雨音で目が覚めた。つまり、今日は朝から雨が降っている。傘も差さずに外に出れば濡れてしまう。濡れたら体が冷える。体が冷えたら風邪を引いてしまうかも知れない。引かないかも知れない。それは、その時になってみないと分からない。
 寝惚けたままそんな事を考えていたら、気付けば時計は9時を回っていた。今日は平日だ。学生ならば、与えられた知識を我がものとする為に勤しんでいるべき時刻だ。そして皆守は学生だ。
 しかし皆守は慌てず騒がず、ゆったりとした動作で身を起こしてひとつ欠伸をして、素足を床に下ろした。ひやりとした感触が心地好い。春の海のようにぼんやりと霞がかった頭が、少しだけ冴えた、気がするが、たぶん気のせいだろう。

 重たい頭を支えるのに苦労しつつ、時々休憩を入れながら着替えていたら、ドアが開いた。

「皆守バッタ!」
「俺の名前がバッタみたいに叫ぶな」
「バッタ捕まえた!」
「そうかよかったな」
「ショウリョウバッタ!」
「うん」
「あ、そうだ、学校いこーぜ」
「今忙しいから、あとでな」

えーと無意味な声を発しつつ、葉佩が手の中の小さな生き物を、丁寧な動作で床に置く。
 精霊飛蝗。死者の霊魂という名の小さな生命。濡れた草むらに膝を付いて、夢中でそれを追いかける男。いわく言いがたい気持ちになって、皆守は目を閉じてかぶりを振った。これが夢の続きだったら、どんなにいいか。否、夢までもがこんな名状しがたい奇妙なものに溢れていたら、まどろみすら安らぎではなくなってしまう。現実だから諦められるのだ。
 片腕を袖に突っ込んだまま切なげに目を伏せた皆守を、葉佩がぼんやりと見詰めている。

「ねえ皆守」
「おい、バッタ逃げたぞ」
「もういいよ」
「いや、つまり俺の部屋にバッタが解き放たれたんだが」
「皆守はバッタって嫌い?」
「好きでも嫌いでもない」
「じゃあいいだろ」
「それもそうだな」
「学校、行こう」
「なんで」
「雨が降ってる」
「そうだな」
「傘」
「傘がどうした」
「入れてください」
「持ってないのか?」

葉佩は無言で頷いた。

 なんだか漠然と憂鬱な気分になりはしたがそれを適切に表現する術もなく、皆守はいつからそれが自分の物になったのかも判然としないビニール傘を葉佩に手渡した。
 差し出された取っ手を掴み、葉佩が「ありがとう」とやけに常識的な言葉で謝意を示す。それに曖昧に頷いて、皆守もその辺にあった誰の物とも判ぜられないくたびれた傘を手にとって、ちょっと借りるぞと心の中で断って外に出た。
 雨の日に玄関の片隅でひっとりと逆立ちしていた傘に、本来の存在意義を取り戻させてやる、という行為は、なんだか善行のようにも思える。詭弁だろうか。

「あ、カエル」
「そうだな、俺も帰りたいと思ってたところだ」
「アマガエル皆守!」
「俺のファーストネームがアマガエルみたいに言うな」
「あ、逃げた!」
「何故ならお前が追いかけるからだ」

ぴょんと跳ねて路傍から草むらに跳び込んだアマガエルを追って、葉佩が走り出した。水を通さない傘は、空気も通さない。葉佩の動作で起きた風に煽られて、透明な傘が無残に歪むのが見えた。脆い物だと嘆く間もなかった。止める間は、もしかしたらあったかも知れない。
 左手にひしゃげた傘を持ったまま、葉佩が道を外れてあっという間に見えなくなる。追いかけようかと一瞬だけ考えたが、皆守はひとつ息を吐いて道を踏む作業に戻った。
 数秒か、あるいは永遠に等しい時間を一人で歩いていると、唐突に茂みが揺れて葉佩が現れた。両手を重ね合わせて、まるでその手に何か大切なものを秘めているかのように、葉佩は誇らしくも嬉しそうな笑みを湛えている。

