壁の突起を、グローブを外して直に触ってみた。複雑な紋様は何かを語っている筈なのに、俺にはその情報が読み取れない。暗視ゴーグルの電池は既に切れていて、目の前にはただ純粋な闇が広がっている。同行していた先輩を、大声で呼んでみた。返事はない。

 彼はロゼッタ協会でもトップクラスの《宝探し屋》だ。初仕事で彼のバディを任されるなど、願ってもいないチャンスだと思った。ここで力を見せ付けて、あわよくば彼のお墨付きでも貰って、更に飛躍するチャンスだと。
 もう一度、彼の呼び名を大声で叫ぶ。やはり返事はない。彼はいくつかの名前を使い分けているが、そのどれもが本名ではないと聞いた。彼を知る多くの者は「カラス」と呼び習わしているらしい。由来は不明だが、俺もそれに倣って彼をカラスと呼んでいる。敬称はいらないと言われたので呼び捨てだ。

 声が壁に反響して平衡感覚が揺らぐ。自分が立っているのか伏しているのかも分からなくなってきた。助けを求めるように、或いは泣き喚くよう叫んだ自分を、心で叱咤する。歯を食い縛り、腿に力を込めた。負けてたまるか。俺は《宝探し屋》だ。両足を踏み締め、壁に手を付く。もう一度、今度は呼ぶ為ではなく声を張った。返るこだまから、部屋の広さと外に繋がる場所を探る。耳を澄まし、もう一度。
 上方に空洞がある。そうか、俺はそこから落ちたのか。少しずつ状況を把握する。空気が流れている。火を点けても危険ではない。手探りで荷物を漁り、ライターとオイルを引っ張り出した。包帯の切れ端にオイルを含ませて火を点ける。こんな基本的な動作にも至らないほど混乱していた自分に気付き、小さく舌を打った。
 弱々しい灯りに照らされて、俺は漸く視界を取り戻した。壁に扉は見えない。慎重に、その冷たい壁面に触れてみた。精緻な彫刻を指先でなぞり、美しく磨かれた石を撫でる。グラニットで造られた壁に、球状に加工された玉石がはめ込まれていた。炎を反射して、それは猛禽の瞳のように輝いている。
 見上げると、人ひとりがやっと通れるぐらいの穴が見える。床が崩れたのは罠ではなく老朽化が原因だと思っていたが、どうやら罠である可能性が高そうだ。苦く認め、俺は脱出を試みる事にした。

 苔の生えた壁に苦労しながらも、どうにかその隧道を登る。角度は垂直に近い。落とし穴だとしたら、それも当然だろう。落ちた先が魔獣の巣ではなく、刃物がぎっしり敷き詰められた床でもなかったのは、ただの幸運だ。生き延びたのは俺の能力ゆえではない。だが、そこから脱出したのは紛れもない俺の努力の結果だ。ほの明るいその部屋に帰還した時、俺は一仕事を終えたような気分になっていた。達成感に浸っていると、真上から声が降った。

「おお、生きてたか」
「あー良かったー」
「始末書は書かずに済みそうだな」
「いや、ここは純粋に無事を喜んであげようよ」

落とし穴から生還した俺を、二対の目が見下ろした。一人は噂の凄腕ハンター。もう一人は、彼のバディである皆守だ。彼等は二人で話す時、日本語を使う。なので、会話の後半部分は俺には聞き取れなかった。だが、どうやら無事を喜んでくれているらしい事は分かった。「さすがはハバキの後輩だな」と言いながら、皆守が手を差し伸べる。皆守は、カラスとは呼ばずに彼を「ハバキ」と呼ぶ。カラスが使う偽名の一つだ。差し出された手に引き上げられ、俺は完全に罠からの脱出を果たした。

「あざっす!」
「ちゃんと喋れ」
「あ、ありがとうございます」
「おう」

そう言って、皆守が口の端を少しだけ上げる。トップクラスのバディともなれば、その実力は並みのハンターの比ではない。彼もまた俺が超えるべき先達の一人だ。その後ろでH.A.N.Tをたたんだカラスが「72分47秒か」と呟き、俺に顔を向けた。

「休む?行く?」
「行きます!」
「うん、合格」
「何を偉そうに」
「いちおー適正審査も兼ねてるからね」
「お前が審査とか、ロゼッタ本気でやばいな」
「うん、俺もちょっとそう思う」
「今のうちに転職先でも検討しておくか」
「え、待って!俺のバディやめるって事?」
「俺のってなんだ。俺はお前の専属になった憶えはないぞ」
「え?マジで?違うの?皆守は俺のだろ?」
「誰がいつどんな理由でお前の所有物になった」
「いや、所有ってゆーかさぁ」
「あ、ちなみにお前は俺のものだからな」
「ちなにみじゃねぇよ!嬉しくない!そんなの嬉しくないからな!」
「本気で喜ぶとは思わなかった」
「違うっつってんだろ!」

