俺は今、荒野に立っている。隣には赤毛の莫迦弟子、眼前には不機嫌な黄龍の器がいる。正直に言おう。俺は今、逃げたい。
 赤毛の弟子が、視線は前に向けたまま言った。

「なあおっさん」
「おっさん言うな」
「なんであんなに怒ってんだあいつ」
「お前が何かしたんだろう」
「俺が何したってんだよ!」
「知らん」
「むしろ怒るの俺じゃね?」
「お前が謝れば済むんだ」
「なんで俺が!」

 何故だか知らないし知りたくもないが、弟子と黄龍の器が喧嘩したようだ。どうせ手合わせの際に手加減したとか、手加減しなかったら死ぬとでも言われて言い返せなくて拳が出てしまったとか、そんな事情だろう。まともに取り合うのも莫迦らしい。
 そして、大方の予想がついてしまう自分にも少々うんざりする。なんだか既視感を覚えるのは、きっと気のせいだ。遠い昔に似たような事をやったような、やられたような、あの時はたしか鬼の大将が割って入って流れたんだったか。いや気のせいだ。俺がこんな糞餓鬼と同じ過ちを犯したなんて、そんなまさか。しかも本気で(かどうかは確かめる術もないが)怒った黄龍の器に半殺しにされたなんて、二人仲良く菩薩眼の女に説教されたなんて、そんな記憶は断じて無い。

 虚空に向かって誰にともなく言い訳していたら、隣の赤毛が動いた。一直線に不機嫌な黄龍の器に向かって走り出そうとしたので、慌ててその後頭部をぶん殴って止めてやる。結果的に命を救ってやったのに、何故か物凄い勢いで怒鳴られた。

「何しやがる!」
「だから、あいつは黄龍の器なんだよ」
「そんくれー知ってら」
「器ってのは空っぽなんだよ」
「ひーちゃんの頭が空っぽだって言いてぇのかゴラァ!」
「言いたいのは否定せんがまだ言ってない」
「たしかにちょっと抜けてるとこあっかも知んねぇけどよー」
「まあ、要するに真空みたいなもんだ」
「基本的に興味ねぇ事は1秒以下で忘れるし」
「つまり、ここいらの氣が全部あいつに流れ込んでるんだ」
「基本的に力技で力押しで人の話まったく聞かねぇし」
「常人なら崩壊するが、あいつの許容量なら受け入れられる」
「説明とか、聞いてて泣きたくなるほど下手だし」
「そんでもってあいつは今、物凄く怒ってる訳だ」
「あ、なんか思い出したら泣きたくなってきた」
「ところで莫迦弟子」
「なんだよ莫迦師匠」
「ちったぁ防御も巧くなったか?」
「舐めんなよ、何年あいつの相棒やってっと思ってんだ」
「頼もしいな」

 柄を握る手に汗が滲む。体を圧迫する氣は、渦巻いて一人の男に流れ込む。気を抜くとその流れに根こそぎ引っ張られそうになる。その奔流が、中心の男によって練り上げられた。それは瞬時に破壊力と殺意を有し、物理的な攻撃となって空間を貫く。
 氣を放つのも、拳で打つのも、本質的には同じ事だ。つまり、それを受け、流すのも、同じ理論で行われる。
 早すぎてはいけない。遅すぎてもいけない。その瞬間を過たず見極め、放つ。

 衝突してきた氣を、剣氣で受け止めた。弾かれて拡散した殺意が、大気に混じってやがて薄れてゆく。受けそこねた氣が浅く皮膚を裂いた。隣で同じように剣氣を発した京一が、ボディブローを食らったような声を上げて腹を押さえた。完全には殺しきれなかったらしい。あるいは、黄龍の器がこいつの方を狙ったのかも知れない。
 ざまぁみろ、と口には出さずに胸中でほくそ笑む。普段は苛立たしいほど伝わらない思考が、こんな時ばかり正確に伝わってしまうのは何故だろう。鋭い視線を感じつつも黄龍の器から視線を逸らさず、短く問う。

