首筋を伝い落ちる汗を拭いもせず、蓬莱寺は日向に佇む人を眺めていた。緋勇は先程から微動だにしない。ただじっと目を閉じて、傍から見ればぼけっと突っ立っているようにしか見えない。精神統一とか瞑想とか、そんなようなものだろうと蓬莱寺は思っているのだが、真実は違うのかも知れない。しかし、彼が研ぎ澄まされているように見えるのは事実だ。それが晩夏の陽射しが見せる幻だったとしても、否定する根拠はどこにもないのだが。
「ひーちゃん」
もう何度目か、呼んでも返事はない。緩く拳を握り、軽く足を開き、背筋は綺麗に伸ばしたまま、緋勇は空気と一体化したかのように夏の景色に溶け込んでいた。
蝉の声だけが耳を圧迫する。流れるままにしておいた汗を袖で拭い、蓬莱寺は縁側に上体を倒した。少しだけ冷たい板の間に頬を付けて、彼は暑くないのだろうかと考える。陽光に晒された白い皮膚は、きっと赤くなっているに違いない。湿って熱を持った彼の皮膚の感触を想像して、それを掻き消すように指先をこすり合わせた。
不意に緋勇が目を開けた。やや俯きがちだった横顔が、真っ直ぐに陽炎の立つ道を見詰める。主人の帰宅を感知した犬のようだ。八つ当たり気味に、彼を蔑む言葉を浮かべる。口に出すほど自分は幼稚ではないと、そう思いたかった。
緋勇が縁側から居間に上がって数秒後、道の向こうに見憶えのある姿が見えた。時代錯誤としか言いようのない着流しが、動作に合わせてゆらりと揺れる。男がこちらを見て手を上げた時、緋勇は既に畳に突っ伏していた。やはり暑かったのだろう。うつ伏せで両手両足を伸ばし、完全に脱力している。炎天下で瞑想なんかするからだこの莫迦。
縁側と居間で死体のようになっている二人を見て、男はしょうがねぇなと口中で呟いて苦笑した。持っていた西瓜を蓬莱寺の腹に乗せ、土産だと言うついでに下駄の歯で蓬莱寺の脛を小突く。膝から下だけで抵抗を示した蓬莱寺にまた苦笑して、今度は緋勇に向かって含み笑いを漏らした。
「おい緋勇、生きてるか?」
「見れば分かるだろう」
「俺がいなくて寂しかったのか」
体は畳に投げ出したまま、緋勇が顔だけ男に向ける。射殺しそうな眼光だったのだが、男はそれをさらりと受け流して板の間に上がった。そのついでに蓬莱寺の頭を蹴飛ばす事も忘れない。蓬莱寺が、まだ腹に乗っている西瓜を壊さぬ程度に乱暴な動作で床に置く。
「冷やしておけよ」
「え、食わねーの?」
「生ぬるい西瓜なんざ食いてぇか?」
「へいへい、わーったよ」
「緋勇、ちょっとこっち来い」
物凄い眼光で一瞬だけ男を睨み、しかし緋勇は言われたとおりに身を起こして歩み寄った。いかにも不本意だと主張するような気だるげな動作で、視線を逸らして男の傍に立つ。気安い仕草で袖を引かれても、抗っているのは表情だけだ。それに気づいているのかいないのか、殺気すら滲ませる眼光には一切の関心を寄せず、男はひょいと腕を伸ばして緋勇の額に手を当てた。
「お前も冷やさないとな」
「いらん」
「俺を待つならせめて日陰で待て」
「待ってない」
「水浴びでもしてこい」
あからさまな嘘にも反応せず、男は軽く緋勇の頬を叩き、何事か言葉が発せられる前に手を離した。感触を払拭するように触れられた頬をこすりながら、緋勇はそれでも言われたとおりに裏の川に向かって歩き出す。
西瓜を抱えたままそれを見ていた蓬莱寺が、小さく舌を打った。耳ざとくそれを聞き留めた緋勇が、視線だけで友人の荒んだ心に問いを投げる。答えるのは癪だったが、湧き上がった疑問は抑えきれず口をついた。
「なんであいつは殴らないんだよ」
「どうして殴るんだ」
「俺が同じ事やったら半殺しじゃ済まねーだろ」
「そうか?」
と素直な瞳が見返してきたので、蓬莱寺は西瓜を片手で抱えなおして緋勇の額に手を当て、ようとして鋭く叩き落された。落ちた手を見詰めてから、二人が無言で目を逸らす。蝉の声と川音だけが、気まずい沈黙をかき回した。
「おい、今なんで殴られたんだ俺」
「殴ってない」
「痛かったぞ」
「半分も殺してない」
「なんであいつが出かけると落ち着かねーの」
「俺は落ち着いてる」
「なんであいつの言う事は聞くんだよ」
「聞こえるんだからしょうがないだろう」
振り払うように着衣を脱ぎ捨て、緋勇が川に飛び込んだ。上がった飛沫に濡れた蓬莱寺が、持っていた西瓜を投げ出してそれを追う。
水の中でも緋勇は素早い。掴まえるのは至難の業だ。むきになって時々浮上する黒髪に手を伸ばし、無駄に水を掻く自分の手にだんだんと本気になる。得物を置いてきたのは間違いだったと歯噛みしても、もう遅い。向こう岸に泳ぎ着いた緋勇が、滴る水を弾きながら蓬莱寺を見下ろしていた。勝ち誇っているように見えるのは錯覚だろうか。
ちょっと待ってろと叫んでから服を着るのも忘れて走って戻り、愛刀を引っ掴んで再び川に走る。これでようやく対等な勝負ができると意気込んで、水死体のように浮いていた緋勇に再戦を申し出た。
「お前は泳ぐのにも武器が必要なのか」
「必要っつーか、あった方が落ち着く」
