吐き気も頭痛も悪寒も、歩けば治ると思っていた。だから葉佩はいつものように扉を開けて、蛙(仮)と戯れつつクエストを達成して、それでも治まらない悪寒に首を傾げた。体が怠い。間接が軋む。背筋を怖気が走る。 しばらく休めば治るかと考え、その夜は早々に引き揚げてベッドに突っ伏した。 明け方前に目が覚めて、葉佩は思わず舌を打った。喉が痛い。呼吸が苦しい。毛布から顔を出して息を吸うと、肺が引きつってそれを拒んだ。背中を丸めてひとしきり咳き込み、どうにか落ち着いた喉に唾を流し込む。それすらも痛い。ちくしょう、と声にならない声で呟き、為す術もないので再び毛布にくるまった。 H.A.N.Tがメールの着信を告げた音に意識を引かれ、葉佩は目を開けた。H.A.N.Tは枕元にある。しかし枕がどこにあるのか分からなかったので、ベッドの片隅で丸くなったまま諦めた。今はそれどころではないのだ。 体が震える。頭の芯がぐらぐらと揺れる。つい数秒前まで見ていた夢が、まだ視界の端でうごめいている。うるさい黙れと叫びたかったのだが無理だったので呟いて、まとわりつく悪夢を追い払おうとシーツを掴んだ。冷たく柔らかい感触が、酷薄に思えて心地よい。そこに頬をすり付けてから、汗か涙か判じかねたが濡れていると気付いた。 訳も分からず後悔していた。何もかも投げ捨てて、もう嫌だと叫んで泣きたくなっていた。でもそんな事はできないので、葉佩は後悔しながら、泣きそうになりながら、這いずって前に進もうとしていた。 ふ、と額に何かが触れた。冷たい。甘い。辛うじて抑え込んでいたものが、目から零れ落ちた。 目を開けると、皆守がプリンカレーを見るような顔をしてこちらを見下ろしていた。 「・・・なにその顔」 「気持ち悪い」 「吐くなら洗面所で」 「違う。お前が」 「俺は、吐き気はないけど」 深く息を吸うと咳が出るので、喉を刺激しないよう慎重にささやく。そうすると、皆守はますます顔をしかめた。病人を見るにしては、ちょっと威圧的というか、攻撃的というか、侮蔑的というか、とにかく友好的な表情ではないと葉佩でも理解できた。そのままの表情で、皆守が吐き捨てる。 「八千穂にメールしとけ」 「やっちーに?」 「返信がないとか言って騒ぎやがる」 「あーそっか、心配かけちゃったか」 用件はそれだけだ、と言って踵を返し、皆守は振り向きもせずに部屋を出て行った。 緩慢にしか働かない脳を、苦労して回転させる。無断で欠席した葉佩を、優しい彼女は心配してくれたのだろう。早く返信しなければ。俺は大丈夫、心配しないで、平気だから。 空虚な言葉を、彼女は信じてくれるだろうか。それとも、嘘だと知ってなお笑ってくれるのだろうか。どうか彼女が真実を知りませんように。未だ見ぬ《秘宝》に祈りながら、空言ばかりを並べたメールを送信する。 H.A.N.Tをたたんでから、葉佩は自分の頬が濡れているのだと思い出した。指で触れて確認すると、汗ではなく涙だった。あの男に泣き顔をさらしてしまうとは、なんたる不覚。まあいいや。 冷たい手の感触を記憶に浮かべ、どうしてこの学園にいるのは優しい人ばかりなのだろうと考える。居心地が悪い。見くだされているような気持ちになる。憐憫と慈愛は、底から見ると傲慢に見えてしまうのだと、あの人たちはきっと知らない。 こんな仕事はとっとと終わらせて、秘境の遺跡に行こう。誰も知らない場所を、たった一人で旅しよう。そうだそうしよう。治まらない咳の発作に喘ぎながら、葉佩は心に決めた。 もう何度目か目覚めると、皆守が枕元に立っていた。今度は無表情だ。 「起きたか」 「・・・あのさ」 「喋るな」 「・・・」 「口からと鼻から、どっちがいい?」 「なんの話?」 「水、飲むだろ?」 目も合わせずにそう言われて、葉佩はようやく水分を欲している事を自覚した。ところで、彼はどうして病人の鼻から水を流し込もうとしているのだろう。冷たくて硬い手が口を覆って、皆守が無表情のままペットボトルを傾けた。慌ててその手を振り払い、頬に落ちた水滴を拭う。 