皆守が途中で日本語の横槍を入れたので、会話は日本語に移行した。やはり俺には理解できないが、何やら楽しそうで羨ましい。俺も日本語を勉強しようかな、と言うと、二人が同時に黙った。奇妙な表情で顔を見合わせ、同時に目を逸らす。
 何か拙い事を言ってしまったのだろうか。二人はまだ小声で何やら言い合っている。それを見ながら俺は、仲がいいんですね、と深く考えずに言ってみた。それを聞いた皆守が、何も言わずに唇の端を少しだけ持ち上げた。出来の悪いジョークに義理で笑ってやった時と同じ表情だ。その隣に居たカラスは、落語の落ちが理解できなかった時と同じ表情で首を傾げている。どうやら失言だったらしい。てゆーかこいつら何なんだ。

 扉の前で、カラスが俺を振り返って笑みを浮かべた。

「お前が遅いから開けちゃったよ」
「そりゃどーも、手間を省いてくれてありがとうございます」

悪戯に成功した子供のように笑うので、俺も同じように笑ってやった。皆守が、何故か遠い目で天井を見上げている。扉を開き、逸る心を抑えて部屋に入った。先に部屋の中ほどまで進んだ二人を追い、俺も足を踏み出す。視界の端で何かが光った。
 薄暗い部屋の真ん中で、淡い緋色の翼を持つ巨大な鳥がこちらをひたりと凝視している。「お客さんだ」と、眠たげな声が囁いた。客は俺達の方だろう、と思ったのだが、口に出す暇はなかった。目の前に現れた異形に、考えるより早く体が反応する。自分の意思で、俺は自分をそのように作り上げたのだ。
 右手のベレッタを大きく開かれた嘴に向ける。一発、二発、心で数えながら引き金を絞った。生命のようでいて生命でないこの存在は、地上の生物とは急所の位置が異なっている。脳とおぼしき部位を砕かれても、それはまるで生命のように動き、侵入者である俺を排除するべく爪と床をこすり合わせた。
 背後から羽音が聞こえた。もう一匹いるのか。振り向くと、鳥の化物が二本の足で床を蹴って翼を鳴らし、いっそ憐れなほど一直線に俺へと向かってきた。ただその為だけに存在する、遺跡のガーディアン。殺すのではない。解放するのだ。ナイフを薙ぎながら、俺はそう信じていた。目のような器官に刃先を突っ込み、引き抜いた勢いで方向を転換する。左肘で一匹を叩き、喉笛を目掛けて飛びかかってきたもう一匹に銃弾を発射する。目(のような器官)を潰された異形は、よろめきつつも倒れはしなかった。まだ死なないのか。

「手助けいるー?」
「結構です!」

少し離れた場所から聞こえた声に怒鳴り返し、頭が潰れた異形に向かう。今度は腹を狙って撃ったが、やはり数歩よろめいただけでその進行は止まらない。真横から爪が飛び出した。咄嗟に身を引いたが、肩を浅く裂かれた。思わず呻き、狙いも定めずに引き金を絞る。その直後、憶えのある感触に心臓が音を立てて冷えた。弾切れだ。異形の爪が、少ない光を反射してチカチカと光る。視界を埋め尽くす翼は、まるで朝焼けのようにまばゆい緋色。その美しさに、やはりこれは生命ではないのだと、そんな確信が脳裡をよぎった。肉を引き裂く筈のそれは、生命の匂いを発してはいない。
 俺がマガジンを取り出す前に、憐れな異形が吹き飛んだ。呆気に取られた俺の視界で、皆守の爪先が優雅な弧を描く。だがそれは完全な円を描ききる事なく、目前まで迫っていた二体目の異形に衝突した。仮初の生命を光に返したのは、更にその後方から放たれた弾丸だった。先ほど皆守に吹き飛ばされた異形は、壁際で痙攣している。助けられたのだと、その時になって俺は漸く気が付いた。
 二人の背中に視界を遮られ、思わず奥歯を噛み締める。こちらを振り向きもせず、皆守が床を蹴った。流れるような動作で化物を文字通り蹴散らし、動きの止まったそれをカラスが狙撃する。俺はただ口を開けてそれを見ていた。

