風祭はその時、自分の視力を呪った。常人ならば気付く事も無かったであろうその光景は、風祭の精神に激しい痛痒をもたらした。溜息を吐き出し、諦観の相を呈した心情を同時に吐き出す。
風祭の目に映っているのは、緋勇龍斗である。ゆったりとしたその喋り方も、人を小莫迦にしたような笑顔(風祭の主観的意見)も、時折掠めるように現れる深い悲哀も、全てが風祭には気に入らなかった。その人物が、木の上で眠っている。
「おーい、落ちっぞー」
呼び掛けるように、独り言のように、絶妙なバランスで眠り続ける人に向かって声を投げる。届くなどとは思っていなかった声が、緋勇の意識を浮上させたらしい。僅かに身動ぎ、緋勇は顔を上げた。その瞬間、体を支えていた枝が揺れ、奇跡的に保たれていた均衡が崩れた。寝起きらしく、だらしなく開かれた口が声を発したような気がしたが、その音を確認する前に風祭は走った。
「っ・・・ばかっ!」
無意識に口から出た言葉が罵倒であった事など気にも留めず、風祭は手を差し伸べる。小さな体には、緋勇の体重と落下するエネルギーを止める力など無い。そんな事は分かっている。それでも、風祭は走った。走りながら、視界の中で間抜け面(風祭の主観的意見)が寝惚けたまま反転するのを見た。しなやかに体を捻る、その動きに一瞬見蕩れた。距離は既にゼロに近い。物凄い形相で走る風祭に、その時緋勇は初めて気付いたようだった。
「・・・危ないなぁ、何してんのさ」
「うるせぇ!何でもない!」
「しっかしトロいねぇ、お前は」
「黙れっ!」
「丁度落ちてくる所に居るって、間が悪いにもほどがあるぞ」
「どーでもいいから早くどけよばかっ!」
結果的に風祭を踏み付けてしまった緋勇に、それを詫びる気はさらさら無いようだ。風祭の上から退く気も無いようだ。身に覚えの無い罵倒に眉を寄せて、硬く傷だらけの拳で後頭部を小突く。
「お前は、もう少し礼儀ってモンを覚えなさい」
「知るかんなモン!礼儀でお前が倒せんのかよ!」
「さあ、どうだろう。やってみれば?」
「・・・ってやらぁ!」
吠えながら、圧し掛かる緋勇を払い除ける。その勢いで体を回転させ、遠心力を乗せて踵を振り抜く。ひょいとそれを躱し、緋勇が微笑んだ。揶揄する色はない。無邪気に、幸福を噛み締めるように、優しく微笑んだ。
「笑ってんじゃねぇ!」
「いや、微笑ましいよこの光景は」
そう言い、声を立ててまた笑う。緋勇にその意思がなくとも、笑い声には良い思い出が無い風祭にとっては、侮辱されたも同然だ。それを知らぬ緋勇ではないが、それでも彼は笑う。まるで満ち足りているかのように。
「猪じゃないんだから、真っ直ぐ突っ込んできてどうするの」
「黙れよ!ベラベラ余計な事ばっか言いやがって、見下ろしてんじゃねぇ!」
「流れを読むんだよ。重さと視線と体の動き。ほら、今俺の力はどっちに流れてる?」
「知るか!」
「いや、知れよ。俺より強くなるんだろ?」
緋勇が笑みを抑える。少しだけ真面目な表情で(それでも阿呆面だ)、風祭を正面から見据える。ついでに間合いを詰め、懐に入り込み、軽く掌を打ち込む。急所を庇おうと上げた腕に遮られ、視界が狭くなる。その死角に、緋勇の姿が消えた。慌てて腕を下ろすと、先程寝転んでいた枝に緋勇がぶら下がっていた。
「俺を倒すんだろ?」
くるりと体を捻り、今度こそ着地に成功した緋勇が、阿呆のように(風祭の主観的意見)また笑った。
「ちっげぇよこのバカ!化け物が偉そうに喋ってんじゃねぇ!」
「・・・お前、それ言い過ぎ」
「化け物は化け物だろ。人間みたいにしてんじゃねぇよ。卦体糞悪ぃ!」
「・・・それは、流石に傷付くぞ・・・」
「そーかよ、そりゃ笑えるな」
「・・・お前、本当に莫迦だねぇ」
風祭は、自分が今にも泣きそうに顔を歪めている事に気付いていなかった。緋勇を傷付ける為の言葉を吐き出し、同時に自分をも切り刻んでいた事に、気付いていなかった。
「後悔するぐらいなら、端っから言うんじゃないよ」
「うるせぇ!お前こそ!見え透いた嘘吐いてんじゃねぇぞ!」
「うん?分かったの?」
「お前は、人の言葉でなんか傷付きゃしねぇんだよ!」
その言葉に、緋勇は笑みを残したまま哀を浮かべた。
緋勇の左眉の下には、刃物傷と思しき跡がある。米神も同様だ。右の耳朶は、良く見ると抉られたように歪んでいる。衣の下には目を背けたくなるような傷跡がある。風祭はそれを、遣る瀬無いほどに知っている。だからこそ思う。緋勇を傷付けるのは、人では有り得ない。こんな傷では、彼は折れない。
「そんなことはないよ」
緋勇の声音は、何処までも穏やかだった。御雷槌が主を語る声にも似ている。緋勇はかつて風祭にせがまれて、自分の傷の原因を、まるで桃源郷の有様を語るように穏やかに話して聞かせた。それと同じ声だった。
「俺は化け物じゃないよ。ただの人間だよ」
「・・・分かってるよ」
「そう、それならいいや」
恥辱も憎悪も絶望も知らぬ幼子のように、緋勇は笑う。風祭がどれほど酷い言葉を浴びせようと、その表情は変わらない。風祭のどんな行為も、彼に傷を残す事は出来ない。その現実が、風祭は痛くて仕様が無かった。自分が付けた傷の痛みで、緋勇が泣けば良いと思う。自分の言葉で絶望し、世界の全てを敵に回せば良い。そうしたら、緋勇を救えるのは俺だけになるのに、と風祭は考えた。考えて、口に出してみた。
「お前、絶対ぇいつか泣かす」
「頬っぺたの痣が消えたら、また遊んであげるよ」
ああ、今日も伝わらなかった、と、風祭は空を仰ぐ。
どうせお前は、俺が何をしたってそうやって笑ってるんだろ。
|