食事をとり、風呂に入り、あとはもう寝るだけという至福の時間に、その子供は現れた。風呂場から自室に向かう途中、気配を感じて窓の外に視線を走らせると、案の定。見憶えのある顔が、暗闇に浮かんでいた。
 皆守が窓越しに「何か用か」と問うと、その子供は皆守の顔をじっと見詰め、次いで視線を自分の足に向け、暫くそうしてから顔を上げて、「会いたかったから」と真っ直ぐに言い放った。
 何も言えなくなってしまったのは、その顔がまるで何かを期待するような表情を浮かべていたからだろう。子供は、無言で眉をしかめた皆守の、続く言葉を待っている。心臓の近くで何かが震えたのを寒さの所為にして、皆守は部屋に戻ろうと踵を返した。
 招いてもいないが、拒絶でもない行動。それは、皆守にとっての精一杯の許容を表す動作だった。これならば、あとで言い訳が出来る。招いた訳ではない、という逃げ道を用意していなければ、身動きすらとれなくなるのだろう。そんな自分を嘲る為に口角を上げ、一人で自室のドアを開ける。予想どおり、子供は窓の外で皆守を待っていた。しかし窓を開けても、滑り込んだのは冷気だけだった。壁の小さな突起に足を乗せたままの不安定な体勢で、子供が皆守を見上げる。

「どうした?入らないのか?」
「皆守が出て来て」
「断る」
「寒いから?」
「他にあるか?入るなら入れ。寒い」
「この部屋はやだ」
「・・・閉めるぞ」

言葉と同時に窓を閉める。子供は、黙ったままその行動をただ見ていた。施錠はせずに、カーテンを引く。窓の外の気配は、一向に立ち去ろうとしない。まだ温もりの残る体をベッドに預け、目を閉じる。視覚以外の全ての感覚が、窓の外の存在に向いているのが自分でも分かった。あんな餓鬼に、俺は何を期待しているんだ。嘲りを通り越して憐れみすら浮かぶ。
 晩秋の夜、風は切るように冷たい。締め出したのではない。言葉ではなく許可した入室を、拒んだのは彼だ。だから、こんな気分になる理由は無い。無意味だと知りつつ、胸中で繰り返す。
 窓が開く音に、まるで救われたような気がした。

「皆守」
「・・・」
「寝た?」
「・・・寝た」
「此処、変な匂いしねぇ?」
「しない」
「カレーとラベンダーが入り混じったみたいな」
「みたいっていうか、そのものだ」
「あと、墓の匂い」
「線香?」
「じゃなくって、なんつーか、墓の匂いっぽい」
「言い直したんなら別の語彙を探せ」
「ええと、だから、すげぇ昔に誰か死んだみたいな」

それがどのような現象なのかは分からなかったが、彼が「匂い」と表現するものが、現実的に嗅覚を刺激するものではないと理解した。皆守は、霊感などというものを定義するほどの知識も感覚も持っていない。それゆえに否定も肯定も不可能だったので、何も言わずに寝返りを打った。見下ろす黒い瞳が視界に入り、再び目蓋を落とす。すると、氷のような手に頬を撫でられた。全身がぞわりと総毛だち、思わず目を開いてしまった。今夜も黒星だ。心のスコアに不名誉な記録をつけながら、諦めて身を起こす。諦める事は苦痛ではなかった。

「なあ、こんなとこで寝てたら嫌な夢見るぞ」
「どこに居たって見えるもんは同じだろ」

呟きつつ、アロマを銜えてライターを擦る。その手を、小さな手が払った。弾かれて床に落ちた愛用のジッポを目の端で追いながら、皆守が眼光を鋭くする。感情を声に乗せ、その子供の名を呼んだ。

「・・・葉佩」
「・・・」
「なんのつもりだ」
「その匂い嫌い」
「だったら出て行け」
「・・・やだ」

奪ったパイプを握り締め、葉佩が視線を逸らした。睡眠妨害と、嗜好品を取り上げられた苛立ち。動機としては充分だ。理性ではない部分でそう判断し、皆守は自分の欲求を行動に移した。肩を爪先に強打され、葉佩が真横に吹き飛ぶ。ベッドから転げ落ち、打たれた部位を押さえながら暫し無言で痛みに堪える。骨や間接に影響を与えるほどの力は込めていなかった。急所も僅かに外したので、これは虐待ではない。根本的に問題を抱えた思考で自己弁護を果たし、床に伏した小さな体を見下ろす。

