ドアを開け、ベッドの上でその生き様からは想像もできないような安らかな寝息を立てている塊に狙いを定める。こちらの気配を察しているのかいないのか、はたまた察していても無視しているのか、塊はまったく反応を示さない。苛立ちに任せ、皆守はくすんだ色のタオルケットを勢いよく奪い取った。視界に現れたのは、よく知った傷だらけの体ではなく、目に眩しいほど白い女の裸体だった。想定外の事態に、皆守が思わず固まる。小さく呻き、女が目を開けた。

「・・・誰?」
「こっちの科白だ」

奪い取ったタオルケットを女に投げ返し、なくなった事で逆に存在を感知させるに至った現象を、皆守はこの時になって漸く認識した。つまり、先程から水音が聞こえてはいたのだが、それを葉佩の不在と結び付けて考えなかった自分の浅はかさを恨んだ。振り向けば、まだ髪から水を滴らせている葉佩と目が合った。ベッドの横に突っ立って変な顔をしている皆守に、唇の端だけで笑って見せる。

「おはよ、皆守」
「服を着ろ。ああその前にちゃんと髪を拭け、体も」
「うん」
「あと全裸で人前に出るな。せめて隠せ」
「お前しかいねぇのに?」
「誰の前でもだ!」

吐き捨てると、幻を追い求める狂った男が幸福そうに微笑む。背後でくぐもった声が聞こえた。タオルケットにくるまって、女がさも愉快そうに笑っていた。なるべくその顔を見ないように留意して、八つ当たりだと分かってはいたが声を荒げる。

「仕事が終わったんならとっとと出て行け売女!」

ほとんど罵倒のような皆守の言葉に、女は百戦錬磨の貫禄で視線を流した。それが、すれ違った母子の微笑ましい会話がふと耳に入った時のような、遠い幸福への憧憬を含んでいるように感じられて、皆守は更に機嫌を傾がせる。
 男二人の視線をものともせず、女は優雅な仕草で着衣を整えて、葉佩にだけ微笑んでから部屋を出て行った。

「技はいまいちだったけど、可愛かっただろ?」
「なんで俺が商売女の技巧についてコメントしなきゃいけないんだ」
「癖っ毛がお前と似てるなーって思ったんだ」
「だからどうした」
「可愛かったよ」

返す言葉を見失い、皆守は面倒臭くなったので会話を放棄した。協会から呼び出しがかかった事を簡潔に告げ、そのまま踵を返す。そもそも葉佩が呼び出しを無視し続けているからこそ、皆守がこうしてわざわざ足を運ばなくてはならないのだ。お陰で見たくもない物(女の裸はともかく、葉佩の体まで)を見てしまった。舌打ち混じりに「確かに伝えたからな」と言い捨て、足早にドアへ向かう。その背中に、物理的には鼓膜を震動させる程度の力しか持たない拘束が飛んできた。

「あ、じゃあちょっと待ってて」
「まずは体を拭いて服を着ろ」
「うん、だから待ってて」

どうして足を止めたのか、皆守自身にも分からない。だが現実に皆守は足を止め、乱雑な動作でソファに腰を下ろして疲労したスプリングに必要以上の負荷をかけた。アロマに火を点けようとライターを擦ったら、葉佩がその腕を取って自分の口元に火を移した。眼前で吐き出された煙を苦く見詰め、今度は芳香を欲してではなく、視線を落とす動作をさり気なく見せる為に火を点ける。どうしてこんな気持ちにならなければいけないのだ。

 葉佩は呼び出しを無視しても立場が危うくなるような新米ではない。控えめに表現しても凄腕の葉佩は、協会に相当な額の利益をもたらしている。仲介料だけでも、トップクラスのハンターともなればそれだけで(そこそこの生活なら)数年は遊んで暮らせるほどの金額だ。その人材を繋いでおく為の餌として、皆守は協会に認知されている。要するに、葉佩への召還命令などはそのほとんどが皆守を介してのものだった。
 バディとしての能力も確かに秀でたものではあるが、組織として重要視されているのは葉佩を操作する為の人材であるという事実は否めない。少々卑屈にそんな事を考えながら、皆守はアクセルを踏んだ。