「死んでないな?」
「おうよ、俺を誰だと思ってやがる」
「学習能力のないアホ猿」
「っだとてめぇ!」
「事実だろうが、これで何度目だ?」
「・・・」
「お前が素直になれば問題は解決するんだ」
「お、俺は、素直だぜ?」
「暴走でもされたら厄介だな」
「素直に思ったとーりに言っただけだし」
「とっとと行って殴られてこい」
「死ぬよな、それ」
「運がよければ死なない」
「俺って運いいかな?」
「あんなのに惚れてる時点で最悪だな」
「惚れてねぇよ、俺は別に、あんな奴、どうなったって」

だんだんと小さくなる声を無視して、黄龍の器に意識を集中させる。無尽蔵かと思われるほどの氣が、刃物の鋭さで全身を打った。気を抜くと震えそうになる膝を叱咤して、前を見据える。異形にすら思えるあの男の、酷く分かりづらい心を探して目を凝らす。それを見出せるのは自分だけなのだと、かつては思っていた。
 巻き起こった嵐のような奔流に、心臓が音を立てて冷えた。黄龍の氣に、指向性が感じられない。つまり、緋勇の意思が感じられないのだ。つまりこれは。口に出す前に、京一がこちらを振り向いた。

「なあ、あれって暴走してねぇ?」
「あー、暴走してるな」
「えっと、どうしよう」
「そうだな、逃げるか」
「ひーちゃんはどうするんだよ!」
「どうなったっていいんだろ?」
「いやでも、これは、だって」

今度は蹴り出されるまでもなく、京一が走り出した。慌ててその襟首を引っ掴み、その足を止める。少しばかり苦しそうな声が聞こえたが、気にせず赤毛を掴んで引き寄せた。

「考えなしに突っ込むな」
「だってひーちゃんが!」
「考えてもみろ」
「何を」
「あいつが正気づいて、お前を殺したって知ったら、どうなると思う?」
「・・・なんとも思わねぇんじゃねーの?」
「本気で言ってんのか?」
「どーせ俺なんか、嫌われてるし」

面倒になったので、殴ってその口を黙らせた。
 本当にこいつらは面倒臭い。俺だってもう少しマシだった。本気で殺し合いなど、して、なくもないが、こんなに意地を張る事も、無きにしも非ずだったのはさておき、ええと、まあいいや。とにかく、ここまで莫迦ではなかった、と思う。たぶん。

「一番いいのは、小突いて目を覚まさせる」
「どうやって?」
「お前が行け」
「無理!死ぬ!」
「まあ、あいつもお前が相手ならちょっとは無意識に躊躇とか、なんか、しなくもない、かも知れない」
「あ、そうかもな!」
「え?」
「おっしゃ!ちょっくら行ってくる!」
「お、おう、え、あれ?」

元気よく飛び出していった莫迦弟子の背中を、為す術もなく見送る。烈風のような氣を掻いくぐり、大地に立つ黄龍の器に向かって走り、暴発した氣に弾かれて転がされて、泣きそうになりながら戻ってくるのを、なんだか遠い記憶を見るような気分で迎えた。

「おかえり」
「ただいま!あいつ本気で怒ってる!」
「あれで怒ってないと思ってたお前も大したもんだ」
「なんだよ、あんなに怒る事ねぇよな」
「まあ、正直ちょっと短気だとは思う」
「だよな!ぜってーあいつ心狭いよな!」
「その分お前が広い心を持てばいいんじゃないか?」
「俺は心広いぜ!」
「そうか、どうでもいいな」
「飯はだいたい俺が作ってるし」
「予想をはるかに上回るどうでもよさだったな」
「洗濯もほとんど俺がやってるし」
「うんうん、お前はきっといい嫁さんになるぞ」
「そりゃ、まあ、戦闘じゃあいつ頼りになるけどさ」
「あいつが役に立つの、それだけだしな」
「だけじゃねぇよ!」
「そこで惚気やがったら鞘で殴るぞ莫迦弟子」
「寒い時はあっためてくれるし、たまには優しいし!」