「葉佩」
「・・・そんなに阿門が好きかよ」
「飛びすぎだ」
「飛んでねぇよ!だってそれ阿門に貰ってんだろ!」
「・・・まあ、そうなんだが」
「ほらやっぱり!阿門じゃねぇか!」
「待て、なんで勝ち誇られたのか分からない」
「だって阿門に貰ったんだろ?」
「1から頼む。そこ7ぐらいだろ」
「だからぁ!夜中に阿門とこ行ってたんだろ!」
「ああ、まあ」
「俺より阿門の方が好きだからだろ?」
「・・・」

 昨夜は葉佩の姿が見当たらなかったので、残り僅かとなったアロマを仕入れに行った。どのような経路で入手しているのかなど、知ろうとも思わない。ただ、幻の安らぎを生み出すそれを、阿門は何も言わずに手配してくれる。彼の思惑など知らないし、やはり知りたいとも思わない。憐憫なのかも知れない、と想像し、気が重くなったのも今では遠い記憶だ。皆守はもう、与えられる事を自分に許してしまった。
 真夜中に屋敷の前に立ち、携帯で一度だけコールした。何も言わずに迎えられ、見慣れたカートンを受け取る。まるで約束されていたように、それは為された。偶然に、視線が合う事もある。不可抗力で、手が触れ合う事もある。逸らす事も、振り払う事も不可能ではないのだろう。雑談のような、愚痴のような言葉が零れる事もある。秘め事のように、それらは暗闇の中で交わされた。
 その全てを、葉佩は見ていたらしい。少々薄ら寒い事実だが、この子供の奇行癖はもう知っている。

「あのな、葉佩」
「夜中に二人っきりで何してたんだよ」
「その凶悪に愉快な発想は誰に仕込まれた」
「誰だってそう思うだろ」
「思わないと思う」
「だって!皆守は俺のこと監視しなきゃいけないのに!」
「ああ、そういえば」
「忘れんなよ!ほんっとお前どうしようもねぇな!」

うわあ、こいつめんどくせぇ。心で呟く。どうしてこの子供は、俺に構いたがるんだろう。基本的な疑問を脳内で弄びつつ、パイプを握り締めて涙ぐむ葉佩の頭頂部を見詰める。だからどうして泣きそうなんだ。うんざりした顔で溜息をつけば、目を逸らしたまま葉佩が唇を噛んだ。

「泣くな、めんどくせぇ」
「泣いてない。めんどくさくない」
「どう見たって泣いてんだろ。めんどくさいし」
「泣いてねぇよ!めんどくさくもねぇ!」
「うるせぇ」

額に手の平を叩き付ける。べちっといい音がした。触れた皮膚の冷たさに、手ではない部位がぞくりと冷えた。慌てて手を離す。打たれた額を撫でながら、葉佩が上目遣いで皆守を見た。恨めしげに睨む瞳をぼんやりと見返し、はたと思い立って手の平を差し出す。無言で差し出された手の平を数秒だけ不思議そうに見詰め、葉佩がそっと自分の手の平を重ねた。分かっていた事だが、手も冷たい。思わず力を込めると、少しだけ躊躇ってから、小さな手が遠慮がちに握り返した。葉佩の表情は、まだ疑問と戸惑いを含んでいる。それは警戒ではないのか。葉佩は、自分の立場も、皆守の役目も知っている。それなのに、どうしてこんなにも乞うような目をするのだろう。迷子が親を求めるような、そんな目を。

「違う」
「なに?」
「パイプを寄越せ」

可能な限り冷厳に響くよう意識して、端的に要求を告げた。葉佩は、まだパイプを心臓の近くで握り締めている。片方の手は、まだ皆守の手に触れている。小さな手が、やはり躊躇いがちに皆守の小指を掴んだ。折られる、と咄嗟に思ったのは、皆守の精神が荒んでいるからだろうか。しかし予想に反して、葉佩は握り込んだ小指を捻る事もせず、ただ緩く拘束したまま動きを止めた。小さくて冷たい手を振り払う事も出来ず、皆守が途方に暮れる。蹴り飛ばして身を離す気力は、もう残っていない。

