気の滅入るような陽射しに打たれ、大きなカラスアゲハがまるで不吉なもののように眼前を横切った。降り注ぐ蝉時雨が遠くなり、体ではない全てが冬に飛ばされる。日に焼けてひりつく腕も、背中を伝い落ちる汗も、アスファルトの上の陽炎も、恐ろしいほど妖艶な黒羽に吸い取られてしまった。
かじかんだ指先が、寒さではない理由で震えていると思われたくなくて、いつもポケットに入れていた。自分が破綻している事を、彼が来た時にはもう知っていた。繕うのも億劫で、ただ終わりばかりを想像しては待ち望んだ。
こんな終わりを望んでいたのではないと、なじる相手ももういない。旅立ってしまったから。この夏が過ぎたら一年になる。
いつまでも炎天下で幻を見詰めている訳にもいかない。未だ脳裡に揺れる乾いた季節を追いやる事はせず、皆守は現実に意識を引き戻して再び歩き出した。追うように、蝉の声が意識に戻る。陽射しが戻る。熱したアスファルトの感触が戻る。じりじりと焼かれる皮膚の痛みが戻る。抜けるような青空が無性に腹立たしくて、口中で小さく毒づいた。太陽はどうせ人間になど興味はないくせに、過剰に与え、また与える事で奪ってゆく。それは悪意ではなく、ただそのように存在しているだけだ。
黒が、ひらひらと視界の端を飛び回る。予感のように、悪夢のように、忘れてしまった優しい夢のように。
「あ!いたいた!皆守ー!」
「・・・」
「よかったー、家にいないんだもんお前」
「・・・」
「日本って湿気すげーな」
「・・・」
「お前んちクーラーある?」
「・・・」
「この前インド行ったんだけどさ」
「・・・」
「あれ、反応なし?インドだぞ?カレーの発祥地だぞ?」
夢ではないとしたら、幻覚か。
いくら葉佩といえども、あんな別れ方をしてこんなにも普通の再会はできないだろう。多少は、こう、ばつの悪さとか、気まずさとか、ためらいとか、そんなものを抱かないものか。抱かないのか。そうかそうだったな、あいつはそういう奴だった。
入手したスパイスを誇らしげに見せびらかす葉佩を、ぼんやりと見詰める。もしもこれが幻覚だったら、会話する自分は狂人に見えるだろう。そう考え、発せられる声には反応せず自宅までの道を歩いた。
見慣れたアパートのドアの前で、ちらりと隣に立つ葉佩を盗み見る。皆守のその動作を不思議そうに見返していた。何かを諦めるような気分で鍵を開き、招いた記憶もない客人と共に部屋に入る。
「おじゃましまーす」
「靴を脱げ」
「あ、ああ、はいはい分かったよ」
「ここにいる以上はここの常識に従ってもらうからな」
「優しくなったなーお前」
「俺は前から優しい」
「まあ、自分だけにはね」
葉佩がやけに紐の多い靴を脱ぐ為に玄関で座り込んだので、部屋に入るにはそれを跨ぐ必要が生じた。ひょいと足を上げて頭上を通すと、葉佩が反射的に防御体制をとった。期待されていたのかと思い、衝動ではなく善意で踵を落とす。ああ、確かに俺は優しくなった。相手が望むものを、ただ無心に差し出してやれるほどに。
心の隅で変わってしまった自分を憐れんでいると、衝撃から立ち直って靴を脱ぎ終えた葉佩が肩を掴んだ。
「あのね、お前ってさ、ずっと思ってたんだけどさ」
「そうか、俺をずっと思ってたのか」
「その言い回しやめろ!なんか恥ずかしくなる!」
「やっとお前も自分を恥じるようになったか」
「ああ、お前はまだなんだね」
自分で憐れむのはいいが、他人に(特に葉佩に)憐れみの目で見られると殺したくなるのは何故だろう。疑問はいつものように深奥に沈めたので、形而下に残ったのは殺意だけだった。戸籍のない者を殺しても、法はその罪を裁けるのだろうか。
「あ、アイスあるけど食べる?冷えてるよ」
「いっそ溶けてたら安心して食べられたんだがな」
「ソーダとレモンどっちがいい?あ、俺ソーダね」
「選択肢を提示した意味は」
はい、と差し出されたそれの表面では、赤と青が交じり合わずも別たれず複雑に絡み合っている。レモンですらねぇ。呟いて葉佩の口元を見ると、ソーダと表現されたその物体は鮮やかな緑色だった。皆守はその時、安いホラー・ムービーの宇宙人から吹き出た血液を思い出した。
差し出された物を断り、葉佩がそれをポケットに戻すのを確認する。今更こんな超常現象を見せられたくらいで、何事か感じるほど皆守は無知ではない。この世には、一般的に常識だといわれている物理法則が通用しない現象もあるのだと、知りたくはないが知ってしまったのだ。主にこいつの所為で。
皆守がこっそり絶望と戯れている事など知る由もなく、葉佩は宇宙人の血(仮)を銜えたまま荷物を下ろして床に座り込んだ。薄汚れた鞄から引きずり出して「おみやげ」と言って差し出されたのは、およそ存在する目的の推察しづらい物ばかりだった。
見かけより重量のある金属片(溶接してあるのを捻じ切った跡がある)、河原に落ちているような石(黒塚風に表現するならスベスベしている)、木彫りのなんかよく分からん生物(本当に分からん。たぶん四足の何か)、赤い飾りのついた小太刀(刃先に付着しているのは血痕に見えるが気にしない方がいいだろう)、そして文字らしき記号が刻まれた鉄板(所々錆びて変色している)。それらを丁寧に床に並べ、葉佩は褒められるのを期待するような目で皆守を見上げた。しかし皆守は、その目に含まれた感情が、自己を投影した結果の幻である事を過たず理解している。なので、何も言わずに台所に向かった。