「おま、なに」 「俺は怒ってるんだ」 「いや、これむしろ怒るの俺だよね」 「葉佩のくせに」 「お前こそ、皆守のくせに」 「風邪なんか引いてんじゃねぇ」 「お見舞いなんか来てんじゃねぇよ」 「お前は俺を誤解してる」 「そうか、ごめん」 「俺は、約束は守る男だ」 「ああ、うん、約束ね、したよね」 「お前じゃない、八千穂だ」 売店の袋から出てきたのは、葉佩の予想に反してカレーではなかった。彼も人だったという訳だ。そんな事実に感動すら覚えた葉佩は、正常な判断力を失っている自覚はない。 ゼリー状の携帯食とペットボトルが、無造作にベッドへと投げ出される。油断すると斜めになる体をどうにか縦にして、葉佩は投げ出された物をぼんやりと見詰めた。これはつまり、差し入れと判断してもいいのか。咳が治まるのを待って皆守に問うてみると、鋭い舌打ちが返ってきた。意味が分からない。イエスかノーかの返事すらできないのかこの子は。 冷たい手が、べちっと音を立てて額に触れた。そのまま押されて、抵抗する気力はなかったので倒される。しかし、完全に葉佩の後頭部とベッドが接触しても、額に置かれた手は離れない。しかも、徐々に重さが増している。 「皆守、重い」 「そうかよ」 「手ぇどけて」 「なんで」 「重たい」 「熱いな」 「たぶん熱があるから」 「何℃?」 「さあ」 計っていないから分からないと正直に答えると、更にぎりぎりと圧迫された。何がしたいんだこいつ。疑問は熱に浮かされた脳を揺れ動くばかりで、明確な言葉にならない。ただ、その手はとても冷たくて硬くて甘くて、苦しくはないのが不思議だった。 「あ、やっぱどかさなくっていい」 「?」 「冷たくって気持ちいい」 と言った瞬間、手は離れていった。薄目を開けると、制服の上着で手を拭う皆守が見えた。やはり眉間に皺を寄せている。銜えているパイプに火は入っていない。それなのに、どうして彼はこうも甘いのだろう。考えるでもなく、たゆたう疑問をぼんやり眺めていたら、皆守が小さな箱を取り出した。 「飲め」 「なに?」 「熱さまし」 「いらない」 「分かった、鼻からだな」 「何が分かったのか言ってみろ」 「お前が莫迦だって」 「ああ、分かっちゃったかぁ」 バレないようにしていたのに、どうして分かってしまったのだろう。なんて鋭い洞察力だ。完敗だ。うわごとのように呟くと、またしても甘い手が落ちてきた。しかも鼻の上に。痛みに涙が滲む。さすがに抗議しようとしたら、肺がその心を裏切った。体を折り曲げて咳き込む葉佩を、薄情な目がじっと見下ろしている。 その目が薄すらとも情を含んでいなかったら、葉佩はこんな気持ちにはならなかった。ただ通り過ぎるだけの人だったら、無様な姿を見られても、どうとも思わなかった。旅の恥はかき捨て。人生が旅であると定義するならば、全ての恥はかき捨てだ。ならば恥じるという行為そものもが無意味だ。しかし無意味でも、こうして心は恥を厭うのだから仕方ない。特に彼の前では。 堪らなくなって、喘ぎながらもどうにか「帰れ」と口にすると、皆守がまるで憎むように眼差しをきつくする。ぎゅっと唇を噛み締めてから「ああそうするさ」とつぶやき、しかしベッド脇から動こうとはしなかった。 葉佩の胸に、どうしようもなく憎悪が募る。それは畢竟するに不甲斐ない自分へと向かう憎悪で、彼の前で無様な姿を晒し続ける事への嫌悪だ。今ここで皆守が殺意を覚えても、それを拒む術がない。甘く冷たい手が首筋に触れても、振り払う力がない。助けてくれと泣き付かれても(彼はそんな事をしないと分かっているが)、手を差し伸べる事すらできない。そんな自分を、彼は知らなくていい。 「俺がベッドで悶えてんの見て楽しいかよ」 「その言い方だとちょっと楽しいな」 「ほんと帰れお前」 「苦しいのか」 「いや、すっげー楽しいよ」 「そうか」 「おう、死にたいぐらい最高だ」 背筋を悪寒が這い上がる。視界が赤く歪む。自分の息がうるさくて、彼の声もよく聞こえない。ぐらぐら揺れる頭をシーツに投げ出して、手探りで毛布を引き寄せる。ベッドに転がっていたペットボトルが床に落ちる音がした。それも、もうどうでもいい。体を丸めて、落下の錯覚から身を守る為に毛布を固く握り締める。米神を伝う涙がくすぐったい。 甘くて冷たい彼の気配が、落下速度を加速させた。 