こつんと窓が鳴った。あの男がノックなどする筈もないので、皆守は怪訝に思って身を起こした。カーテンを細く開けて外を見ると、葉佩が窓枠に足をかけてこちらを見ている。目が合うと、葉佩は安堵したような顔で笑った。

「えーと、こんばんは」
「・・・おやすみ」

 カーテンを閉めて、再びベッドに横たわる。安眠を妨害された苛立ちは、眠ってしまえば忘れられる。しかし枕に染みていた睡魔は、もう去ってしまったようだ。追うように目を閉じるが、気紛れな睡魔の行方は杳として知れない。
 物音ひとつしない夜に耳を澄ましながら、皆守はほどなくして敗北する自分を思い描いた。耐え切れずに窓を開けて、あの男を喜ばせる自分。ふざけるな、負けてたまるか。頭まで毛布を引き上げて、固く目を閉じる。

 浅い眠りはすぐに遠のき、朝でもないのに目が覚めてしまった。眠りの尾は手をすり抜け、たちまち見えなくなる。やけに冴えてしまった目を仕方なく開き、閉じられたカーテンの向こうの窓の、そのまた向こうの気配を探る。
 時計を確認していなかったので、あれからどれほどの時間が過ぎたのか分からない。それでも、窓枠に足をかけて静止し続けるには長すぎる時間だろう。曖昧にそう考えながら、アロマに手を伸ばす。見えずとも手に触れたライターで火を点けると、闇がわずかに揺らめいて影を作った。

 気配はない。物音もしない。カーテンを開けて確かめようとして、皆守はふと不安になった。まだいたら、どうしよう。窓の外で、時間など存在しないような顔をして葉佩が微笑んでいたら、どうしよう。ちょっと怖い。
 振り切るようにカーテンを開ける。見慣れた景色の他には、何も見えない。ほっと肩を撫で下ろし、悪い夢でも見たような気分で再びベッドに突っ伏した。

 何か用があったのだろうか。でもそれなら、窓越しでも伝える術はあった筈だ。何も言わずに去ったのだから、どうせ大した用事もないのだろう。そう結論づけて、皆守は無為な煙を量産しながら睡魔の来訪を待った。












 結局、待ち焦がれた眠りは訪れず、皆守は押し寄せる朝を為す術もなく迎えた。部屋に充満した煙が気持ち悪い。濁った頭をゆるりと振って、人の気などお構いなしにやって来ては動き出せと強要する朝を呪った。

 重たい体をどうにか教室まで運び終えて、皆守はまず机に突っ伏した。

「皆守クン、どしたの?」
「眠い」
「だろうね、こんな早く来るのって初めてじゃない?」
「そうでもない」
「そお?」
「記憶にないだけで、なかったって証明にはならない」
「そっか、皆守クンって頭いいね!」
「おう、まあな」
「九チャンは?」
「死んだって話は聞かないな」
「一緒じゃないの?」
「なんでそう思うんだ?」
「二人は仲良しだから!」

 反論する気力も失せて、朦朧としてきた意識を引き上げるのも億劫になって、皆守は抗わず目を閉じた。どうせ寝るなら、柔らかいベッドで寝たかった。どうしてこんな所に来てしまったのだろう。

 授業が始まった記憶はないが、それは授業が始まらなかったという証明にはならない。ぼんやりと顔を上げると、黒板にはアルファベットが並んでいた。教員の声がなめらかに文字の羅列を読み上げている。

「時は、午後の陽光のうちに、眠りに落ちた」

 最後の一文を和訳して、教員が口を閉じた。和訳されてもその日本語の意味が分からなかったので、皆守は眠りに落ちた。いったいあの教員は、何を伝えようとしていたのだろう。そしてこの教室の何人が、その言葉の意味を理解したのだろう。












 腕を揺すられて皆守が再び目を開けた時、世界は昼休みになっていた。そして眼前には八千穂。どうやら睡眠を阻害したのは彼女らしい。

「ねえ、九チャンがまだ来ない」
「そうか」
「どうしたのかな?」
「さあな」
「風邪かな?」
「かもな」
「昨日、何か言ってなかった?」
「なかった」
「具合悪いとか、聞いてない?」
「ない」
「じゃあきっと急病だよ!」
「そうだな」
「お見舞いに行かなきゃ!」
「おお、行ってこい」
「じゃ、放課後にね!」
「ん?」
「先に行っちゃ駄目だよ?」
「どこに」
「ちゃんと待っててね」
「聞け」

 何やら一方的に約束を取り付け、八千穂は颯爽と去っていった。
 気を抜くと浮遊し始める意識をどうにか引き寄せて、働きたがらない頭を回転させる。推測するに、八千穂は急病に冒された葉佩を見舞うつもりだろう。そして、それに皆守を同行させるつもりだろう。なんで、と疑問を発しても、八千穂はもういない。すべては遅すぎた。
 俺はいつだってそうだ。まどろみつつ自嘲する。何もかも手遅れになってから後悔する。そんな事ばかり繰り返している。しかし後悔が致命的な傷になった記憶も見当たらなかったので、世界が速すぎるのだと結論づけて自己防衛は完了した。
 記憶がないというだけでは、存在しなかった証明にはならないのだが。