 葉佩を指令どおり協会の支部に送り届け、さて帰って寝なおすか、と早々にUターンしようとした皆守の耳に、またしても拘束力を有した声が届いた。

「すぐ戻るから」
「・・・から?」
「待ってて」

肯定も否定も表さない皆守に、葉佩は満足そうに笑って去って行った。それを、皆守は信頼だとは思わない。たとえ皆守が待たずにさっさと帰ってしまっても、葉佩は怒りも悲しみもしない。ただ、あとで疑問を呈するだろう。「どうして待たなかった」と言って、責めるのではなく子供のように首を傾げる。その顔が、皆守には容易く想像できた。皆守は自分の言葉に従うと、不自然なまでの純真さで思い込んでいるのだ。恐ろしいと思うと同時に、そんな束縛にすら自尊心を掻き立てられる自分が、もうずっと前から知っていたのに改めて惨めになった。
 
 思っていたよりも葉佩は早く戻ってきた。「おまたせ」と言いながら助手席に乗り込み、煙草に火を点けながら空腹を主張している。目に入ったファストフードの看板を指差して入店を提案したが、皆守は即座にそれを却下した。理由として挙げたのは「そういう気分じゃない」という実に説得力に欠けるものだったが、葉佩は特に反論するでもなく次の候補を口にする。その全てを明確な根拠も提示せずに却下し、結局は何も腹に入れぬまま葉佩の部屋に戻ってきてしまった。

「皆守、なんか作ってよ」
「だるい」
「カレーでいいから」
「カレーでってなんだ。そんな消去法でカレーを選ぶような奴に食わせるカレーはない」
「カレーがいいです。作ってください」
「面倒臭い」
「人が下手に出てりゃいい気になりやがって」
「何か言ったか?」
「腹減った。調子に乗んなよカレー野郎。お前なんか俺が本気出せば5秒ももたねぇぞ」
「・・・どーしてもって言うんなら」
「買い置きあったかなー」

言いかけた皆守を置いて背を向けた葉佩に、衝動的に踵を落としたくなった。勿論そんな事をしても無駄なのはもう分かっているので実行はしない。戸棚を物色する葉佩の背中に、代わりという訳ではないのだが言葉を落とす。

「葉佩、風呂借りるぞ」
「あ!俺も入る!」
「は?さっき入ったばっかだろ」
「髪洗ってやるよ」
「いらん」
「毛づくろいは従属の証なんだよ」
「お前を従属させて俺になんの得が」
「え、俺ってけっこー便利だよ」
「使いこなす自信がない」
「謙虚な奴だなー」

押し切られた形にせよ、結果として皆守はそれを拒否しなかった。そもそも接触を好まない皆守がそれでも承諾したのは、葉佩がその行為を好んでいるからだ。洗髪の他にも、爪切りや髭剃りなどを買って出る事もある。夫に尽くす貞淑な妻ごっこではなく、愛用の道具を手入れするのと同じような感覚なのだろう。或いは命の意味など知らぬ子供が、ペットの動物を可愛がるのと同じだ。どちらにしても、人間として正常な愛情表現ではない。
 熱心につむじを探している葉佩は、その頭皮の奥で渦巻く様々な思考など知る由もない。発見したつむじに満足して、前置きすらなく泡まみれの頭に湯をぶっかけた。皆守の鼻先で、羽虫のはばたきによく似た音を立てて火が消える。うっかり油断していた皆守が我に返る前に、葉佩は気が済んだらしく鼻歌混じりに風呂場を出て行った。冷水ではなかっただけマシか、という結論に至った皆守は、既に葉佩との意思疎通をなかば諦めている。
 中途半端に残った泡を洗い流し、何やら香ばしい匂いが漂う部屋に戻った。香ばしい、というよりむしろこれは焦げ臭い、という事に気付き、床に座ってH.A.N.Tを睨んでいる葉佩の肩に足を乗せた。

