目覚めても、珍しく夢の記憶が残っていた。常にも増して気だるげな動作で身を起こし、部屋を見渡す。分かっていたが、誰もいない。誰かがいた形跡もない。不意に頭の奥がずきりと疼いた。
一つ溜息を吐き出し、重たい体をベッドから引きずり出した。名残惜しげに毛布が肌をくすぐったが、その誘惑を振り切って冷たい床に足を下ろす。その瞬間、爪先が奇妙な感触を覚えた。ぞわりと背筋が総毛立つのを感じる。唐突に跳ね上がった心拍数を抑える術もなく、呆然と足元を見下ろす。
粘度の高い赤黒い液体が、床一面に広がっていた。ああこれは、まだ夢の中だったのか。ちくしょう、と口中で呟くも、覚める気配はない。
血溜まりに足を浸したまま、では先程まで見ていたのが現実だったのだろうかと、脳の片隅でぼんやりと考えた。
叫び声が聞こえたのは、意識が完全に落ちる寸前だった。
「皆守!」
「うるせぇ」
「起きろ!」
「やだ」
「やだじゃねぇよこの野郎!萌えない!俺は萌えないからな!」
「燃えちまえ」
【燃】
「うざい」
「殴るぞ寝腐れ悪魔。あ、アロマと悪魔ってちょっと似てない?」
「ああ、似たようなもんだ」
「そ、そうだったのかー!」
「うるさい黙れ」
「黙ってほしけりゃ起きろ!」
頬を叩かれて、しぶしぶ目蓋を上げる。傷だらけの顔が間近に見えた。体中が痛いという情報と、足先が水に浸かっているという情報を、ほぼ同時に拾い上げる。小さく呻きながら身を起こすと、傷だらけの男が心配そうに顔を覗き込んできた。意味はないが、じろりと睨んでおく。
「なんで睨まれたの俺」
「意味はない」
「あ、そうなんだ、じゃあいいや」
「ところで話は変わるが」
「おう、変えてくれ」
「俺の名前を言ってみろ」
「えーと、こ、こう、たろう?」
「違う」
「え、『こうたろう』じゃなかったっけ?」
「それじゃない」
「じゃあ、えっと、あれ、どっかに『こう』がついたよね?」
「さっき俺をなんて呼んだ?」
「皆守?」
「それだ」
みなかみ、と小さく発音してみたが、それが自分の名前なのかは判然としなかった。首をかしげていた男がふと眉を寄せ、猜疑に満ちた瞳を向けてくる。やはり意味もなく睨んておいたが、今度は怯まずに睨み返された。じっと探るように見詰められて、居心地の悪さに思わず目を逸らす。
「ねえ皆守」
「おう」
「俺の名前は、分かる?」
「そこはかとなく、知ってるような知らないような」
「葉佩です。《宝探し屋》やってます」
「ああ、葉佩な、うん」
「さて問題です、ここはどこでしょう?」
「・・・」
問われて初めて辺りを見回す。石の床を水が流れ、浮橋のように渡された通路の上に二人はいる。天井は、高くはないが圧迫感を覚えるほどには低くない。どこか薄気味悪い、正常な生命を拒むような空気を感じて、背筋に悪寒が走る。こんな場所に見憶えはない、ように思えた。
どうして自分はこんな場所で目覚めたのだろう。ただよいくる疑問を流れるままに見送って、葉佩の顔を見る。そういえば問いを発せられたのだと思い出し、解答は見当たらなかったが取り敢えず口を開く。
「水っぽいな」
「はい残念!不正解です!」
「で?」
「ん?何が?」
「なんで俺はこんな所で寝てたんだ」
「うん、いい質問だね」
「質問に対する評価って本当に必要だと思うか?」
「突かれるとイイとこって誰にでもあるだろ?」
「よく分からんな」
「そうきたか!みたいな」
この男との会話は困難を伴うと判断し、早々に会話を放棄して現状の把握に意識を向けた。
扉は先程から視界に入っている。外に通じる物かどうかは、まだ分からない。更なる混迷に続いているのかも知れない。そうだとしても、他に行くべき道も見えない今、その扉を開くのが妥当な判断だろう。
やけに迂遠な思考を経て、ゆっくりと立ち上がり扉へと歩き出す。すると、葉佩が驚いたように言った。
「え、戻るの?」
「あ、こっちから来たのか」
「ねえ皆守」
「ん?」
「えっと、なんか変じゃね?」
「何が?」
「いや、全体的に」
「お前もだいぶ変だぞ」
「いや、ええと」
葉佩が言葉を探して視線を泳がせる。その様子を見ながら、脳内で情報を整理してみた。
自分の名前は「皆守」で、彼の名前は「葉佩」で、ここはどこだかは分からない。どうしてここにいるのかも分からない。なんでこんな所で寝ていたのかも分からない。後頭部に鈍い痛みを感じるが、我慢できないほどではない。自分に関する情報が名前だけというのは少なからず不安だったが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
