思い出す夏がある。

 良い記憶ではない。ただ、あの夏をいつまでも思い出すのだ。
 空の青、日差しの白、黒い影、赤くなった肌、庭先の向日葵、木陰の蝉の声、忘れられた紫陽花、夕立、稲妻、かげろう、焼けたアスファルト、コンビニのアイス、そんなものばかりを、いつまでも。

 文庫本から目を上げて、遠野は電車の窓から見える空に目を細めた。真実を知りたいと、遠野は今でも思っている。思っているという事は、つまりまだ遠野は真実を知らない。

 眺めていただけの文庫本を、たたんで鞄にしまった。日曜日の13時、下り電車の乗客は少ない。
 遠野は今でも考えている。少しだが、本当に気が滅入るほどほんの少しだが、当時の資料もなくはない。小さく新聞に掲載された程度の情報を、資料と呼ぶのなら。
 使用されていない廃屋の火事、それを記した新聞の切り抜きが、遠野の持つ唯一の資料だ。あとは記憶と、自分で記した当時の憶え書きだけ。それもなんだか曖昧で、当時の自分が戸惑っていた事の引証にしかならない。

 そうだ、戸惑っていたのだ。遠野は思い出す。その瞬間の痛みすら鮮明に。
 確固たる意思と、揺らがぬ背中。遠野は彼をそのように理解していた。間違いだと気付いて、遠野は自己嫌悪に陥ったのだ。そんな人間がいるなどと、本気で信じていた自分を深く恥じた。
 彼は揺らがぬなどと、どうして思い込んでいたのか。答えは簡単、彼がそのように見せていたからだ。もっと早くに気付いていれば、彼はもしかしたら傷付かずに済んだかも知れない。これも、つまらない想像だが。

 あの夏に、彼と彼を取り巻く人が変わった。春に出会って以来、終わりなど存在しないようにただ肩を並べていた5人が、あの夏に変わった。自分たちが終わりに向かっているのだと、気付いてしまった。
 小説のページをめくれば、残りのページは少なくなる。まるでひとつの物語のように、彼らと遠野は夏を走りぬけた。
 あの夏を、思い出す。












 緋勇の隣には、いつも蓬莱寺がいた。とはいえ、本当に四六時中という訳ではない。時折ふらりと彼らの教室に遊びに行くと、だいたい一緒にいた、というだけだ。放課後には別行動というか、蓬莱寺が行方をくらませている事も多かったし、緋勇も油断すると消えている男だった。気紛れなふたりが、それでも互いに隣を許している。そんな光景を見るのが好きだった。

 夏装の白を薄汚い錆色に染めた蓬莱寺が、彼の不在を気にしていたのが始まりだったように思う。それとも、遠野が知らなかっただけで、本当の始まりはもっと前だったのだろうか。きっとそうだと、遠野は考える。きっと、もっと前からそれは始まっていたに違いない。
 自分が何も知らなかったのだと、遠野は今も悔いている。彼の傷も、本当には知らない。遠野はそれが悔しかった。

 電車を降りて、あまり馴染みのない駅で辺りを見回す。南口から商店街を通り、小さな喫茶店に入った。ドアに付いたベルが涼やかに鳴り、コーヒーのいい香りが鼻腔を刺激する。甘く饐えたような匂いが、この店がもうずっと前からここに変わらず存在していたのだと、言葉ではなく遠野に教えてくれた。
 待ち合わせの時間には、まだ少しだけ時間がある。ブレンドを頼み、メンソールの煙草に火を点けた。紫色の細い煙がゆるゆると天井に向かってゆくのを、ぼんやりと見詰める。きっと今、自分は遠い目をしているのだろうと、漠然と思った。