「おい葉佩、焦げてる」
「ああ、うん、火ぃ止めといて」
「気が付いてたんなら早く止めろ!」
「発火するほどじゃないから大丈夫」

H.A.N.Tから視線を外さない葉佩に今度こそ踵を落とし、フライパンの中の玉子焼き(になる予定だったと推測される物体)を見下ろす。これはあれか、駄目な奴アピールで気を引こうとかそういう、いや違うな、そんな複雑な思考に基づく行動ではない。作業の途中で集中力が別のものに移ってしまっただけだろう。玉子の黄身と白身が凝固する様子を観察するのは飽きたのだろうか。以前、葉佩は阿呆のように焼けてゆく玉子を見詰めていた事があった。正直ちょっと気持ち悪いと思っていたが、食事を平和に楽しむ為にはその方が良かったのかも知れない。
 消し炭になる半歩手前の玉子焼き(になる予定だったと推測される物体)を救出すべく、火を止めて暫し黙考する。表面はもう手遅れだが、内部はまだ無事だ。黒い部分を剥離させ、どうにか快適な食事に問題がない程度に修復した。ついでに冷蔵庫を覗きこみ、新鮮な食材が存在しない事を確認する。怪しげな薬品が並んでいるのは意識の外に追いやって、口にしても重大な被害がないと思われる物を選り分けて取り出す。そうして(細かい事を気にしなければ)正常な食事の準備を終え、かつては家事の達人などと称されたらしい男の背中に、「できたぞ」と言って足を乗せた。

「え、マジで?修復できたの?」
「おう、褒め称えろ」
「すげぇよ皆守!さっすが皆守!最高だ!抱いてくれ!」
「それは断る」
「じゃあ俺が抱いてやるよ!」
「それも断る」
「えーと、じゃあねー」
「いや、普通に感謝してくれればいいから」
「うん、ありがと」

どんな含みもなく、葉佩は素直に謝意を示した。少々の満足感と多大なる虚脱感を同時に口中で転がし、皆守は玉子焼き(修復済み)を口に運ぶ葉佩を盗み見た。「あ、すげぇほんとにちゃんと玉子焼きになってる」などと呟く口元は、ただ純粋に喜びを表現する形に歪んでいる。テーブルに並んだ飲食可能な物体を全て平らげ、皆守に視線を合わせて言った。

「やっぱ結婚するんなら皆守だな」
「それは本気で勘弁しろ」
「俺が死ぬまではその辺にいてね」
「どの辺だ」
「呼んだら来てくれる辺」

皆守はそれを、いいように使われている、などとは思わない。物を欲しがらない葉佩に、あげられるものがあるという事だからだ。それを幸運などとは呼ばない。かつて葉佩を攻撃した武器で、今は彼の背中を守れる。それが奇跡などと、絶対に認めない。願ったから得られたのだと、今でも皆守は信じ、また誇っている。

「俺が先に死んだら?」
「死なないでよ。いや死んでもいいけど、なるべくなら死なないで欲しいな」
「・・・まあ、前向きに善処する」
「おう、頼むぜ」

 手に入らないものばかりを追い求めるこの男は、皆守に執着している。世界中に自慢して回りたいほど(いや、しないけど)誇らしい気持ちになった。世界に見捨てられた狂人が、たった一人の男の為に必死で人間の真似事を繰り返している。「俺を見捨てないで」と、世界ではなく皆守に向かって訴えているのだ。どうして誰もこの男の価値に気付かないのだろう。否、気付かなくて良い。世界でただ一人、自分だけが知っていれば良い。
 闇に光る全てを欲するように、または己の全てを捧げるように、葉佩が皆守に手を伸ばした。その手を握り返し、皆守が心で呟く。

 こいつを捕らえたのは、この俺だ。
 それすらも幻だというのなら、狂人と呼ばれても構わない。

 どんな人間の前でも熟睡しない男が、皆守の腹の上で目を閉じている。やがて聞こえてきた寝息は、何故だか泣きたくなるほど穏やかだ。この男が安心して眠れるのは自分の胸の中だけなのだと、まるで切望するように思う。どんな女と寝ていようと、葉佩が心に浮かべるのは自分だけなのだと考えるだけで、狂おしく心臓が沸き立つ。
 呪いのようだ、とふと思い立ち、皆守は眠る獣を起こさぬよう声を殺して笑った。