け、つんのめりそうになりながらもなんとか踏み止まり、神鳳に「君はもう少し落ち着きなさい」と言われて唇を歪めた。皆守はわざとらしいほどの素知らぬ顔で紫煙を吐き出している。それを睨み上げ、夷澤が吠えた。
「皆守先輩!詫びとかないんすか?」
「なんで俺が詫び入れなきゃいけないんだ」
「あんたの足にけっつまづいたんすよ!」
「俺の脚が長いって事を忘れたお前の不注意だろうが」
「ぜってぇわざとだろ!」
「なんで俺がそんなめんどくさい事わざわざすると思うんだ」
二人は、見かねた神鳳が口を挟むまで言葉を投げ合っていた。まるで普通の高校生のようだ。短気な後輩の拳を難なく躱してカウンターで上段蹴りを綺麗にヒットさせる姿も、踏ん張りきれずに吹き飛んだ後輩に一瞬だけ「しまった」というような表情を浮かべた様も、平凡な高校生がじゃれ合っているようにしか見えない(葉佩はそもそも平凡な高校生というものを知らないのだが、それはさておき)。
神鳳に宥められ、しかし差し伸べられた手は断って、夷澤が立ち上がる。恨めしげに皆守を見上げ、小さく毒づいた。さすがにやりすぎた自覚はあったのか、皆守が不本意そうに「悪かったよ」と言って夷澤の肩を軽く叩く。ついでに「お前が鈍いって事すっかり忘れてた」などと付け加え、神鳳に後頭部をはたかれていた。
手の平に爪が食い込んでいる事に気付き、葉佩が拳をほどく。皆守の姿を発見した時にはあんなにも沸き立った心が、今は深く沈んでいた。喉の奥に何かが引っ掛かっているような不快感に、我知らず俯いて唇を噛む。
俺も、あそこに行きたい。彼と軽口を言い合ったり、本気ではない攻撃を交わしたり、肩を叩いたり、隣を歩いたりしてみたい。対等な友人として、あの場所に立ちたい。
口にしたところで叶う筈もない願いだと、分からぬほどに葉佩は愚かではなかった。
遺跡に降り立ち、扉の前に立つ。この扉を開き、隧道を走り、立ち塞がる異形を殺傷し、秘されたものを暴きだすのが葉佩の役目だ。それを阻止し、静寂を汚す愚者に永い眠りを捧げるのが皆守の役目だ。
皆守は、いつか葉佩を殺さなくてはならない。それを遂行する彼の姿を思い浮かべる。彼に会って以来もう何度も辿った思考を、息をひそめて今日も辿る。
眼前の扉が永久に開かなければいいのに。それを開こうとするこの手が、永久に失われればいいのに。彼が隠したがっている心までも望む浅ましい心臓など、跡形もなく消え失せればいい。
閉ざされた扉に額を付けて、葉佩はいつものように世界と己を呪った。
扉を開く。無骨な靴底で、太古から連綿と続く静謐を砕く。壁の陰から飛び出してきた命の紛い物を撃ち殺し、罪人に罰を与えようと襲いくる神の贋物を撃ち殺す。
執行委員は、あと何人いるのだろう。彼の守る部屋に到達するまでに、あとどれほどの弾丸を撃ち出さねばならないのか。無意識に彼の名前を呟く。密やかな声音を自分の耳で聞き、葉佩はそのあまりにも憐れがましい響きに愕然とした。
辿り着けないかも知れない。進んでいるつもりのこの足は、本当は後退しているのかも知れない。夢の中で走るような、もどかしい焦燥感ばかりが募る。
不意に、視界が白に覆われた。次いで衝撃が小さな身を襲う。奇声を発して異形が踊り狂っている。思考に気を取られて敵の攻撃をよけそこなったなどと、未だかつてない失態だ。脳裡をよぎる甘い影を振り払い、発砲しながら物陰に転がり入る。それと同時に手榴弾のピンを抜き、放り投げてから心の中で数をかぞえた。馴染んだ爆音が響いたのを確認し、視力以外の全ての感覚で気配を探る。葉佩が確信するより早くH.A.N.Tが殲滅を告げた。葉佩にそれを疑う理由はない。大きく息を吐き、そうしてから漸く痛みを意識した。
負傷した足を検分し、打ちつけた背中を注意深く曲げてみる。折れてはいない。内蔵にも損傷はない。でも、きっと派手な痣になっているに違いない。
自分の素肌を見て息を呑んだ人を思い出す。驚愕とわずかな恐怖、それに憐憫。その時の目を、葉佩は今でも強烈に憶えている。あの目に見詰められた時の感情までも、痛いほど鮮やかに再生できる。無意識に再生してしまった彼の眼差しに、葉佩は唇を噛んでその衝動をこらえた。
重たい体を引きずって地上に戻り、灯りの消えた部屋の前で暫し逡巡する。求める心を抑えつけ、この場を立ち去る自分を想像する。しかしその想像は実現せず、葉佩は絶望するような気持ちで何故かいつも鍵の掛かっていない窓をそっと開いた。
目に入ったのは、真っ白な首筋。
時折、皆守は見ていて心配になるほど寝乱れる。愛する寝具たちを引き千切らんばかりの勢いで、低く呻き声を発しながら一人静かに眠ったまま泣いているのだ。葉佩がそれを目撃しなければ、皆守のそんな姿を知る者は存在しなかっただろう。
この夜もそんな夜だったらしく、皆守は毛布を肌蹴て眉間にしわを寄せていた。汗に湿った白い喉を無防備に晒している。掛け布からはみ出した素足も、同じように白い。その肌を走る青い血管をぼんやりと眺めながら、葉佩はそれを掻き切る自分を思い浮かべていた。