 二本目の煙草に火を点けるより早く、待ち人が現れた。久し振りと言って微笑む顔が記憶にあるとおりで、嬉しくなった遠野はできるだけ同じように柔らかく微笑んだ、つもりではあったが、なにぶん彼女とは根本的に気性が違う。あんなにも優しげな表情にはならなかっただろうと、ちゃんと分かっている。
 遠野の向かいに座る時、さりげなくスカートの裾を直す仕草も、どこか優雅だ。相手が腰を落ち着けた事を確認してから、呼びかける。

「相変わらずね、美里ちゃん」
「アン子ちゃんも、前に会った時とあんまり変わらないわね」

 にっこり笑って言われた台詞も、彼女でなかったら皮肉に聞こえていただろう。
 アールグレイのアイスティーを注文して、美里はどこか遠くを見るような目で遠野を見た。記憶を見ているのだとしたら、どうしてそんなにも穏やかな目をしているのか。あの夏を、美里も見ていたはずなのに。
 遠野が言葉を探し当てる前に、美里がさらりと本題を口にした。

「龍麻の事、聞きたいって言ってたわね」
「ああ、うん、まあね」
「本人には会った?」
「捕まらないのよ、あいつら」
「あら、やっぱり京一くんも一緒なの?」
「そうらしい、としか言えないけど、たぶんね」
「そういえば、如月くんから手紙が来たの」
「手紙ってとこが、なんともあの人っぽいわね」

 骨董品店を営む、気難しげな顔が浮かんだ。あの男もつくづく謎だと思っていたが、では他の人は謎ではなかったかというと、そうでもないのが厄介だ。つまり、遠野は何も知らない。あの時も、今も。
 遠野がほのかな感傷に浸っているのに気付かず、美里が笑みを深くする。

「龍麻ったら、高校生だったんですって」
「はい?」
「天香学園って知ってる?」
「ああ、真神の近くにあった全寮制の高校だっけ」
「そこにね、いたらしいの」
「誰が?」
「龍麻が」
「なんで?」
「さあ」
「京一も?」
「そうみたい」
「なんで?」
「さあ」
「如月君も?」

 同じやりとりを繰り返し、美里が笑い出したのを見て、遠野は考えるのをやめた。彼らの行動に理由をつけるのは無駄だと、遠野はもう知っている。それくらいは知ってるのだ。あの頃だって、その程度なら。
 不思議な人よねと言って、美里はアイスティーに口をつけた。氷がからりと音を立て、また夏の記憶が押し寄せる。

「美里ちゃんは、龍麻が好きなのかと思ってた」
「ええ、好きよ」
「比良坂さんも」
「そうね、きっと」

 美里の笑みが消えて、遠野は何か取り返しの付かない失敗をしたような気分になった。だが、今度こそはと決めている。たとえ誰かを傷つけてでも、などと本気で思う自分を、遠野はずっと持て余していた。
 知りたいのだ、ただあの夏の事を。何度も思い出して、しかし具体的な事は何も思い出せなくて、もどかしい。記憶はどこまでもまぶしく澄んだ空の青ばかりで、日差しの白ばかりで、向日葵の黄ばかりで、遠野は気が狂いそうになる。どうして自分だけが、あの夏に取り残されているのだろう。

「ねえ、美里ちゃん」
「なに?」
「比良坂さんは、死んだの?」

 予想していたのか、美里は表情を変えなかった。からりと、また氷が鳴る。グラスを撫でて、少しだけ湿った指先をさまよわせて、美里が目を伏せる。
 傷が痛み出したのだろう。血が噴き出したかも知れない。見えない彼女の心の傷を想像して、ためらうのはもうやめた。遠野は知りたいのだ。どうしても、あの夏を。

 しばらく沈黙していたが、やがて美里は頷いた。
 夏が押し寄せて、通り過ぎる。あの夏は、色々な出来事が起こった。それだって、遠野は本当には知らないのだ。ただ近くを走り回っていただけで、彼らの傷を、遠野は何ひとつ。

