地下の暗がりから這い出して、葉佩は思わず舌を打った。闇の中では忘れていた苦痛が、なんの前触れもなく眼前に現れたからだ。
 けだるげな視線や、柔らかそうな髪、口元の鈍い銀色、細い指先、そんなものが、はじけるように浮かんだ。吐き気にも似た不快感が込み上げてくる。無意識に握り締めていた拳を、まだ近くにあった地面に叩きつけた。ほのかに湿った柔土は、そのいわれなき暴力を音もなく吸収して、無に返す。

 どうやら本当に狂ってしまったようだ。葉佩は慄然とする。細く欠けた月が照らす無人の墓地が、まるで芳香で満たされているように感じる。芳香、花の香り、それは葉佩にとって、恐怖と苦痛だった。
 深く息をするのが怖くて、引き攣るような呼吸を繰り返す。これは幻だ。今ここに、あの男はいない。きっと今頃、ベッドで眠っているに違いない。
 幻ならば、夜明けに消える。

 顔を上げて、探るように周囲に目をやった。まだ半分ほど墓の中だった体を引き上げて、やっとの思いで地上に立つ。浅く、息をする。甘いような、悲しいような、冷たいような、不思議な香りだ。
 彼は、こんなにも甘くない。ではこの香りは、いったい何が発しているというのか。狂った自分からだ、という答えにまた恐怖して、葉佩は世界から逃げるようにその場を離れた。

 部屋に帰ってブーツを脱いで、ベストも脱いで、腹は減っていたが何も食べずにベッドに突っ伏した。脇腹に小銃を固定したまま、葉佩は眠りについた。












 目覚めはいつもどおりだった。自然と目が開いて、五感が世界を知覚する。眠った場所と目覚めた場所が同じである事を認識して、脇腹に触れる。馴染んだ鉄の感触に、今日も自我を手放さずにいられたと安堵する。

 ほぼ同時に、悪寒が心臓を引き絞った。夜が明けても、幻が消えない。
 いったい、世界はどうなってしまったのか。それともやはり、おかしいのは自分の頭なのか。衝動を押し潰したくて胸を押さえたが、期待した効果は得られなかった。えぐり取られたように、内臓が苦しい。
 ドアを開けても、幻は消えなかった。もしかして、現実に何物かが発している香気なのかと考えたところで、寮友が通りすぎざま「おはよう」と声をかけてきた。何か不思議な香りがしないかと訊いてみたが、彼は首をかしげるばかりだ。やはりおかしいのは自分なのかと、息をするのも恐ろしくなる。

 教室に着いても、幻は付きまとう。甘いような、悲しいような、冷たいような、奇妙な幻が、空気に溶けてそこにある。

「おはよー九チャン、元気ない?」
「元気だよ」
「本当に?」
「うん」
「朝ごはん、ちゃんと食べた?」
「あ、忘れてた」
「ダメだよ、朝はちゃんと食べないと」

 そう言って、八千穂は小さな飴玉を取り出す。それを、まるで当然のように葉佩に手渡して、胸を張った。葉佩が礼を言ってそれを口に入れるのを確認してから、八千穂は「お昼は一緒に食べようね」と微笑んで席に戻った。また優しい彼女に心配させてしまったと、後悔しながら口の中の飴玉に歯を立てる。塩味の飴だった。

 今はここにない、あの柔らかそうな髪からも、花の香りがする事を、葉佩は知っている。あの腕がゆるりと動くだけで、空気が甘く揺れるのだ。あの人が隣にいると、風が吹くだけで世界が香り立つ。それが不快だった。
 この香りは彼のものではない。分かってはいるが、絶えず付きまとう芳香に、葉佩は半日も経たず耐え切れなくなった。

「という訳です」
「そうか」
「つまり、ただちに立ちのけ!」
「うるせぇ」
「せっかく人が逃げてきたのに!」
「逃げるな、立ち向かえ」
「屋上ならいくらかマシかと思って来たのに!」
「頑張れ、お前ならできる」
「心にもない寝言やめて!」

 地上から離れれば、いくらかでも香りは弱まるだろうという考えは、大きく間違ってはいなかった。あの香りは、あまりしない。しかし、想定外といおうか、期待どおりといおうか、そこには先客がいた。甘くない、悲しくもならない、冷たいだけの香りをまとう人が、健康的な青空の下、不健康そうな顔色で、風と遊ぶようにゆったりと紫煙をくゆらせていたのだ。
 嘆きつつ、葉佩は懐の銃を握り締める。重たく硬い感触が、花の芳香を打ち消しはしないまでも、やわらげてくれるような気がした。たぶん気のせいだ。

 皆守が問う。

「カレーは?」
「あるよ、今日はビーフカレー」
「ビーフの気分じゃないな」
「しょーがねぇなー、じゃあ根菜でも刻んでやるからちょっと待ってろ」
「トリュフはないのか」
「品切れでーす」
「お前は、なんだ?」
「ええと、葉佩九龍です」
「一人の人間である前に、《宝探し屋》じゃないのか?」
「いや、《宝探し屋》だけど、人間だよ?」
「ここに、トリュフを欲する人がいる」
「うん」
「お前はその願いを叶えようとは思わないのか?」
「思わない」