宣言どおり、俺は鞘で莫迦弟子の頭をぶん殴った。ついでに莫迦弟子を引きずって黄龍の器から距離をとり、つたないながらも教わった結界を張る。道心がいたら笑われそうなほど粗末な出来だったが、正気を失った黄龍の器を閉じ込める事には成功したようだ。とはいえ、破られるのも時間の問題だろう。それまでに、あの莫迦弟子と同じくらいか、もしくはそれ以上の大莫迦野郎な相棒を、死なない程度に殴らなければならない。なかなか難問だ。

「おい京一」
「おめーは知らねぇだろーけどなぁ!」
「今のうちに背後に回りこめ」
「っつーか俺しか知らねぇんだけどな、あいつって可愛いんだぜ!」
「俺があいつの気を逸らす」
「この前なんかさー、俺が崖から落っこちて」

 こんな時でさえ嬉しそうにあの男について語る赤毛をぶん殴り、抜き身の刃をその鼻先に突きつけ、辛抱強く同じ言葉を繰り返す。
 結界の内側からは、外の様子は分からない。結界とは文字どおり、空間を切り離し、別の界と結びつけるものだ。奴は今、黄龍の氣とも断絶されている。それは言ってしまえば、まやかしのようなものだ。しかし、そう思い込ませる事でそれは現実となる。重要なのは現象ではなく、それを観察する意思だ。
 そうして結界によって断絶された黄龍の器は、外界と接続できずに程なく枯渇するだろう。

「うん、分かった」
「よし、何が分かったか言ってみろ」
「とにかく、殴ればいいんだな?」
「まあ、間違ってはいない」

そう言うと、京一は先程と同じような動作で黄龍の器に向かって突っ込んだ。真正面から。ああ、今回ばかりは俺が悪かった。弟子の理解力を考慮しなかった俺が悪かった。俺はもうちょっとマシだったよな?もうどこにもいない相棒に、心で語りかける。分かっていたが、返事はない。むしろあったら怖い、とは思ったが、幻の声を聞いたような気がした。いや、お前もだいたいあんな感じだったよ。
 幻聴は聞こえなかった事にして、弾かれて転がされて泣きそうになって戻ってきた莫迦弟子を、足蹴にして迎える。

「おかえり莫迦弟子」
「ただいま莫迦師匠」
「結界がもうすぐ破られる」
「へっ、でかい口叩きやがったわりに大したこたぁねーな」
「お前の相棒が規格外なんだ」
「おう、まあな!」
「喜ぶな殴るぞ」
「殴ってから言うなよ!」
「結界が破れたら、さあどうなる?」
「ひーちゃんが暴れる」
「正解だ。が、その前に、周囲の氣があそこに流れ込む」
「へえ」
「さっきも言ったが、あいつは真空だ」
「正確には真空みたいなもんっつったけどな」
「ほんっと殴りてぇなこいつ」
「だから殴ってから言うな!」
「さっきとは比べ物にならないほど大量の氣が、あいつに殺到する」
「なんで?」
「俺が堰き止めたから」
「ふーん」
「お前はその流れに乗って、あいつに一撃入れる」
「は?どうやって?」
「大丈夫、お前はやればできる子だ」
「え、いや、だから」
「よし行ってこい」

 計ったようにその瞬間、結界が破られた。膨大な量の氣が、一点に向かって流れ出す。咄嗟に腰を落として流れに逆らった俺の横で、京一が呆気に取られたまま物理力に転化した氣に押し流される。
 まあ、死にはしないだろう。根拠はないがそう断じて、俺は早々に踵を返した。












 二人の姿が目視では確認できなくなった頃、背後で恐ろしいほどの氣が炸裂した。この氣は、知っている。もう遠い昔になるが、この身に食らった憶えがある。その痛みまでもを思い出してしまい、知らず口の端が歪んだ。急に疼きだした古傷に小さく毒づき、きっと今頃は子犬のようにじゃれ合っているだろう弟子とその相棒にも、八つ当たりぎみに毒づく。

 久し振りに犬神の所に行って酒でもたかるか。胸中で呟いて、時を経ても変わらない無愛想な顔を思い浮かべる。あの男は、まだ憶えているだろうか。あの懐かしい町で飽きるほど繰り返したのに飽きなかった、勝負の行方を。