「応用力と機転が足りないね」

やっと振り向いたカラスが口の端を上げる。俺は何も言えずに俯いた。反射神経はまあまあかな、などと続けるカラスの横顔を、睨み付けるように見上げる。俺が《宝探し屋》を目指すずっと前から、彼は頂上にいた。既にロックフォードと並ぶ伝説になりつつある男と、初陣で舞い上がるような駆け出しの新米ハンター。比べるのも莫迦らしい。だが、同じ人間だ。いつか必ず。胸中でそう呟くと、彼が子供のように笑った。その顔を見たくなくて視線を逸らせば、自分の袖口を引っ張りながら眉をしかめている皆守が見えた。

「おいハバキ」
「なに?」
「一発かすったぞ」
「だって邪魔だったんだもん」
「わざとか!」
「撃ち抜かなかっただけありがたいと思えよ」
「出来もしないくせに」
「へえ、本気でそう思ってんだ。そーゆーとこが可愛いよね皆守は」
「は!可愛いのはお前だろ、このノーコン野郎」
「すぐあさっての方向に突っ走っちゃう奴に言われたくないなぁ」
「突っ走るのはお前だ。俺がいなかったら今頃お前、どっかで野垂れ死んでるぞ」
「じゃあ言うけど、俺がいなかったらお前は《墓》と心中してたよね」

皆守が笑うのをやめた。カラスはまだ笑っている。そのままの表情で暫し目詰め合い、やがて二人が同時に目を逸らした。
 この二人の不思議な関係は、協会内でもたまに話題になっている。あいつらデキてんじゃねぇの?などという下世話な噂も聞いた事があった。かつて殺し合ったとか、どちらかが命の恩人だとか、カレー道を究めんとする同志だとか、互いに隙を狙う宿敵同士だとか、その手の噂話は枚挙に暇がない。顔を逸らしたまま歩き出した二人の背中をぼんやりと眺めながら、俺はそんな事を思い出していた。訊いてみるのは失礼だろうか。「二人は恋人なんですか?それとも宿敵?」駄目だ。殺される。根拠はないが、そんな気がする。

 扉の前で、二人が同時に俺を見た。ライフルのグリップで扉を叩き、カラスがにやりと口の端を上げる。

「ラストチャンスだ。挽回しろよ」

その言葉で、俺はこれが最後の試練だという事を理解した。一つ頷き、扉に向かう。本音をいうと、俺は戦闘よりも謎解きの方が性に合っているのだ。紛い物とはいえ生き物に銃や刃物を向けるのは、やはり心のどこかでためらってしまう。こんな風に産まれてきたのは、お前達の所為じゃないのに。奥の方で、いつもそんな声が聞こえる。
 気を取り直して、俺は扉に描かれた模様に目を凝らした。これならよく知っている。ホルスの目、別名ウジャトだ。それぞれ各部位が1/2、1/4、1/8、1/16、1/32、1/64という数を表し、全部を足して『1』という完全な数字になる、といわれている。しかし計算してみると、1になるには1/64足りない。それをトト神が補うのだが、さて。
 トト神は、トキの姿で描かれる事が多い。先ほどの戦闘を思い出す。美しい緋色の翼を持った鳥が、俺を見据えていた。

「・・・やっちゃったぞ?」
「あ、もう気が付いた?」
「まあ、やったのは俺なんだが」
「いや、とどめ刺したのは俺だから」
「お前は据え膳を片付けただけだろ」
「据え膳とか言うなよ!エロい!皆守エロい!」
「どこまで飛んでいくつもりだお前」
「あ、あの、あれって、攻撃したら駄目なんじゃ」
「すげーなお前、俺それに気が付くまでに3時間はかかったよ」

そうか、この男にもそんな時代があったのか。しかも3時間って、かかりすぎだろ。《宝探し屋》ならホルスとトトぐらい知っとけよ。ロゼッタの本部がどこにあると思ってんだ。脳内で渦を巻く様々な言葉は飲み込み、俺は呆然と二人を見上げた。カラスの黒い瞳が、さも愉快そうに含み笑いを湛えている。

「降参する?」

まさか、と表情だけで返した。こんなところで諦めるぐらいなら、初めから《宝探し屋》など目指さない。声ではなくそう言った俺に、カラスが満面の笑みを浮かべる。その後ろで、皆守が少しだけ悲しそうに唇を歪めた。欠伸を噛み殺したのかも知れない。
 もう一度、扉を注視する。1にする必要はないのだろうか。ホルス神は猛禽、トト神はトキ。どちらも鳥だ。遺跡を守っていたのがトキなのだから、トト神も関係しているに違いない。ホルス神といえば、セト神と王権を奪い合ったという話もある。H.A.N.Tを睨みながら唸っていると、「なまじ知識があると大変だね」という呟きが聞こえた。知識ではなく閃きが必要という事か。
 そっと扉の表面に触れてみる。二匹の鳥。足りない1/64。猛禽の目。