 葉佩が答える。それは本心だった。皆守が、あからさまに舌を打つ。さも不機嫌そうに、左手を差し出す。その白い手に、カレーとスプーンを手渡す。皆守がわずかに唇の端を上げた。芳香の元を床に押し付け、火の消えたパイプをポケットに入れて、辛辣の味を口へと運ぶ。それを、葉佩は無心に眺めていた。

「これ、あれかな」
「ああ、たぶんそうだな」
「やっぱりか!」
「あく抜きしなかっただろ」
「お前は間違ってる、肉にあく抜きなんて必要ないんだ。溶け出た成分の全てが旨味になるんだからね。あく抜き信者は肉に謝るべきだよ。よし、今から謝肉祭やるぞ、さあ肉に謝れ!」
「カーニバルとカニバルって似てるよな」
「ほんとだ!」
「で、あれってなんの事だ」
「?」
「いや、なんでもない」

 香りで人の行動や記憶に影響を与えるような技術を持った人が、《生徒会》役員にいる。もしかしたらこの芳香は、なんらかの意図を有したものなのかも知れない。そんな思考が葉佩の脳裡に浮かんだのだが、思考の糸はあえなく断たれた。
 皆守は無言で咀嚼して嚥下する作業に戻った。

 皆守は、食べるのが遅い。ゆっくりと咀嚼して、香辛料だとか、調味料だとか、そんな事を考えながら食べているからだと、葉佩は思っている。
 事実、皆守は食べている時によく喋る。内容はよく分からなかったが、葉佩は彼の声を聞くのが好きだった。つまり、彼との食事は苦痛ではなかった。食べている時にはパイプの火を消すのも、葉佩にとっては嬉しい事だ。あの香りは嫌いだった。
 皆守が皿とスプーンを置いた。ああ終わってしまったと、惜しむような気分になった葉佩は、しかしそのような感情は一寸たりとも顔には出さず、返された皿とスプーンをポケットにしまう。

「うまかった?」
「まあまあだな」
「デザート食いにいく?」
「お前はもう食ったのか?」
「うん、やっちーと食べてきた」
「そうか」
「デザートは?」
「いらない」
「次はトリュフ調達しとくよ」
「楽しみにしてる」

 穏やかに微笑み、皆守がアロマに火を点けた。
 芳香は嫌いだ。甘くもないこの香りを、甘いと認識してしまう自分の脳がおかしいのだと、葉佩はもう気付いていた。ただ花の香りというだけで、彼を思い出してしまう自分が、とっくに狂っている事を、葉佩はもう知っている。

 甘いような、悲しいような、冷たいような、こんなにも不思議な香りは、自分の心が作り出した幻だ。世界は芳香に満たされてしまった。昨日の夜、地下から這い出したあの瞬間から、自分は幻の中に生きているのだ。葉佩は絶望する。
 芳香が、どこにいても、誰といても、何をしていても、まとわり付く。つまり、葉佩はどこにいても、誰といても、何をしていても、彼の姿を幻視する。けだるげな微笑、鈍い銀色をはじく指先、柔らかそうな髪、白い手首、物憂げな眼差し、時折ほんのわずかに見える切なげな哀願、そんなものが、いつまでも消えずに残るのだ。もしかしたら、闇の中でさえも。

 葉佩はたとえようもなく恐怖する。狂ってしまった自分に、壊れてしまった心に、それを抱いて生きねばならぬ未来に。
 甘いような、悲しいような、冷たいような芳香が立つ。途方に暮れて、葉佩はうつむく。自分の影が見えた。秋の日差しは残酷なまでに明るく、世界を刺し殺す。

 不意に皆守が空を見た。アロマを消して、風を見るように視線を移動させる。しばらくそのまま静止して、そうしてから葉佩を見て、取り立てて面白くもなさそうな表情で呟いた。

「秋だな」
「え、あ、うん、そうだね」
「まだ薄いが、キンモクセイだ」
「何それ?」
「知らないのか?」
「し、知ってるよ、あれだろ、キンモクセイって、あの」
「なんかやたら香りの強い花だ。咲く前からしてやがる」
「香り?」
「黄色い花で、ええと、まあ詳しくは自分で調べろ」
「墓地にもある?」
「あそこに一番あるんじゃないか?」
「まだ薄い」
「ああ、お前、これが嫌だったのか」
「だってお前みたいだから」
「全然違うだろ」
「似てるよ、だから嫌だったんだ」

 花の香り、と口中でささやいて、葉佩は顔を上げる。日本では、秋になると毎年こんなだ。何故か少しだけ嬉しそうに、皆守が言う。俺もあまり好きじゃない、と付け加えて、またアロマに火を点けた。

 世界が花の香りに満たされる。
 葉佩は火薬とスパイスでそれに立ち向かう。
 無駄な抵抗だとは、思わなかった。