背後で何やら不満気な声が上がったが、気にせず冷蔵庫を空けて、一般的だと信じている手段で冷やしておいた麦茶を取り出す。洗って伏せておいたグラスに注ぎ、一気に飲み干した。自覚していなかったが、渇ていたのだと漸く気づく。二杯目も一気に干して、こんなにも自分は渇いていたのかと少しだけ驚いた。
宇宙人の血(仮)を全て口中に入れた葉佩が、床に頬をくっつけて目を閉じた。そのまま死んだように動かなくなったので、皆守は散らかった正体不明の物を足裏で隅に押しやり、ついでに自分が座る面積を確保する為に葉佩も同じように押しやった。しかし腰を下ろす事はせず、窓を開けて風を呼び込み、その風のあまりのぬるさに顔をしかめる。隣の家の室外機から発せられる熱風に、人が快適に生きる為には誰かが不快を甘受せねばならないのだと世の不条理を嘆いた。
死んだように止まっていた葉佩が、唐突に体を起こした。耳を澄まし、低く囁く。
「・・・この部屋、何かいる」
「は?」
「ちょっと静かにしてて」
「え、いや、何かって」
「外か?」
「おい、何かって」
「あ、また鳴った」
「おい!何かってなんだよ!」
「うるせぇ黙ってろ!気が散る!」
そう言って、葉佩が苛立たしげに立ち上がった。葉佩が気配に敏感なのは知っていたが、皆守には感知すらされない気配を、こんなにも明瞭に察するとは、何か特殊な感覚を有しているのだろうか。たとえば、何もない所をじっと見詰める人が見ているものを感知するような。皆守の体感温度が、少しだけ下がった。
しばらく立ったまま耳を澄ましていた葉佩が、不意に玄関に向かった。ちょっと待て、それは本当に外にいるのか?この部屋にはいないのか?絶対に?なんだか背後が寒くなったように錯覚して、皆守は玄関に向かおうとする薄情者のシャツを掴んだ。
「どこ行くんだ」
「確かめに行ってくる」
「早まるな!」
「心配しないで、すぐ戻るよ」
「変なフラグ立てるな!」
「あっちかな?」
「おい葉佩!待て!俺も行く!」
「分かったからシャツ離せよ!伸びるだろ!」
不本意ながら皆守は、死者に恨まれる憶えがある。そして死がその人の消滅ではない事を、もう嫌というほど知っている。
葉佩はドアノブに手をかけたまま神経を尖らせ、また拡散させていた。その表情が見慣れたと思っていた彼に相応しくなく冷徹そのもので、それが皆守の混乱に拍車をかける。
「何がいるってんだよ」
「なんか分かんないけど、音がする」
「音?」
「ほら、またした」
「・・・聞こえないぞ?」
「え、俺にしか聞こえないのかな?」
「・・・それって」
「あ!ほら!やっぱ聞こえる」
つられて耳を澄まし、しかし聞こえるのはエンジン音と時々人の声くらいのもので、皆守はそろそろ本気で葉佩の正気を疑った。同時に、自分の正気も疑わざるを得なかった。この場所には二人しかいない。それならば、多数派に属して理論武装もせずに誰かを狂人だと断ずる事もできない。
葉佩は無言でじっと耳を澄ましている。早く笑え。すがるように思う。早く、笑いながら俺を見て、からかうような言葉を発してくれ。ここにいるのは俺とお前の二人だ。そうだろう?
「なんかこの音、聞いた事あるよーな気がしてきた」
「ど、どこで?」
「ほら、いただろ?学校に」
「学校に何がいたって?」
「双子の、ええと、髪が長くってちょっと透けてる奴」
「・・・双子なんていたか?」
「いたよ!ほら、ちりーんって音がしてさ」
「・・・葉佩、風鈴って知ってるか?」
「なにそれ」
閉じられたドアの前で、皆守は薄汚れたシャツを掴んだまま脱力した。ふーりんってなんだよ、と繰り返す葉佩に、風鈴の構造と存在意義を伝える。ガラスの器を逆さまにして、その中に棒状の金属を吊るして、風を受けて涼やかな音を発する日本の伝統的な工芸品。どうにか語彙を尽くして伝えきった時には、葉佩のシャツは伸びきっていた。
得心した葉佩が解放されたシャツを取り戻し、ドアを開けていつの間にか夕焼けの広がっていた空の下に出た。
皆守は夕方が好きだった。一日の終わり、生活の終わり、あとは眠るだけの安らかな時刻。それを夜の始まりだと認識するようになったのは、いつからだったか。
なんだそっか、と言って、葉佩は笑った。まるで過ぎた時間など幻だとでも言うように。ここは隔絶された牢獄で、思考と感情を差し出せば安寧が得られる箱庭で、彼はそれをぶち壊す爽快な《宝探し屋》で、自分はそれに憧れる憐れな囚人。いつか彼が全てを壊して開放してくれるのを、息を殺して待っている。なんて幸福な夢を見ていたのだろう。
視界の端に、黒が舞う。まるで死の予兆のように。
彼はきっと、カラスアゲハにはなれない。だってそれは、彼が憧れていたものだから。望んで、焦がれて、壊れるほど欲して、ついに得られなかったものだから。
「幽霊は怖いのに、俺は怖くねぇの?」
葉佩が笑う。黒が舞う。カラスアゲハが視界をよぎる。
皆守は、夏の夕暮れに抱かれて冬を思った。彼が隣で笑っていた秋を思った。それ以外に、皆守は季節を知らない。
この夏が過ぎたら、彼が死んで一年になる。
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