「猛禽の目?」
「ん?」
「どっかで見たぞ」
「どこで?」

問う声に誘われて、記憶が浮かび上がる。揺らめく光に照らされた、美しい瞳。俺は確かに、それに触れた。気付き、思わず叫んで立ち上がった。落とし穴の底で見た壁に埋め込まれた石が、この扉の鍵ではないか。

「ちょっと行ってきます!」
「おお、いってらっしゃい」

 という訳で、俺は来た道を戻り、落とし穴に身を投げ、壁の石を引っこ抜き、再び隧道を登り、この部屋に戻った。肩で息をする俺を、カラスが笑いながら見ている。その視線を意識の外に追い遣り、扉に刻まれたウジャトに石をあてがった。
 頑なに閉ざされていた扉が、僅かな軋みもなく開いた。確かにこれは、知識など必要としていない。というか、思わせぶりな装飾が全くの無意味なのは酷いと思う。脱力した俺に、カラスが今度こそ祝福を乗せて笑みを浮かべた。

「おめでとう」
「あ、どーも」
「なんだよー感激の抱擁は?」
「いや、そんな気分じゃないんで」
「つまんねぇ奴ー」

皆守がその後ろで大きな欠伸をしている。どちらかというと、俺の心境はそっちに近い。達成感よりも、最も強く感じているのは疲労だ。腹減った。慰めてくれる彼女が欲しい。心の中で呟きながら、奥の間に鎮座する黄金に手を伸ばす。その瞬間を見計らったように、カラスが低い声で言った。

「カネタロウの最期、知ってるか?」

思わずはっと息を飲んだ。
 カネタロウは、秘宝を取り上げたその瞬間に、発動した罠にかかって死んだのだ。たった一人で鬼ヶ島遺跡に挑み、非業の死を遂げたカネタロウ。彼は死の直前に、得た秘宝を亀急便に託した。それが俺達の所属する誇り高きロゼッタ協会を、延いては勇敢なる《宝探し屋》を在らしめたのだ。カネタロウの悲劇を繰り返さぬ為に、俺は先輩から様々な事を学び、またそれを乗り越えてゆかねばならない。
 溢れる感情を拳に宿らせ、俺は顔を上げた。カラスが力強く頷く。その横で、皆守が「あ、俺は他人だから。関係ないから。こっちに話し振るなよ」とでも言いたそうに宙を見詰めている。沈黙は金などというが、その雄弁な沈黙はなんだかとても燻し銀だった。彼にも謝意を示し、足を踏み出す。
 黄金に触れる直前に、俺は一度だけ振り返って二人に微笑んで見せた。数々の遺跡を踏破すると共に、数々のどうしようもない伝説を残した《宝探し屋》とそのバディ。いつか、と言おうとして、思いなおして口を閉じた。皆守がカラスに寄りかかっていたからだ。後ろからカラスの肩に腕を引っ掛け、完全に体重を預けている。カラスは慣れた仕草でそれを支えていた。リラックスしすぎというか、ええと、あれ?俺が混乱していると、カラスが皆守の髪を撫でた。頬をくすぐる髪を優しく叩き、皆守の耳元で何事か囁く。
 すみません、とっとと終わらせます。だからもうちょっと我慢してください。口中で呟き、素早く秘宝を取り上げる。罠は発動しなかった。息を吐き、踵を返す。












 来た道を戻りながら、俺は真剣に悩んだ。《宝探し屋》を続けるべきか否か。はっきりいって、この仕事は俺には向いていないような気がする。田舎に帰って店を継ごうかな。先を歩く二人は、まるで放課後の高校生のようにじゃれ合っている。沈黙も闇も、傷付く事も傷付ける事も、彼等はきっと恐れない。そして俺は、恐らくそんな風にはなれないだろう。憐れな異形も、それを攻撃する自分の手も、何もかもが竦むほど恐ろしい。
 約58時間ぶりの陽光が、俺の目を鋭く刺した。カラスが振り向いて「お疲れ」と笑う。皆守にも視線を向けて、同じように笑った。それに笑い返す事はせず、皆守がグローブを外して左拳を握る。ゴツっと音を立てて傷だらけの拳をぶつけ合い、そのまま視線も合わせずに空の下にぶらりと足を踏み入れた。彼等にとって、ここはまだ旅の途中なのだろう。

 手の中の黄金が、陽光を反射して輝いている。その黄金が、久し振りの太陽に喜んでいるように見えなければ、きっと俺は迷ったりしなかった。迷うまでもなく、こんな危険な仕事はとっととやめていたに違いない。闇に息づく全ての異形を愛してさえいなければ、こんな恐怖を知る事もなかったのに。そして最大の難問は、同病を患う男二人が実に幸福そうに見える事だ。
 俺はきっと、これからも震えながら闇に降りるのだろう。