その手は、まるで痛みを奪おうとするかのように、優しく傷付いた部位に触れた。癒すように傷口に触れる手を見ながら、皆守はその手こそ癒されるべきだと考えていた。 しかし同じように手を伸ばす事はできなくて、優しい手の古傷をぼんやりと眺めながら、彼の痛みを想像する。 痛いかと訊かれ、痛くないと返す。それが嘘ではないと、彼は分かってくれただろうか。 痛いかと訊くと、痛くないと返る。それが嘘だと分かっていたが、皆守にそれを指摘する意思はない。 柔らかく、傷口に唇が触れた。 食べてあげると微笑んだ顔が、本当にそれを望んでいるのだと察して、どうしようもなく彼を憐れんだ。 半ばまで食べ進めた唇が、ふと止まった。 残すなよと嘯けば、黒い瞳から涙が零れ落ちる。 お前、なんでこれを痛くないとか言うんだよ。 呆然と呟いた頬が、痛みに歪んでいるのだと気付いた。 どうして平気な顔してられるんだよ。 駄目だ俺はこんなの食えない。 もう無理、ごめん残す。 おい待て、ふざけるな残さず食っていけ。 逃げるなこの野郎、せめて食ったもん置いていけ。 がたんと大きな音がして、同時に脛に激痛が走った。顔を上げると、級友たちの視線が突き刺さる。どうやら寝惚けて机を蹴り上げてしまったらしい。 言う前から諦めているような教師の声を聞き流しつつ、なんだ夢かと口中でつぶやく。鮮明に思い返そうとして、しかし記憶のほとんどが瞬く間に深層へと零れ落ちてゆくのを為す術もなく見送った。 ぶつけた脛をさすりながら、ちらりと葉佩の席を窺う。こっそり盗み見るつもりだったが、彼も皆守を見ていた。しかし目が合った瞬間、ふいと視線を逸す。前に向きなおった葉佩の後頭部を睨み、皆守は夢の残滓を追い払う為に黒板に目をやった。 あの指が、唇が、夢で自分に何をしたか、思い出しそうになって、額に手を当てる。これは思い出さない方が良さそうだ。明確な根拠はいつもどおり見当たらないが、皆守はそう確信した。 昼休みになって、八千穂が先程の一件をさも嬉しそうにからかいにきた。 「皆守クン、さっきはどんな夢見てたの?」 「忘れた」 「もしかして、やらしい夢?」 「なんでだ」 「じゃあどんな夢だったの」 「忘れたって言ってるだろ」 そう吐き捨てて立ち上がると、八千穂も悪趣味な追求をやめて今度は白岐に歩み寄った。白岐の隣には、葉佩がいる。彼の顔を見るのは気が進まなかったので、皆守はその足で屋上に向かった。 日差しと風にその身を打たれ、少しだけ気持ちが静かになった、ような気がする。腹に溜まっていた正体不明の煙を溜息とともに体外へ排出して、皆守は柵を背に座り込んだ。 もう一眠りしようと目を閉じると、あの男の姿が浮かぶ。沈めても沈めても浮かんでくる。やがて抵抗を諦めて目を開けると、眼前に葉佩がいた。思わずびくりと揺れた肩をごまかすように、眦をきつくする。 葉佩は何も言わず、皆守から少し離れた場所に腰を下ろした。自分を追いかけて来たのではないか、などと一瞬でも考えてしまった事を恥じて、皆守は空虚な拳を強く握った。 葉佩は何をするでもなく、無言のままぼんやりと床に胡坐をかいている。光合成でもしているのだろうと手早く結論づけ、彼に背を向けて床に寝そべる。しかし目は閉じず、投げ出された自分の右手をただ眺めた。 昨夜の探索で負った傷は、もう治りつつある。些細な怪我だったが、その瞬間の葉佩の表情を、皆守はまだ憶えている。熱くうずく傷の痛みと、大袈裟なほど動揺した瞳が、同時に胸中によみがえる。 