ここは底だと思っていたのに、まだ落ちるのか。 力の入らない指でシーツにすがり付く。 頭の横で舞い踊る虹色のコウモリは、なんだかとても楽しそうで腹が立った。 嘲笑っているのか、上等だ。撃ち殺してやる。俺を見下す奴は、一人残らず殺してやる。 銃を探して手をさまよわせていると、指先に冷たい何かが触れた。 鉄の感触ではないが、シーツの柔らかい感触でもない。 もしかしたら、欲していたのはこれなのかも知れない。 ひやりと白いそれが額を撫でると、甘い香りがする。 行かないでと懇願すると、それはふわりと水のような芳香をかもした。 離さないで。ずっと傍にいて。 泣きながらそう言うと、困惑したようにゆらめいた。 葉佩が目覚めると、世界は夜だった。 体はだるいが、あの全身を覆う形容しがたい不快感は去っている。熱が下がったのだろうかと自分の額に手を当ててみて、葉佩はその物体に気付いた。額に貼り付けられていたのは、少しだけぬるくなった冷却シートだった。前髪も何本か一緒に貼り付けられているのだが、それは貼った人間が予想どおりならば些細な事だ。 皆守は、椅子に座ってこちらを見ていた。だらしなく脚を組んで、片肘を後ろの机に乗せて、左手でナイフをもてあそんでいる。病人の看護にしては物騒というか、偉そうというか、なんでそんなに不穏な空気をまとっているのだろう。葉佩が疑問を言葉にするより早く、皆守が口を開いた。 「今の全部、寝言か?」 「え、俺なんか言ってた?」 「・・・」 「喉渇いたな」 と言った直後に、結構な速度でペットボトルが飛んできた。あやうく受け止め、喉に流し込む。生ぬるいと感じたが気にせず、一息で半分ほど飲み干した。 皆守はまだ手の中のナイフをもてあそんでいる。協会から支給されたコンバットナイフではなく、葉佩が昔から愛用している薄刃のナイフだ。刃は何度か挿げ替えたが、柄には色々なものが染み込んでいる。綺麗な白い手が、汚れた武器をゆるりと撫でた。まるで自分自身を撫でられたように錯覚して、葉佩が思わず顔をしかめる。 「それ、触るな」 「なんで」 「大事な物だから」 「お前にそんなものがあるのか?」 「最悪だお前」 「やっと分かったか」 刃のように薄く笑い、皆守が手の中のナイフを机に置いた。 見ていたであろう夢は、憶えていない。高熱に浮かされて見る夢など、どうせ悪夢に決まっている。憶えていない方がいい。だから葉佩は何も言わず、まだひりつく喉にぬるい水を流し込んで再びベッドに突っ伏した。 次に起きたらもっと冷たい水を飲もう。声には出さず呟くと、額に氷のような手が触れた。 「まだ熱いぞ」 「うん、皆守、手ぇ冷たい」 「お前が熱いんだ」 「皆守の手はいつも冷たいよ」 「そうか?」 「うん」 触るなと言って振り払いたいのに、それができないのは何故だろう。彼の手が冷たすぎるからだと結論づけて、喉の奥に絡みつく甘さを唾液と混ぜて飲み込む。 小さく咳き込むと、なだめるように手が米神の辺りを撫でた。その仕草があまりにも優しくて、葉佩は訳も分からず泣きたくなる。その手を拒めない自分は、もう二度と前に進めないのではないかと危惧して、恐怖に胸が押し潰されそうになる。 耳を塞ぎたくなるような優しい声が、くすぐるようにささやいた。 「寝ろよ」 「お前が帰ったらな」 「俺がいても寝てただろ」 「うるせぇ黙れ」 ここで眠ってしまったら、きっと目覚めて後悔する。眠る前には確かに触れていた彼の体温を探してしまう。もし彼の姿が見えなかったら、寂しく感じてしまうだろう。そんな自分は許せない。だから、彼がこの部屋を立ち去るまで眠れない。彼はもういないのだと理解してから眠らなければ、きっと目覚めて後悔する。 しかし目蓋は重かった。甘くて冷た い彼の手が、更に眠気を加速させる。せめてその手をどけて欲しい。それが駄目なら香りだけでも消えてくれないと、二度と闇には戻れなくなる。喪失と孤独を恐れてしまう。恐れは踏み出す足を殺す。武器を握る手を殺す。迷宮に恋焦がれる心を殺す。それは葉佩にとっての死だ。 声ではなく呟くと、手が少しだけためらって目蓋を覆った。 「いいから寝てろ」 それはつまり、死ねという事か? |