人の形をした異形ならば、過去に何度か見た。往々にしてそれらの急所は人体とは異なるのだが、化人と同じくらいには人間を相手にする機会も多い葉佩は、人体の急所を正確に知っていた。そして、それらを撃ち抜き、或いは切り裂き、または押し潰す感触をも知っていた。その既知の感触を、目の前の白い首筋を見て思い出したのだ。条件反射の実験に使用された犬がベルの音を聞いて涎を垂らすように、葉佩は人間の首を見て殺傷する動作を思い出した。
そんな自分がたまらなく嫌いだ。
触れるのは罪悪のような気がしたので、葉佩は声だけで彼の覚醒を促してみた。だが皆守は獣のように低く唸るばかりで、一向に目覚める気配はない。その髪に手を伸ばし、思いなおして引っ込める。そんな動作を何度か繰り返し、もう一度「皆守」と囁いた。やはり返事はない。
意を決して髪を引っ張ってみた。起きない。頬を抓ってみた。まだ起きない。本当は起きているのだろうか。鼻を摘まんでみた。僅かに身じろいだが、やはり目はひらかない。白い首筋に触れようとして、思い止まった。それは禁忌のような気がしたのだ。禁忌など、人が作り上げた幻だと知っている筈なのに。そこに落ちる事を禁じられた指が、さまよってから目蓋に触れた。柔らかい皮膚など、ごく小さな力で破れる。その奥の眼球すら、実に容易く抉り取れる。そうしたら、彼は永久に視力を失うだろう。
投げ出された皆守の手が何かを探すように動いた。少しだけ宙をさまよい、葉佩の腕に触れ、その服の袖を掴む。緩やかに行われたその動作を、葉佩は無表情にただじっと見ていた。脳内では、何を探しているのだろう、という疑問が揺れている。誰と間違えて、彼はそんな風に手を伸ばしたのだろう。
まだ袖を握っている手に、そっと触れてみた。皆守はまだ目を閉じている。拘束するほど強くはないが、しかしその指を解かせるのは難しい。途方に暮れて、葉佩は呼ぶのではなく彼の名を声にした。
「みなかみ」
葉佩の袖を掴んだまま、皆守は浅い眠りをたゆたっている。もう一度、みなかみ、と囁いた。夢から呼び戻す為ではなく、ゆっくりと呼吸を繰り返す体が、本当に存在するのだと自分に言い聞かせる為に。
時計を確認する。午前4時24分。自分の髪を梳く手を見上げる。傷だらけの腕が、今は殺す為ではなく人に触れていた。それが稀有な事なのだと、皆守はもう知っている。暗闇の中、葉佩と目が合った。微睡みを含んだ視線に、葉佩がまるで愛しむように目を細める。どんな夢を見ているのだろう。少ない光源を反射する瞳を、皆守がぼんやりと見返す。
「寒いのか?」
「うん、寒い。だから皆守であったまってんの」
「お前の方が体温は高いと思うんだが」
「そうだね。皆守、手ぇ冷たい」
そう言って、葉佩がまた笑った。その瞳は、この薄闇の中で何を見てそんなにも切なげに震えているのだろう。遠慮がちに髪を撫でる手の平は、ほんの数時間前には武器を持っていた。それは、いつか皆守を貫く武器だ。そんな手で、どうしてこんなにも優しく触れるのだろう。
床に座って枕元に肘を付いている小さな体からは、わずかに埃っぽい匂いがした。部屋には甘い香りが満ちている。それが罪悪の香りだと、皆守は知りはしないが理解はしていた。墓土と火薬と汗と埃の入り混じった匂いを発する薄汚れた子供が、この部屋で唯一の、清浄にして正常な存在のように思える。
この手でそれに触れるのは禁忌だと感じたが、皆守はためらわずにその禁忌を引き寄せた。小さな体がビクリと震え、戸惑ったように身じろぐ。無造作に伸ばした手が傷に触れてしまったのだ。その事に思い至り、皆守は握り締めた指を緩めた。
「どこか怪我したのか」
「別に」
「ここか?」
「!!!」
「あ、ここもか」
「いってぇ!触んなばか!」
「うるさい、何時だと思ってんだ」
「そこは駄目ぇ!」
「黙れっつってんだろ」
「どんな鬼畜プレイだよこれ!」
変色した皮膚に触れると、葉佩が腕から抜け出そうと身をよじった。それを許さず、強く拘束する。胸の辺りでくぐもった不満の声が聞こえたが、気にせず目を閉じた。少しだけ涙の混じった声が、まだ何か言っている。眠りたいから黙れと囁くと抵抗がピタリとやみ、暫くしてから恐れるような仕草で小さな手が皆守の背中に回された。
まるでこの小さな略奪者に守られているような気持ちになったが、不快ではなかったので構わず眠りに落ちた。
冬が終わる頃には、その傷も癒えるだろう。
或いは、新しい傷が皮膚を覆うのだろうか。
傷付いても進もうとする幼い体を抱き締めて、その隣に立っているのが自分だったらと願う。
口にしたところで叶う筈もない願いだと、分からぬほどに皆守は愚かではなかった。
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