「皆守アマガエル!」
「俺はアマガエルじゃない」
「知ってるよ、そんな事」
「傘はどうした」
「傘?」
「俺が貸してやった傘」
「・・・あ」

目と口を開き、両手はしっかりと閉じて、葉佩が間抜けな声を発した。ちらりと背後を見て、皆守を見て眉を下げる。濡れそぼった短い前髪から、ぽたりと雫が落ちた。
 ひとつ、またひとつ、数えるのも不可能なほど小さく多量の雨粒が葉佩を打つ。打たれてなお微笑む男が、泥に濡れた両の手をそっと開いた。大した理由もなく捕らえられ自由を奪われたアマガエルが、ぴっと水滴を散らして理不尽な手の平からの脱出を果たす。
 前触れもなく小さな命を襲った災難が、さも気まずそうに「あの辺」と呟いて背後の茂みを指差した。皆守が「とってこい」と無言で命令すると、災難と書いてはばきと読む男は水滴を散らしながら茂みに入っていった。












 しばらく雨音に聞き入るふりで葉佩が傘をとってくるのを待っていたが、永遠のような時間を過ぎても葉佩は戻ってこない。本物の永遠が終わっても彼は戻らないのではないか、と思い、皆守は立ち止まっていた足を踏み出した。来ないものを待っているのは愚かしい事だ。
 自分はどこへ向かうべきなのか、考えながら水たまりを踏む。答えの代わりに落ちてくる雨粒さえ、傘にはじかれて皆守には届かない。未練がましく裾を濡らす水は不快でしかなく、生きるとは即ち冷たい雨に打たれるようなものだと、夢を見るように考える。

 またしても唐突に姿を現した葉佩は、傘を手にしてはいたが頭上に差してはいなかった。無残にひしゃげた骨は、どうにか矯正できたらしい。よく見ると多少の歪みはあるが、傘と呼んで差し支えない程度には修復されている。それを高く上げて、褒めてくれと言わんばかりに葉佩が笑った。

「皆守、とってきた!」
「よし」
「ってゆーか先に行くなよ!」
「なんで」
「取ってきたのに皆守がいなかったら意味ねーだろ!」
「振り回すな」

責めるような口調でよく分からない事を主張する葉佩は、本来なら頭上にあって雨をはじく役割を持つ傘を、まるで威嚇の道具のように使用している。大きく振りかざし、先を銃口のように皆守へと向けた。
 この男は、どうして傘を借りたいなどと言ったのだろう。彼は本当に傘を必要としているのだろうか。皆守の胸に降り積もる疑問は、発せられずに深奥へと流れ去った。葉佩が再び視線を何かに固定したからだ。
 決して届かず、はじかれるだけの言葉を発しても、虚しいだけだ。

「皆守、クモの巣」
「うん」
「クモの巣って、縦糸はネバネバしないんだよ」
「ほお」
「横糸がネバネバでね、それに引っ掛かった獲物を」
「腹が減ったな」
「縦糸を伝って食べにいく訳さ」
「学校の前にマミーズ行くか」

皆守の声が聞こえているのかいないのか、葉佩は傘を右左に揺らしながら熱心にクモの巣について語っている。既に足元はいうに及ばず、全身がしっとりと秋雨に濡れていた。
 彼にとって、傘とはどのような存在なのだろう。発せられずに胸中を渦巻く疑問は、皆守を奇妙な心地にさせる。

「皆守」
「カレーが食べたい」
「腹減ってる?」
「別に」
「俺は減ってる」
「そうか」
「傘」
「傘がどうした」
「ありがとう」
「・・・おう」

バッタを捕まえた時より、カエルを追いかけていた時より、クモの巣を発見した時より、嬉しそうに葉佩が言った。
 まったく使いこなせていない道具を、誇るように、嬉しそうに、高く掲げる。存在意義は果たされていないが、傘に人間のような精神があると空想すれば、それでもいいかと思えてくるから不思議だ。

 濡れた頬でもう一度「ありがとう」と言って、葉佩は衝動のままに走り出した。
 雨に濡れないように、凍えてしまわないように、この傘は存在している。葉佩は知っていた。
 これは、彼が貸してくれた傘だ。