背中が温かい。浮上した意識が、そんな言葉を緩やかに形作った。次いで、その熱源がよく知っている体温だという情報を拾い上げた。寝返りを打ち、手の平で熱に触れる。温もりが、少しだけ微笑んで手の平をくすぐった。

 次に目覚めた時、体温は消えていた。アロマを銜え、火を点ける。そうしてから気付いた。いま火を点けたのが、最期の一本だ。面倒だが、切らす訳にはいかない。夢を見続ける為には、この重い体を起こさなければならない。
 カーテンを開く。世界はまだ夜だった。耳を澄ます。夜はまだ静寂に包まれていた。その静寂を壊さぬよう、皆守はそっと部屋を抜け出した。
 自分の足音を聞きながら、ゆらめくように道を踏む。あの子供は、今夜も墓に居るのだろうか。偽りの生命を壊し、閉ざされた扉を開き、いつか全てを白日の下に晒すのだろうか。
 歩くのをやめて、顔を上げた。見上げた窓に、明かりは無い。携帯を取り出し、一度だけコールする。少しの間だけ沈黙に耐え、ひたすらに祈るように音を待つ。やがて闇によく似た男が、皆守を招き入れる為に扉を開けてくれた。皆守がその目を見上げた時、僅かに微笑んだように見えたのは錯覚だろうか。
 息を吸う。夜気に混じって、憶えのある芳香が鼻腔に届く。欲していたのは、その香りだ。声には出さず、そう囁いた。阿門が落としていた視線を上げ、皆守を見た。深海のように深い瞳が、闇の底から皆守を見詰める。夢に逃げ込んだ自分を、責めているのかも知れない。浮かんだ言葉が、皆守を静かに切り刻んだ。
 阿門がカートンを差し出す。無言のまま、皆守がそれを受け取る。視線を合わせる事は、何故だか出来なかった。阿門も、何も言わない。ただ夜と静寂を体現するかのように、無音で皆守を見下ろした。
 先に沈黙を破ったのは皆守だった。不可侵条約など、結んだ憶えは無い。

「俺を、軽蔑するか」

独り言のように落とされた言葉が消えるまで、阿門はじっと皆守を見詰めていた。まるで、全ての沈黙を作り出す存在であるかのように、静かに。
 返る言葉を期待していた訳ではない。言い聞かせるように、皆守が胸中で呟く。再び落ちた沈黙を、今度は足音で乱した。用は済んだ。これ以上この場所に突っ立っている理由は無い。そのまま立ち去ろうとした背中に、低く密やかに声が投げられた。

「侵入者はどうしている」
「・・・あの餓鬼か?」
「そうだ」
「さあな、今日は見てない」
「もうすぐ、お前の所にまで到達する」

それは違う。俺の場所なら、疾うに踏み入られた。喉まで出かかった言葉を、音を立てずに飲み込む。皆守本人でさえ知らなかった奥底まで、あの子供は容易く侵入した。そして、それだけでは満足していない。強欲に、しかし慎重に、ゆっくりと更なる深奥を目指している。
 その事実を秘めたまま、皆守は受け取ったカートンを開け、数本をシガレットケースに移した。そのうちの一本をパイプに落とし、火を点ける。代わる言葉を探し、暫し黙して煙を揺らす。見出した言葉は、その瞬間に皆守自身をも傷付けた。だが躊躇わず、浮かんだままに声に乗せる。

「解除スイッチが侵入者の手の届く所にあるってのは、どういう事だ?」

 誘うように、待ち焦がれるように、この場所は存在している。それを指摘した子供は、この場所が解放を望んでいる、という結論を出した。皆守に、それを否定する根拠は無い。ただ、心だけが嘆いている。捧げた魂も、犯した過ちも、忘れてしまった慟哭も、その全てが無意味だったなどと、そんな酷い話があるか。本当は、生きていたかった。そんな心の嘆きに、今更になって気付くなんて。
 救う言葉を待つように、青い瞳を見上げた。阿門は何も言わない。

「本当は、暴かれたいんじゃないのか?」
「皆守」
「・・・」
「それは、裏切りだ」
「そうじゃない。知りたいだけだ」
「疑心が生じたのなら、お前がこの場所に居る理由は無い」
「阿門、違う」
「やはり、お前には荷が重かったか」

否定の言葉を探し、しかしどこにも見当たらず、皆守は阿門の袖を掴んだ。ちゃんとやってるだろ、と、縋るように囁く。排除も監視も、与えられた任務は全て受け入れて遂行している。だから、と続けようとして、そのあまりの無様な響きに愕然とした。憐れがましく縋りながら、俺は何を言おうとした。我に返り、唇を噛む。掴んだ袖を離そうとして、だが自分の手がそれを拒んでいる事に気付いた。離したら、きっと落下が始まる。
 震えながら縋る拳を、阿門がそっと解かせた。これは断絶ではないと言い聞かせるように、緩やかに、名残惜しげに身を離す。皆守が自分の足で立っている事を確認し、落ちたパイプを拾い上げてその手に握らせた。

「その答えは、俺の内には存在しない」
「・・・どの答え?」
「暴かれたい、の辺りの話だ」
「あ、ああ」
「お前が望まなければ、契約は成立しない」
「分かってる」
「俺は、お前に何も与えられない」
「アロマ調達してくれるだろ」
「その程度でいいのか」
「充分だ」

皆守は薄く笑いながら、見え透いた嘘を口にした。完全なる自我の放棄など、許される筈はない。選択を拒み、決定を避け、ただ流れに身を任せるには、この場所は停滞しすぎている。疑問すら許さず、絶対的な支配を行使するには、阿門は優しすぎる。この男は、きっと軽蔑などしないだろう。否定を期待して投げた言葉を、皆守は漸く恥じた。
 不意に、阿門が顔を上げた。墓地の方角に目を凝らし、次に皆守を見る。皆守が視線で疑問を返すと、もう一度だけ墓地を眺めて嘆息した。不可解な仕草に、皆守が今度は疑問を声に出す。それには答えず、「早く部屋に戻れ」と重苦しく呟いて踵を返した。残された皆守が、首を傾げながらも、素直にその言葉に従って部屋に戻る。
 その姿を、一対の目がじっと見詰めていた事には、最後まで気付かなかった。