「じゃあ、龍麻は?」
「え?」
「龍麻は誰が好きだったの?」
「分からない」
「美里ちゃんにも分からないの?」
「京一くんかしら」

 危うくコーヒーを噴き出しそうになって美里を睨んだが、あながち否定できなくて困った。洒落になんないわよ、と呟き、喉を咳で払う。しかし緋勇に色恋沙汰というのもうまく想像できなくて、結局はそんなところなのかと納得してしまった。でも、腑に落ちない。
 夏だった。それだけが揺るぎない真実だ。あの日は夏だった。道に落ちた影が、蝉の声が、ビルの向こうの入道雲が、それを証明する。通り過ぎるだけの夏が、どうしてこんなにも留まり続けるのか。

 美里ちゃんと呼びかけると、「なあに?」と、やけにゆったりした声が返ってきた。
 幼い子供になったように錯覚する。あしらわれているような、意図的に彼女が真実を隠しているような、そんな気分になる。もういいと言って、すべてを諦めたくなる。美里の穏やかさが、今は憎かった。本当は、遠野が追い求めている真実など存在せず、あの夏もただ過ぎ去っただけなのだと思いたくなる。そんなはずないのに。

「美里ちゃん」
「うん?」
「比良坂さんは、なんで死んだの?」

 美里が視線を落とした。そうしてから、ゆっくりと確かめるように目を上げて、遠野を素通りして天井を見た。窓の方を向いて、また自分の手元を見て、やっと遠野を見て、ついには目を伏せた。
 わからないの、と囁いた声が、こらえきれずに少しだけ震えた。ああ彼女を傷つけてしまったと、遠野は危うく後悔しそうになって、慌てて背筋を伸ばす。怯むものかと唇を噛み、真直ぐに視線を上げて美里を見る。

「わたしにも、分からないの」
「美里ちゃんもそこにいたんでしょ?」
「いたけど、でも」
「本当の事じゃなくてもいいの。美里ちゃんに見えたものを、教えて」
「見えたもの」

 今度は美里が幼い子供のように、ただ遠野の言葉を繰り返した。みえたもの、と何度か口中で呟きながら、美里はストローをもてあそぶ。からからと、溶けかけた氷が薄まったアイスティーの中で泳ぐ。

「かならず」
「え?」
「かならずって言ったの」
「ええと、誰が?」
「龍麻が」
「誰に?」
「比良坂さんに」

 頭から血を流して、それは龍麻をかばったからで、龍麻が驚いて、と言っても表情はあまり変わらなかったけど、でもわたしには分かった。たぶん、みんなにも分かったと思う。それで、龍麻が「かならず」って言ったの。

 常になく散漫な言葉は、そのまま彼女の心象を表しているのだろう。きっと誰も、あの夏を正しく理解していない。

 わたし、比良坂さんが嫌いだった。揺るぎないと思っていたあの人を、揺らがせたから。揺るぐまいと決めていたあの人を、揺らがせたから。わたしには、できなかった。

 水を隔てて見るように、美里の瞳がゆらゆらと揺れていた。透きとおっているはずなのに、底が見えないのが空恐ろしい。
 小さな喫茶店で旧知の友を前にして、遠野は痛みにも似た恐怖を覚えた。優しくて穏やかな人が、暗雲と稲妻を隠し持っている。突き抜けるような青空にそそり立つ入道雲のようだ。友人の心すら本当には知らない、知ろうともしなかった自分が、何より恐ろしい。

 ごめんね、やっぱり分からない。そう言って、美里はまた微笑んだ。優しく、穏やかに、夏の夕暮れに世界が静止するように、微笑んだ。

 傷付かないのだと、揺らがないのだと、誰もがそう思っていた。黄金がとても柔らかいのだと、知らなかったのだ。
 あの夏までは。












 喫茶店を出ると、世界は夕暮れだった。またねと言って手を振った美里の影が、道に落ちてするりと遠ざかる。それが名残を惜しむように見えたのは、錯覚だろうか。遠野の心が映ったからだろうか。

 今年も夏が来る。やがて去る夏が。