黴臭い。鉄の匂いも混じっている。前者は周囲から発せられる匂いで、後者は自身から発せられるものだ。覚束ない足取りを自覚して、負った傷が軽いものではないと認識する。右半身が熱い。視界が歪む。だが、その傷が原因で死に至る事はないと確信していた。
ぼやけた視界に見えるのは、憶えのある扉。あそこまで行けば、痛みも苦しみも消え失せる。全ては脳内で作られた幻だったのかと錯覚するほど、そこは瞬時に傷を癒す。どうしてそんな物が存在するのかは分からないが、その存在は情熱を肯定した。多くの古代遺跡に存在しているその部屋は、その場所が暴かれる時を待っているのだと無音で主張しているような気がした。それこそ錯覚だと言われてしまえば、それまでなのだが。
扉を開き、崩れ落ちるような動作で床に突っ伏した。知っているとおりに、体が痛みを失う。急に強烈な刺激を失い、まるで体そのものが消失してしまったように感じる。
これで、また生きてゆける。欲が満たされたような、望みが絶たれたような、不思議な気持ちになった。苦痛のあまり滲んでいた涙が、ゆっくりと気化してゆく。惜しむものではないが、なんとなく勿体ないと心の中で思った。涙を流すのは嫌いではない。苦痛に泣き叫ぶのは、ある種の快感をもたらす。大人になって泥遊びをするような、妙に開放的な、それでいて背徳的な気分になるのだ。
傷は塞がったが、貧血はどうしようもない。くらくらと揺れる頭を止めようとするのはやめて、床に寝転がったまま目を閉じた。その姿勢のままポケットを探り、指先が肉に触れると同時に手を引き出す。
「塩が欲しい」
「カレー粉ならあるぞ」
「胡椒は?」
「カレー粉なら」
「醤油でもいいけど」
「カレー粉の前にまず火を通せ」
的を射た忠告は無視して、生肉にかぶりついた。おいしいとは思わないが、まずいとも思わない。血肉になるのだと、ただそれだけを思い、咀嚼して嚥下する。その様子を呆れながら見詰める瞳は、気にしている余裕などない。
「動物か」
「人間も動物だよ」
「人間と他の生き物の違いを知ってるか」
「カレーをおいしいと思うか否か」
「正解だ」
「つまり、カレー嫌いは人間じゃないと」
「まあそうだな」
「じゃあ俺、お前に会うまで人間じゃなかったよ」
最後の一片を飲み込んで、咽喉に貼り付く血の匂いを水で洗い流す。少し気管に入った。床に這いつくばったまま激しく咳き込むと、見下ろしていた男が驚いて後ずさった。しばらく様子を見て、事態を把握して背中を撫でてくれた。薄情なのか優しいのか意見が分かれるところだが、きっと優しいのだろうと判断した。だからどうしたという訳でもないのだが、通りすがりの人が優しかったという事実はなんだかとても嬉しい。だから、素直に感謝を表した。
「ありがとう」
「・・・おう」
「なにその顔」
「いや別に」
「俺がありがとうって言うの、おかしい?」
「まあ、控えめに言っても気持ち悪い」
「余計な事すんなよ!お前の助けなんかいらないんだからな!」
「それはそれで殴りたくなるな」
と言ったのに、彼は両手をポケットに入れたままだった。殴りたくなったが、それを我慢してくれたのだろうか。やっぱり優しいな、と声には出さずに呟いて、彼に見えないように微笑んだ。
自分が酷く惨めに思える。優しい人の前で寝転がって、気遣いもできない自分が貧しく感じられる。気にしないで、俺は平気だから、お前は早く安全な所に戻れ。そんな風に言いたいのに、どうしてか言えない。それで本当に彼が去ってしまったら、きっと彼を薄情だと詰ってしまうだろう。なんという理不尽だ。生きているのが嫌になる。
「あのさ、ええとね、ありがとう」
「それはもう聞いた」
「撫でてくれたのとは別件で、ありがとう」
「礼を言われる憶えはない」
「ここにいてくれて」
「・・・どうした」
「別に、どうも」
「打ち所が悪かったのか?」
「いや、もう治ったよ」
「記憶喪失か?」
「ああ、そうかも」
「そ、そうか?」
「お前は俺を知ってる?」
「まあ、漠然と」
「どのくらい知ってる?」
「生肉を味付けなしで食べる奴だってのは知ってる」
「そんだけ知ってりゃ充分だよ」
「そうか?」