「それで俺に勝てるとでも?」
「やってみねーと分かんねぇだろ」
川に飛び込み、水中で足場を見つけて切っ先を上げる。浮いていた緋勇が、くるりと水面で反転した。そのまま滝壺に潜ってゆく影を、見逃すまいと目を凝らす。素足で川底の石を掴み、流れに逆らい青眼に構え、川面に叩きつけるように刃先を振る。龍身のようにうねる川水に、緋勇がたまらず顔を上げた。そこを一閃、と頭ではない場所で考えていた蓬莱寺は、しかし次の瞬間には自分の甘さを痛感する事となった。
浮上した緋勇が、完全に間合いの外から円空破を放った。蓬莱寺が察するより早く、水は与えられた膨大なエネルギーを解放しようと激しく揺れ動く。緋勇はその力の向かう先を見事に制御している。つまり、蓬莱寺は恐ろしいほどの水圧に押されて向こう岸まで吹き飛ばされた。
「ふん、武器があろうと結果は同じだったな」
「うるせぇ!もう一回!」
「断る。俺は水浴びに来たんだ」
「あんな奴の言う事なんて聞くこたぁねーぞ」
「聞いてない。俺が冷やしたかっただけだ」
そう言って、緋勇が濡れた髪をかき上げる。散った飛沫が陽光を反射して、彼を飾っているように見えた。飾らなくとも彼は綺麗だと、賛同は得られない事など分かっているが、蓬莱寺は信じている。
ほんの気紛れだったのだ。師匠と呼んではいたが実のところ恩など感じていなかった男が、ふと今どうしているのか知りたくなった。その時、たまたま隣にいた緋勇が相棒の師匠に興味を持ってそれに同行すると言い出して、特に断る理由もなかったので二人でここまで来た。
男は相変わらずで、久し振りに会った弟子を歓迎するでもなく追い返すでもなく、まるで昨日も顔を合わせたかのように軽く二人の来訪を受け入れた。一瞬だけ切なげに目を細めたのは、緋勇を見た瞬間だった。ともすれば見逃してしまうほどの刹那に、どれほどの記憶が彼の胸に去来したのかを、詳らかにする術はない。
無礼すれすれの態度で自分の名を告げた緋勇に、男は子供のように笑って酒を勧めた。当然の如く始まった酒宴は、不本意ながら男の一人勝ちに終わったらしい。というのも、蓬莱寺は早々に沈没してしまったのだ。蓬莱寺が意識を取り戻した時には、いい勝負をしていた緋勇も潰れて畳に伏していた。月明かりを背にしていた男の表情は見えなかったが、寝入った緋勇の髪をいとおしむように撫でていた彼は、もしかしたら泣いていたのかも知れない。
翌朝、二日酔いのまま出立しようとした蓬莱寺を引き止めたのは緋勇だった。
「なあひーちゃん」
「ん」
「お前、あいつと知り合いだったのか」
「いや、初対面だが」
だったら、なんで。喉まで出かかった言葉を飲み込み、蓬莱寺は木々の隙間から差し込む光を掴もうとしてやっぱりやめた。代わりに、隣でゆらゆらと漂っている緋勇の腕を掴んだ。バランスを崩して沈みかけた緋勇が、川底に足を付けて蓬莱寺を睨む。あの男に向けた眼光は、もっと鋭かった。
「ひーちゃん」
「冷えてきたな」
「まさか一目惚れじゃねーだろな」
「打ち所が悪かったか?」
夏場の川水などとは比べ物にならないほど冷たい目で見られた。違うのか。
もう遠い昔になるが、あの男にも相棒と呼べる人がいたのだと聞いた記憶がある。大方は忘れてしまったが、相棒の話をする時だけ、男はやけに切なそうな目をしていた。それだけは憶えている。もうどこにもいない背中を、それでも追いかけるように、見送るように。
「ひーちゃんは、どっか遠くに行っちまったりしねーよな」
「さあな」
「まあいいか、追っかければ」
「そうだな」
「あ、西瓜」
「あそこに転がってるぞ」
「冷やすの忘れてたな」
「その辺に沈めておけ」
「なあひーちゃん」
「なんだ」
「雪蓮掌ってさ」
「俺は凍った西瓜なんて食べたくない」
「そーだな」
軽く頷き、濡れた体を陽射しに熱せられた石の上に投げ出す。同じように隣で寝転ぶ緋勇を直視できなくて、蓬莱寺はずっと空を見ていた。身じろぐと指先が彼の手に触れたので、意味はないが強く握り締めておいた。少しだけためらって握り返してきた手にも、きっと深い意味などない。
だってこの人は今ここにいるし、いなくなったら探すだけだ。繋がなければいけない理由など、どこにも存在しない。
服も着ないで帰ってきた二人を、男が風呂に蹴り込んだのはその数分後だった。
「老体には刺激が強すぎたか?」
「野生に戻りすぎだ莫迦弟子」
「ひーちゃんに惚れたら痛い目見るぜ」
「ああ、お前はもう見たのか」
「あ?」
「痛い目」
「おう、見たぜ。死ぬかと思った」
「・・・お前は俺より強いような気がしてきた」
「やっと気がついたか」
諦めたように溜息を吐き出した男に、蓬莱寺は胸を張って誇ってやった。見送るのも、見送られるのも、自分たちには有り得ないのだと。もう日は暮れていたのに、男は何故かまぶしそうに目を細めた。
蓬莱寺は、きっとその心を永遠に理解しないだろう。
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