たぶんそうなのだろう。なるべくなら否定する根拠を見つけたかったが、見つからないのでは仕方ない。無駄な抵抗をやめて、先程から鼻先を浮遊していたが目を逸らしていた可能性を声にする。
「俺はどうやら記憶喪失らしい」
「ああやっぱりね」
「気づいてたのか」
「うん、まあ、うっすらそんな気はしてたよ」
「意外と物分りがいいんだな」
「たぶん愛だね」
「そうか?」
「絶対そうだよ!」
「ところで俺はお前の敵なのか?」
「すっげぇ仲良し!一緒のベッドで寝るぐらい仲良し!」
「そうだったのか、じゃあこの衝動はなんだろうな」
「どの衝動?」
「今すぐお前を蹴り倒したい」
「それが皆守の愛情表現なんだよ」
「そうか」
応えて、衝動のままに足を振り上げる。愛情表現ならば仕方ない。甘んじて受け止めやがれ。と言葉にした訳でもないが、全力で踵を振り下ろす。葉佩がそれを躱し、受身を取って転がって水に落ちた。
まさか泳げない事もあるまいが、一見して彼の装備は普通の服よりも重そうだ。しばらくバシャバシャと水を掻く音が響いていたが、やがてそれも沈黙に覆われた。沈んだようだ。波紋の残る水面を覗き込み、声をかけてみる。
「死んだか?」
憶えたばかりの名を呼びながら水を覗き込むが、わずかに泡立つ水面から応答はない。本当に死んだのだろうか。
一抹の不安と、まあいいやという怠惰が同時に胸に去来する。なんだか、どうでもいいような気がしたのだ。彼が死のうと生きようと、自分には関係ない。何故だかそのように思えた。
どうせ、俺もすぐそこに行く。暗い水面を見詰めながら、自分の頬が薄く笑んでいるのが分かった。
「ぶはぁ!」
「・・・ちっ」
「舌打ちしたよこいつ!」
「してない」
「俺じゃなかったら死んでたぞこれ!」
「お前なら問題ないんだろう?」
「それもそうか!」
「さすがは《宝探し屋》だな」
「ま、まあねー!」
そわそわと嬉しそうに視線を逸らす葉佩が、桟橋に手をかけた。そのまま引き上がろうとする体に、軽く足を乗せる。肩に踵を置いて、少しだけ体重をかける。葉佩がこちらを見上げた。その瞳にちらちらと映し出されるのは、紛れもない恐怖。葉佩は分かっているのだ。目の前の男が、本気で何もかもどうでもいいと思っている事を。
「み、皆守!」
「おう」
「あのちょっと洒落にならないんで!」
「俺はいつだって本気だぜ?」
「いや、どっちかっつーと本気じゃない方が多いと思うけど」
「それは誤解だ」
「いいから、あの、足をどけてくれませんか?」
「・・・」
ゆっくりと体重をかける。葉佩の顔の下半分が水に入った。
どうして自分の中にこんな衝動があるのか、さっぱり分からない。ただ、永久に彼が動けなくなればいいと、激情とは遠く、妙に静かに思うのだ。手も足も命も心も、全て彼から奪ってしまいたい。
葉佩が完全に水没した。水中でベストを脱いだらしく、黒い塊が一度だけ浮いてすぐに沈んだ。火薬類は全滅だろうな、と他人事なのでどうでもいいと思いつつ考える。
やがて静寂を取り戻した空間で、水面をじっと見詰める。名前は、聞いたけど忘れてしまった。自分の名前も呼んでくれたが、もう思い出せない。
静かになった水面を見下ろして、無意識にポケットを探った。指先に触れた物を取り出して、口に銜えて火を点ける。甘い香りが口中と周囲に満ちて、吐き気を覚えて慌てて火を消した。なんだこれは。水死したあいつの呪いか。何度かむせてから、大きく息を吐く。
突如、盛大な水しぶきが上がった。咄嗟に振り向き、振り向いてから激しく後悔する。
「俺を誰だと思ってやがる!」
「なんだっけ」
「《宝探し屋》だよ!」
「それだ」
「そして葉佩です!」
「ああ、うん」
「九ちゃんって呼んでもいいよ!」
「分かった、九ちゃん」
「ごめんやっぱやめて」
水面から飛び出した葉佩の右手には、ナイフが握られていた。先程と比べると随分と軽装になっている。ベストもゴーグルも靴も身に着けていない。右手のナイフだけが、彼に残された唯一の武器だ。
濡れた裸足で床を踏みながら、葉佩が獰猛に笑う。
「上等じゃねぇか皆守!」
「おう、まあな」
「俺がこんなもんで死ぬと思ってたか!」
「思ってた」
「ざまぁみろ!」
何故か勝ち誇った葉佩が、右手のナイフを上げた。殺傷が目的ならば、あまりに無駄な動作だ。つまり、彼に殺傷する意思はないのだろう。確証はなかったが確信して、口元に手をやる。手をやってから、指先に触れる物が何もないと気づく。
葉佩がナイフを下ろした。
「あ、一服中だった?」
「いや、煙草とか吸わないから」
「煙草は吸わねーけどアロマ吸ってんだろ」