「俺はそれが異常な事だってのも今まで知らなかった」
見下ろしてくる瞳が、あからさまな不安と僅かな恐怖を含んだ。未知のものに対する、有り触れた反応だ。彼はきっと正常なのだと、まだくらくらする頭で思った。同時に、何も思い出せない自分の状態を言い表してくれた人が、とても優れた洞察力を有しているのだと知り、またそのような人が隣にいてくれた幸運を喜んだ。
「そっか、記憶喪失か」
「いや違うだろ」
「違うかな?」
「だってお前、そうなのか?」
「たぶん」
「たぶんて」
「思い出せない」
「何を?」
「お前の名前」
「それは、ええと、憶えてなかったんじゃないか?」
「ああ、そうかも」
「そうだったのか!」
「憶えるから教えてよ」
「・・・お前は?」
「知る訳ねぇだろ、記憶喪失なんだから」
「ああそうか、って、え、そうなのか?」
洞察力は有しているが、あまり冷静な男ではないようだ。傲慢にも少しだけがっかりして、床で寝返りを打つ。
自分の情報が思い出せない。それは、あまり重要ではなかった。それよりも、優しくしてくれた人を、もしかしたら今まさに傷つけているのかも知れない。そんな疑念が募って落ち着かない。軽視されていると感じるのは、誰だってつらいに決まっている。だから、せめて彼に伝わるようにと願って、思ったまま言ってみた。
「俺はきっと記憶がある時も、お前が好きだったよ」
「・・・ほお」
「ほんとに、そう思う」
「そうか」
「うん」
頷くと、彼はとても柔らかい表情で微笑んだ。間違いない。彼の笑みに音を立てて軋んだ、この心臓が証拠だ。まるで恐怖のように背筋を這い上がった怖気が、それを証明している。穏やかな、満ち足りたような表情のまま、男は踵を振り上げた。
躱せたのは、奇跡だと思った。一瞬前まで寝転がっていた床が、轟音を上げて陥没する。めり込んだ足を引き抜きながら、男が舌を打つ。本気だった。彼は本気で殺そうとしていた。
「・・・なんで?」
「意味はない」
「そっか、じゃあしょうがねぇな」
「ところで話は変わるが」
「な、なんの話してたっけ?」
「お前はカレーが好きなのか」
「あ、ええと、うん、まあね」
「俺に会ってから?」
「うん、すげぇ推してたから」
「あの一瞬で好きになった、と」
「あるだろそーゆー事」
「ない」
「一目惚れって、信じない?」
「信じない」
「ああ、うん、実は俺も信じてない」
「言いたい事をまとめてから喋れ」
「俺はお前がずっと前から好きだったと思う」
「根拠は?」
「ないけど」
「じゃあ信じない」
まあそうだろうな、とは、思ったが言わないでおいた。
彼が突発的に暴力を振るう人で、高い殺傷能力を持っている事が判明した今では、下手な発言は命取りになる。ましてや今は大怪我を負った直後で、貧血ぎみなのだ。思考も浮遊するようで、こんな複雑な感情は処理できない。
「葉佩」
「・・・はばき?」
「お前だ」
「あ、俺なんだ」
「お前は葉佩だ」
「ふうん、葉佩ね」
「職業は《宝探し屋》」
「ああやっぱりね、俺もそんな気がしたんだ」
「え、それってそんな自然体で受け入れられる職業なのか?」
「だって俺は《宝探し屋》だから」
「俺が記憶喪失だと仮定する」
「なんだよいきなり」
「唐突に『お前は《宝探し屋》だ』って言われたら、困る」
「なんで?」
「で、遺跡を踏破するのがお前の仕事だ」
「違うよ、《宝探し屋》の本質はそうじゃない」
「本質とかどうでもいい」
「なんだとこの野郎!」
「そして、俺はこの《墓》の番人だ」
「あ、そうなんだ」
「軽いな」
「な、なんだってー!」
「うざい」
「わがままだな!」
「俺とお前の関係は理解できたな?」
「うん、だいたい分かった」
たった今、葉佩という名である事が明らかになった男は確信した。眼前に立つこの人は、とても優しい人だ。憐れなほどに。
「つまり、俺はお前を殺すんだね」
そこでそんな顔をするなんて、本当に優しい人だ。弱い人だ。可哀相な人だ。可愛いなどと思ってしまう。
《宝探し屋》を人と思うなんて、莫迦な奴だ。
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