 放課後、八千穂にとっては約束どおり、皆守にとっては予測どおり、二人は連れたって葉佩の部屋を訪れた。なんか緊張するね、などと耳元で囁かれ、曖昧に頷く。それが同意ではないと、八千穂には通じただろうか。
 八千穂が立てるノックの音を聞きながら、どうして自分はここにいるのだろう、という、ともすれば哲学的にも聞こえない事はないような疑問を胸中で転がす。怠惰だからだ、と透かさずそれに返す脳内の誰かさんの声は、聞こえなかった事にした。

 ノックに返答がないと確認するや否や、八千穂は一筋の躊躇もなくドアを開けた。そうしてから、絶句して立ちすくんだ。皆守も同様に、口を開けて呆然としている。

「あれ?」
「引っ越したのか?」
「嘘、いつの間に?」
「さあ?」

 部屋には誰もいなかった。だがそれだけだったら、八千穂も皆守もこれほどまでに間の抜けた顔はせずに済んだだろう。
 部屋には、何もなかった。黒板消しも、石も、銃器も、爆弾も、葉佩の部屋に散乱していた何一つ。

「ねえ、皆守クン」
「おう」
「九チャン、どこ行ったの?」
「知らん」
「だって、これ、おかしいよ」
「そうだな」
「なんで?」
「さあ?」

 皆守も首を傾げるしかなかった。
 葉佩が死んだとしても、ゆうべは確かに生きていたのだから、事後処理にしては早すぎる。念の為、部屋番号を確認する。間違いなく葉佩の部屋だ。ここは何度も足を踏み入れてはうんざりした、葉佩の部屋だ。

 急に左腕に痛みが走った。八千穂が掴んでいるからだと、遅れて認識する。

「ねえ、なんで?」
「いや、そんなん俺に訊かれても」
「もしかして、墓に入ったから?」

 皆守は思わず舌を打った。どうして思い至らなかったのかと、自分のあまりの愚鈍に苛立ちすら覚えた。
 携帯電話を取り出し、しかし見上げてくる八千穂に気付いてそれをポケットに戻す。八千穂の前で《生徒会》と繋ぎを取るのは、なんとなく気が進まなかった。怪訝そうな視線から、アロマに火を点ける動作で目を逸らす。
 八千穂が、どこか疑うような目で皆守を見上げた。

「九チャンのメアド、知ってるよね?」
「ああ、そうか」
「え?」
「あいつに繋げばいいのか」
「今、誰に電話しようとしたの?」
「気にするな」
「皆守クン、なんか知ってんの?」
「知ってたらもうちょっとうまく隠すだろ」
「そーかな、皆守クンって隠すの下手そうだけど」
「そういう事は思ってても言うな」
「あ、自覚はあるんだ」
「うるさい」

 受信履歴の一番上に、葉佩の名前はあった。「どこにいる?」という短いメールを送信すると、間をおかず返信が来た。皆守が送った文章よりは長いが、それでも短いメールが。

『送信先が見つかりません』

 八千穂が顔を上げた。葉佩の部屋だった空間を見て、皆守を見る。なんで、とは、八千穂はもう言わなかった。












 次の日も、その次の日も葉佩は帰ってこなかった。あるいは、帰ってくるという表現が適切ではないのかも知れない。ここは彼の故郷ではない。彼が帰るべき場所ではない。ならば、葉佩は帰るべき場所に帰ったのだろうか。

 鋭くもどこか寂莫たる秋の陽光に打たれて、皆守は煙を吐き出しながらそんな事を考えた。考えるとほぼ同時に、浮かべた言葉は煙とともに空に消えてゆく。
 微細な粒子に紛れて雲になった思考が、いつか雨になって地上に戻ってくる。そんな空想に酔っていると、八千穂が珍しく大きな音を立てずに隣に座った。

「九チャン、帰ってこないね」
「ここはあいつの帰る場所じゃなかったのかもな」
「そうなの?」
「さあ」
「じゃあ、九チャンは帰ったの?」
「そうかもな」
「そっか」

 何も断定はしなかった。だから、たとえ八千穂が間違った結論に納得してしまったとしても、それは自分の所為ではない。滞りなく完了した責任回避は、皆守の心をほんの少しだけ穏やかにした。

 誰もいない、誰かがいた痕跡もない部屋に、皆守は毎日のように足を運んだ。そうして昨日と同じように誰もいない、誰かがいた痕跡もない部屋をぼんやりと見渡して、毎日わずかに安堵した。昨日と同じであるという事は、皆守をいつも安堵させる。
 何も変わらない毎日が、少しずつ狂騒を懐かしいものにしてゆく。それも、皆守にとっては悪くない感触だった。体温より少し冷たい水が、心臓の辺りに流れ込むようなその感触。
 薄く笑んだ皆守の横で、八千穂が呟く。

「消えちゃったみたいだね」
「消えたんだろ」
「九チャンは消えてないよ、ここにいなくなっただけで」
「そうだな」
「ちゃんとおうちに帰ったんだよ、きっと」
「だったらいいけどな」

 寂しいけどね、と言って笑った八千穂は、言葉どおり寂しそうだった。曖昧に頷いておいたが、それが同意ではないと、彼女にはたぶん通じなかっただろう。

 あの夜、窓を開けていたら、彼は今もここにいたのだろうか。
 悔やむというほど強くなく、漫然と煙を追うように考える。答えは出ないのだから、考えても仕方のない事だ。ただ、皆守は夜に眠らず耳を澄ますのが癖になった。

 そうして、皆守は今も待っている。軽率な《宝探し屋》が窓をノックする夜を。
 記憶にあるのだから、その夜は存在するに違いない。過去か未来かは分からないが。