「は?」
「まだ匂いがちょっと残ってる」
「そうか?」
鼻腔には水やカビなどの匂いしか届かない。葉佩は何を感知したのだろうと、周囲を漠然と眺めてから、そういえば、と思い出す。ポケットに入っていたあのパイプは、火を点けると強い花の香りをただよわせた。記憶を喪失しても、新しい記憶の蓄積には問題ないらしい。不思議なものだ。
「いいぜ、吸えよ」
「なんでお前の許可がいるんだよ」
「それ吸うと冴えるんだろ、お前」
「そうなのか?」
「違うの?」
「さっき吸ったら吐きそうになった」
「え、なんで?」
「甘ったるくて気持ち悪い」
正直に答えると、葉佩がきょとんと目を丸くした。またたくと、濡れた睫毛から雫が落ちて頬を伝った。それに見蕩れていたなどと間違っても気づかれぬよう、ポケットから葉佩いわくアロマを取り出す。彼にも見えるように、手に乗せて差し出した。
「これだろ?」
「そう、それ、え、気持ち悪い?」
「こんなもん吸ってたのか、俺は」
「じゃあそれ、いらねぇの?」
「まあ、今は必要性を感じない」
葉佩がナイフを完全に下ろして、興味深げにパイプを凝視した。そうしてから、同じ目でこちらを凝視する。探るようにじっと見るのは、彼の癖なのだろう。
特に親しくもない相手をじっと見詰めるのは、多くの文化で無作法とされている。作法など知らないが感じた不快を表情に出すと、葉佩が唇を三日月のような形にして言った。それは笑みなのだろうか。
「じゃあ、皆守はもうここにいる理由ないね」
「そうか?」
「だってこれは、お前の罪悪感を緩和するものだから」
「え、俺なんかしたのか?」
「罪悪感があるから、あんな奴の言う事聞いてたんだろ?」
「あんな奴って誰だ」
「つまり罪悪感がなければ、お前はあんな事しなくていいんだよ」
「ど、どんな事してたんだ?」
「おめでとう皆守」
「え、あ、ありがとう?」
「お前は自由だ」
なんだか分からなかったが、心臓の辺りがざわざわする。この男がひどく残酷な事を言っているような気がする。
葉佩が虚空に向かって喋りだした。
阿門のあれは、記憶を消去するという意味では完璧じゃない。でもそれは、必要ないからなんだ。本当にまったく記憶がなくなったら、きっと誰も苦しまなかったんだよ。
むしろ喪失の実感だけは残ってて、空洞がどんな形なのか、はっきり分かってたんじゃないかって思うんだ。たとえば罪悪感だとか、大事なものだとか、そういうのを少しだけ残して苦しませる。あいつはその苦しいって感覚を利用したんだ。つけいる隙を自分で作るんだから、ピンポイントに狙えるのも当然だよね。
葉佩の独り言がヒートアップしてきた。
何を言っているのかは分からない。分からないが、ひどく嫌な感じがする。嫌な感じがしたので、言葉を止めようと背後から踵を落としてみた。思考は間に合わなかった。
音もなく速度を乗せた靴が肩に接触したのとほぼ同時に、葉佩が重心を変えて振り向く。葉佩の服をほんの少しだけかすめただけで、振り下ろした足は何物にも到達できず地面に戻った。
全身に含んだ水を散らしながら、葉佩が叫んだ。
「お前、ほんと阿門好きだよな!」
「誰だよ」
「なんで記憶喪失なのに俺が好きって言わねぇんだよ!」
「記憶喪失ってそういうもんじゃないから」
「なんで記憶なくっても攻撃すんだよ!」
「いや、なんか、したかったから」
「うわあ俺って愛されてる!」
責められているような気分になったが、具体的に何を責められているのか分からない。ただ、葉佩の泣きそうな顔をぼんやりと見下ろしながら、たとえ自分に記憶があっても同じ事をしただろうな、と考えた。
葉佩が黙った。動きも止めた。
自分の中に、自分でないものがある。それを制するのではなく、解放してやればいいのだと、静かに理解した。理解すると同時に、世界の全てが緩慢になる。よく見える。
葉佩が動いた。泥のように緩慢な世界の中で、彼だけが澄んでいた。
「葉佩」
「おう」
「それは違う」
「どれ?」
「俺はお前が嫌いじゃない」
「そう、そりゃよかった」
葉佩が微笑んだ。こちらに向いたナイフが見える。それを持つ指が見える。
彼の眼球が、何を映しているのかも見えた。
「ねえ皆守」
「なんだよ」
「それは忘れないんだね」
「まあな」
「阿門にもらったから?」
「いや、違う」
お前を殺せるのは、これだけだから。
微笑んでささやくと、葉佩が目を細めた。
「記憶があってもなくても、俺はお前を殺したいんだ」
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