「返して欲しかったら蹴り倒せばいいじゃねぇか」
「いや、それは人としてどうかと」
「どの口で言うか。それとも何?記憶喪失?」
「そんなもん、お前が持っててもしょうがないだろ」
「ああそっかぁ、皆守が記憶喪失になればいいのか」
「待て、脳内で何があった」
「阿門の事とか、遺跡の事とか、全部」
「落ち着け、それじゃあ根本的な解決にはならない」
「じゃあ根本的な解決ってなんだよ」
「ええと、だから、お前が諦めて真人間に戻るとか」
「まにんげん?」
「いや、だから、ちゃんと学校行ったりして」
「がっこう?そしたら俺も皆守と同級生になれる?」
「それは無理だ」

あからさまに意気消沈した葉佩が、するりと指を解放する。離れていった冷たさに、妙な気分になった。まるで裏切ってしまったかのように、心臓が引き絞られる。掛け替えの無い何かを失ってしまったような悔恨。そんな感情が浮かんで消えた。
 葉佩が手の中のパイプを口に銜えた。カチリと、皆守がいつもそうするように歯を立てる。だがすぐに口から離し、今度は匂いを嗅いだ。表面に施された精緻な模様に目を近づけ、カートリッジに書かれた文字を音読する。

「Absent in body, but present in spirit」
「へえ、そんなこと書いてあったのか」
「知らなかったの?」
「そんな細かい文字、読もうって気にもならない」

眠たげな声には応えず、葉佩がもう一度その文字を小さく音にする。暫くじっと手の中の物を見詰めていたが、やがて顔を上げてそれを皆守に手渡した。無事に返ってきた偽りの安らぎを受け取り、皆守が床に落ちていたライターを拾い上げる。しかしその動作が終わる前に、葉佩が皆守の腹に頭突きを食らわせた。思わず鈍い声を上げ、むせながらベッドに突っ伏す。銜えていたパイプが、床に落ちて軽やかな音を立てた。

「この糞餓鬼・・・」
「あ、今はあんまりしない」
「本気で抹殺されてぇのか」
「皆守、こっちの方がいいよ」
「会話をしろ。そして手を離せ」
「あの匂い、やっぱ嫌い」

 今夜の風呂は、煩い後輩が居たので火は消していた。服も洗濯したばかりなので、残り香も無いのだろう。就寝前に一服する習慣があるので、ベッドにもあの芳香が染み付いている。今この部屋では皆守本人だけが、花の香りを纏わずに存在していた。
 その皆守の腹に顔を埋め、葉佩が潜水の合間の息継ぎのように深く呼吸する。母を見付けた迷子のように、両腕で皆守の腰を抱き締める。引き剥がす気にもなれず、皆守は無防備に晒された頭頂部に拳を当てた。第一間接の尖った部分を押し付け、軽く揺する。葉佩が呻いた。

「いてぇ」
「だろうな」
「・・・やめろ」
「やだって言ったら?」
「・・・やめなくっていい」

と言われたのだが、皆守はグリグリするのをやめて、手の平で触れた。たったいま拳で触れた場所を、指の腹で軽くこする。腰に回された腕が、更に力を込めた。内臓を目指しているかのような強さで、腹に顔を押し当てる。そろそろ本気で苦しい。そう言うと、葉佩が顔を上げて皆守を見た。

「離して欲しい?」
「・・・別に」

苦しいと言っても死ぬほどではない。それに、冷たい体がゆっくりと温まってゆく感触が、少しだけ心地好かった。まるで、小さな命を救っているような錯覚を起こす。幻を見せる芳香の代わりと思えば、その体温を拒絶しない理由にもなる。戯れに頬を撫でてやると、葉佩は人懐っこい猫のように目を細めた。ねだるように、鼻先を手の平にこすり付ける。ふと思い付き、顎の下をくすぐってみた。さすがに振り払われたが、葉佩は何故か嬉しそうに笑っている。

「皆守から俺の匂いがしたらいいのに」

その声は穏やかだったのだが、何故か皆守は背筋を震わせた。自分の体の反応を訝しみ、見上げてくる瞳を見返す。葉佩は笑っていた。落とされた言葉の意味を、ゆっくりと嚥下する。幼稚な独占欲だ。有り触れた、子供の戯言。そう思ったが、背筋を這い上がったのは、恐怖にも似た震えだった。
 皆守は、ここに至って漸く思い出した。膝の上で目を細めるこの子供の本性は、獣だという事実に。