その日は風もなく穏やかな日だった。日当たりの良い屋上で、隣では給水塔に寄りかかって目を閉じている人がいて、葉佩のポケットには虎の毛皮が入っている。あとは5.56NATOと、遮光器土偶とパルスHGと週刊誌と穀物と黒板消しと砂と石。
 雑多な物が所狭しと入れられたポケットの中で、どうして最初に虎の毛皮を思い出したのかといえば、隣で眠る彼が寒そうに見えたからだ。そっと虎の毛皮を肩にかけてあげたら、彼は感謝するだろうか。それとも、奇怪な物をいつの間にか被せられたと怒るだろうか。
 葉佩が虎の毛皮を頭から被って彼の前に立った時、彼はまず驚き、そして実にさりげなく葉佩から距離をとったのだ。それが真昼の教室だったから、とか、その日は特に寒かったから、とか、八千穂は喜んでくれたのに、とか、その瞬間の彼の表情を思い出すたびに色々な言葉が葉佩の胸中を飛び交う。言葉にならない感情も同様に。

 皆守が薄く目を開けて、ちらりと葉佩を見た。

「おい葉佩」
「なに?」
「寒い」
「だろーね」
「なんか持ってないのか」
「遮光器土偶なら」
「どうしろと」
「ええと、虎の毛皮ならあるけど」
「あれか」
「うん、あれ」

 皆守は眉をひそめてしばし黙考するような仕草で静止して、「よこせ」と短くささやいた。「なんで?」と即座に返したのは、なんだか偉そうな態度が気に食わなかったからだ。気にならない時はならないのだが、今日はそんな気分だった。
 皆守があからさまに機嫌をかしがせて吐き捨てる。

「寒いんだよ」
「だろーね」
「お前は隣で友達が凍死しても自分だけ虎の毛皮を着込むような男なのか」
「よし、話し合おう!」
「何を?」
「まず、俺とお前は友達なのかという問題を」
「いいからとっとと毛皮を出せ」

 声と同時に閃くような軌道で飛んできた爪先は、それでも彼にしては緩やかな速度だった。座ったままの状態から、両手で体を固定して、左足を振りかぶる。葉佩の鼻先を通過して、くるりと虚空に楕円を描いてコンクリートの床に戻った足は、二撃目は手加減しないと言葉ではなく告げていた。
 葉佩は虎の毛皮をポケットから取り出して皆守に差し出した。

「なんだこれ」
「虎の毛皮」
「違う」
「違わねーよどっからどう見ても虎だろこれ」
「なんか染みついてる」
「ああ、あれだね、カエルの」
「分かった、それ以上は言わなくていい」
「あ、こっちはクモのねばねば(乾燥済み)」

 強奪(と表現していいだろう)した虎の毛皮をあっさり投げ返し、皆守が舌を打つ。アロマを銜え、火を点ける。ゆらゆらと空にのぼってゆく煙をぼんやりと見上げながら、葉佩は返された毛皮を手にしたまま途方に暮れた。
 皆守との距離がさっきよりも空いているのには、気付かないふりをしておく。

「なんで洗濯しないんだ」
「洗ってるよ」
「どこで?」
「風呂場で」
「!?」
「だって洗濯機に入らなかったから」
「湯船には入れてないだろうな」
「だいじょぶ、洗ってから入れてるよ」
「ねばねば(乾燥済み)取れてないぞ」
「洗っても取れないんだから、お湯には溶けないよ」
「それもそうか」

 どうやら納得してくれたようだ。しかし距離は縮まらない。くそ、風呂場でも気が抜けないのか、と何やら悔しそうにしている皆守は、両手をポケットに入れて背中を丸めている。
 そんなに寒いのに毛皮を拒否するのは何故だろうと、葉佩は少しだけ寂しくなった。このポケットには、彼にあげられる物は何ひとつ入っていないのか。そんな気持ちになった。今日はカレーも持っていない。穀物はあるが、水はない。駄目だ、やはり何もない。
 空は高く青くどこまでも澄んで、日差しはやわらかく肌に落ちる。冷たい風が吹かずとも、冬の日向はどこか寂しい。

 葉佩から距離を空けたまま、皆守は寝転んですぐに起き上がった。自分の肩を抱くようにして、小さく身震いする。「さむい」と口中でつぶやいた声が聞こえたのは、葉佩が耳を澄ましていたからだ。

「保健室は?」
「取手が寝てる」
「優しいなぁ皆守は」
「知らなかったのか?」
「だって俺には優しくないから」
「優しいだろ」
「だったら九ちゃん愛してるって言ってみろ!」
「それは優しさじゃない」
「優しい嘘ってあるだろ?」
「そんなもの信じない」

 寝そべるのは諦めて柵に寄りかかった皆守が、「お前だって優しくない」とささやいた。聞こえなかったふりはせず、葉佩は莞爾と笑って見せた。

「知らなかったの?」
「ああ、騙された」

 欠伸混じりに返った声に、葉佩は言葉を失った。そうか騙せていたのかと、てっきり彼は気付いているのだとばかり思っていた葉佩は、それが嘘だとか寝言だとか面倒臭くなったから特に意味のない相槌を打っておいたとか、そんな可能性は考えもせずただ純粋に驚いた。
 皆守が、目を閉じたまま続ける。

「お前は、もっとまともな奴だと思ってた」
「俺はまともだよ」
「そうか?」
「俺がまともじゃなくって誰がまともだってんだよ!」
「俺」
「よし、話し合おう!」
「まともの定義について?」
「うん」
「まともな奴は、死にたがってる奴を助けたいなんて思わない」

 彼は、葉佩を普通ではないと言って非難する。常軌を逸した狂人、世間一般の常識を知らない愚か者、そんな風に葉佩を評する。そのたびに、葉佩は常識など《宝探し屋》の役には立たないと言って虚勢を張る。実のところ、口では批判しつつも大概の事は許容している彼の本心を知ってはいたけれど、葉佩は本当はとても悲しかった。
 挨拶をする、会話をする、感情を共有する、そういう事を、葉佩は知らない。自分が何も知らないのだと、葉佩は知らなかったのだ。たとえば隣で眠る人が寒そうにしていて、でもその人は虎の毛皮に包まれる事を望んでいなくて、しかし今この手には虎の毛皮しかない。そんな時、どうすればいいのか知らないのだ。

 彼はいつも残酷な事実を突きつけてくる。そのたびに葉佩は後悔する。《宝探し屋》という自分を選択した事を、つまり柔らかくて暖かい毛布をかけてあげられない自分であるという事を、ひどく後悔する。