空気中にほんのわずかに混じった粒子を、嗅覚が捉える。その刺激は脳で言語化され、花の香りとして認識された。
 いつも花の香りをただよわせている人間に、阿門は心当たりがあった。しかし辺りに人影はない。気のせいか、と口中でつぶやき、阿門は再び闇の中を歩き出す。

 いつのまにか降り出した細雨は、阿門を振り向かせようとしきりにその黒い肩を叩く。分厚い皮製のコートは非力な水滴に貫かれるほど柔ではないが、奪われた温度は取り戻す術もなく、このまま歩き続ければやがて凍えて進めなくなるだろうと阿門に確信させた。
 そんな事はもうずっと前から確信していたが、しかし阿門の歩調を変化させる理由にはならない。雨のそぼ降る真夜中を、傘も差さずに無心に歩いた。踏み締めた道も、濡れている。

 気配を感じたのか、それとも何がしかの予感がしたのか、阿門には判ぜられなかった。しかし阿門は顔を上げ、闇に浮かぶそれを見た。理由など分からない。ただ阿門は視線を移動させ、そして視線の先に、ただ彼がいた。

 こんばんは、とやけにのどかな挨拶が聞こえて、闇のように黒い髪がさらりと水をしたたらせた。細雨の降る晩秋の深夜2時、その男は散歩などしている人間が自分の他にも存在していた事に、疑問も抱かなかったらしい。
 今夜は冷えますね、と言って目を細めるその相貌が、あまりにも見慣れた姿と同じに見えて、阿門は不思議な感慨を覚える。誰の前でも、誰もいなくても、彼は変わらないという安堵、または恐怖。

 でも、と続ける唇が、笑みではない形になった。阿門はそれに安堵し、また恐怖する。
 せめて傘を差してください。風邪を引いてしまいますよ。自分の事は棚に上げて、穏やかに、子供に言い聞かせるような口調だった。いつもどおりの彼だ。阿門に話しかけているのは間違いない。
 しかし彼の視線は、阿門の顔を見ていなかった。まぶしい空を見上げるような、はるかな海を見渡すような、まるで阿門を透かして他の誰かを見ているような。

 ゆらゆらとさまよっていた視線が、阿門の肩口に固定された。阿門がその名を呼ぶと、我に返ったようにまたたいて、「はい」と返事をする。
 聞きたくないような気もするが、聞かなければいけないような気もする。どちらにしろ、彼の見えるものを妄想と断ずる事はできない。彼の視線の先には、かならず何かある。

「神鳳」
「はい」
「何か、見えるのか」
「ええ、まあ、お気になさらず」

 気になる。

 阿門の体感温度が急降下した。しかし彼が口に出さないという事は、危害を加える類のものではないのだろう。害をなすものに容赦するほど、彼は愚鈍ではない。
 沈黙する阿門に笑みを向け、丁寧に一礼し、きびすを返し、神鳳が歩き出す。湿った土を踏む音がしばらくあとを追い、やがて闇に混じって入った。
 残された阿門は無意識に自分の肩に左手を近付け、寸前でその手を止めた。
 確認する必要はない。振り向く必要もない。


















 祀られる神という存在は、例外なく惨殺された者たちなのだと阿門は教えられた。災害の多くが死者の怒りだと信じられていた頃、その霊を慰める目的で作られたのが、神という概念なのだと。
 怨嗟も憎悪も、祀られることで慰められる。この国に数え切れないほどの神がいるという事は、取りも直さず数え切れないほどの罪悪感が渦巻いている事の証明に他ならない。

 神鳳の黒い砂は、人を食う化物だ。遅れた英雄が救ったのは、最後に残された一人だけ。食われた娘たちの無念を、神話は顧みない。屠られた異形も同様に。
 今も地下深くに息づく神の名を、阿門は呪いのように心に浮かべた。気の遠くなるような遥かな昔、彼の者は敗北した。辱められ、眠りさえ許されぬ敗者を思い浮かべる。

 この脚は、何を踏み締めて立っているのだろう。


















 ひたりと、冷たく甘い何かが香った。花の香りだ。忌まわしいと感じるよりも早く、幻が沸き立つように現れる。茜色の空、頬を打つ風、長く伸びた影。たしかに知っているはずなのに、思い出せない記憶。
 心地好い空腹、砂と汗で汚れた手、ビルの間に寝そべる銀色の月、きらめくような虫の音、夕暮れの帰り道、幸福な約束を疑いもせず叫ぶ声、道を蹴る音。

 溢れた幻のひとつが、現実に耳を打つ。視線を上げると、見憶えのある顔が驚いたような表情でこちらを見ていた。

「ええと、あ、おはようございます」
「こんな時間に何をしている」
「や、それ、びっくりするほどこっちの台詞なんすけど」

 道を蹴る音は、幻ではなく現実だった。夷澤が走る音だった。
 ふと気付けば、東の空がまばゆく白んでいる。どうやら朝になっていたらしい。つまり夜通し歩き続けたのかと、阿門は思わず自分に呆れた。思考に沈むと現実認識が疎かになる悪癖は自覚していたが、まさかこれほどとは。
 雨もいつしかやんでいた。ぬかるんだ土にスニーカーが汚れることも厭わず、夷澤は日課である走り込みの途中のようだ。冷えた空気越しに、熱を持った体が煙って見える。

「もしかして何かあったんすか?」
「いや、何もない」
「《転校生》がまた何かやったとか!」

 まるで期待しているような口振りで夷澤がまくし立てる。持て余したエネルギーを発散させたがっているのだろう。立ち止まってからも、彼は動きを止めない。
 唐突に何かに気付いた夷澤が、空を見上げるように阿門を見上げた。

「ついてますよ、花」
「花?」
「似合わねぇっすよ、あんたに花なんて」

 示された指の先を目で追うと、コートの肩に小さな黄金色の欠片が付着していた。阿門がそれを確認して払い落とすのを、夷澤はまるで悪戯が成功した子供のような目で見ている。何がそんなに愉快なのか、含み笑いを隠そうともしない。

「俺、この匂い嫌いなんすよ」

 口の端に笑みを浮かべたまま、嬉しそうに吐き捨てる。更に二言三言、暴言にも似た言葉を阿門に向かって勢いよく投げつけて、再び彼は大地を蹴る作業に戻っていった。
 呆然と、取り残されたような感覚で、阿門もその場を立ち去ろうと足を屋敷へ向けた。あえて舗装された道ではなく、土の上を選んで歩く。靴が上げる不満の声が、どこか心地好かった。

 そうか花かと、声には出さずつぶやく。神鳳のさまよう視線が何を見ていたのか理解して、知らず頬がゆるんだ。彼の視線の先には、必ず何かがある。
 闇の中で見えた黄金色の花は、彼に何をささやいたのか。