勝手に浮き上がってくる記憶を沈めようと無駄な努力をしていると、不意に名を呼ばれた。心臓が跳びはねたが、なんとか声は抑えたので、今回は俺の勝ちだと胸中で安堵する。 苦労して無表情を作り、殊更に億劫そうな動作で身を起こす。 「呼んだか?」 「呼んだよ」 「なんだよ」 「傷、どうなった?」 「治った」 「マジで?」 「心配しすぎだろ」 「そうかな?」 「あんなの、怪我のうちに入らない」 葉佩が、わずかに眉をひそめて目を逸らした。怒っているようにも、悲しんでいるようにも見える。あるいは、そのいずれでもなく、何も感じていないようにも見える。 彼の動揺した瞳が見たいと、何故か皆守は急に思った。この男が傷付いて慟哭するところが見たいと、自分でも不可解なほど唐突に、抗いがたく強烈に。 しかし賢明にも皆守はそれを口に出さず、薄く笑って葉佩を見た。 「お前だって怪我してるだろ」 「まあね」 「俺ばっかりが心配されるのは、不公平じゃないか?」 「は?」 「あ、いや、まあ、なんだ」 「なんだ?」 「あんまり無茶するなよ」 「うん、分かった」 葉佩は素直に頷いたが、本当に分かったかどうかは定かではない。頷けば相手が黙ると知っているだけで、彼は本当には理解していないのではないか。他人の言葉は表面を撫でるだけで、彼の心には届かないのでは。彼が耳を傾けるのは内なる声だけで、その声だけが彼の絶対的なもので、外から聞こえる声のすべては雑音に過ぎないのではないか。 その想像は、皆守には真実のように思えた。 「皆守」 「なんだようるせぇな」 「ありがとう」 その時には、皆守はもう彼に背を向けて寝そべっていたので、葉佩の表情は見えなかった。惜しむと同時に安堵して、追憶を振り切って目を閉じる。 届くのではないか、などという淡い期待は、ことごとく裏切られるのだ。そう決まっている。断じて現実から目を逸らすと、葉佩が何を思ったか覗き込んできた。察したが頑なに目を閉じていると、右腕を掴まれる感触がして、慌てて目を開ける。 不本意ながら葉佩の顔を間近に見て、その表情に思わず皆守は舌を打った。なんて顔をしている。 「まだ痛いんだろ?」 「痛くない」 「ちゃんと消毒しとけよ」 「日光消毒ならした」 「化膿したらもっと痛いよ」 「うるさい」 接近した顔を押しやると、葉佩が急に真顔になって腕を掴んだ。力任せに引き上げられて、対面する形に座らされる。葉佩が目を合わせずにポケットを探り、消毒液と脱脂綿を取り出す。そうしてから、加減もせずに皆守の腕を引っ張った。 「おい、痛い」 「ほらやっぱ痛いんじゃねーか」 「お前が掴むからだ」 「いいから動くな」 「ちょっと大袈裟すぎないか?」 「小さい傷でも油断してると痛い目見るんだよ」 「それにしたって」 「はい、終わり」 「まだ痛いぞ」 「よし、別の部位に刺激を与えて痛みをごまかしてあげよう」 「なんだその言い回し、って、おい待て何してやがる」 「痛いの我慢しててもいい事ないよ」 「薬漬けよりマシだろ」 髪を撫でようとした手を振り払い、あっさり離れた葉佩から顔を逸らして床に寝転ぶ。 あの男は、もっと酷い痛みを知っているはずなのに、どうしてこんな事をするのだろう。この傷が、あと数日もすれば消えてなくなるのだと知っているはずなのに、どうして。 傷と痛みはいつか消えても、これは消えないのかとうんざりして、皆守は笑ってしまうほど丁寧に手当てされた傷を見下ろして苦く笑った。 たったこれだけの事をこの先もずっと忘れずにいる自分なんて、想像したくもない。 |