結界がざわめくのを感じ、楢崎道心は身を起こした。枕代わりの上着のポケットを探り、煙草を取り出して銜える。有害な煙を胸一杯に吸い込み、今まさに走り出そうとしていた劉に言葉を投げ付けた。

「行ってどうするってんだ?」
「お、起きてたんかいな、じいちゃん・・・」

腰を落とした奇妙な体勢のまま劉が振り向き、頬に引き攣った笑みを浮かべた。手は既に愛刀の柄を握り締めている。

「放って置け。おめェが行ってどうなるモンでもねぇだろうがよ」
「でも・・・行かなアカンねん。じいちゃんは寝ててええよ」

劉は左目を眇め、素直な笑みを浮かべた。懐かしいなどという感傷は、道心が嫌うものの一つだ。だが、湧き上がって心を満たしたのは、間違いなく懐かしさだった。
 遠くなった筈の記憶が鮮明に浮かび上がる。本当は距離など無い。今も、まるで昨日の事のように思い出せる。大きな背中。力強い腕。優しい声。隣で笑っていた、今は亡き友人。失った、などとは思っていない。奪われたのだと、今でも信じている。宿星が、道心から友人を奪った。
 奪われた友人と良く似たこの若者は、いつだって道心の傷口を抉る。残酷な事実を、目を逸らす暇も無く突き付ける。同時に、まるで満たされたような気持ちにもさせた。奪われた掛け替えの無いものが戻って来たかのような感情を抱かせる。
 走り去った劉の背中から目を背け、道心は酒を呷った。

 結界内で憶えのある氣が昂ぶるのを感じる。良く似ているが、あいつじゃない。確かめるようにそう呟き、道心はベンチに寝そべった。
 かつて道心は、人を救おうと戦った。頼もしい友人と共に、辛く険しい道を歩いた。確かに苦難の記憶しか無いというのに、それを思い出す時、道心は笑みを浮かべる。熱過ぎるんだ。そう結論付けた。間近では熱と苦痛しか感じない灼熱も、距離を置けばその火は人を暖める。遠くなった火に、涙が出そうになる。
 口を突いて出そうになる名前を、道心は安酒で流し込んだ。












 小一時間ほどが経過し、辺りは静かになった。決着が付いたのだろう。人外の氣は消滅し、五人ほどの気配だけが近くでうろうろしている。
 戻って来た劉の頬には、にこにこといつも通りの笑顔が張り付いている。その笑顔が偽りである事を、道心は知っていた。深い闇を見て来た劉は、それでも極稀に心からの笑みを浮かべる。怨嗟の火に焼かれても、彼は自分の名を誇る事をやめない。その強かさは眩し過ぎて、道心の目を眩ませる。
 道心は疾うに燃え尽きた心を、それでも捨て切れずにいる。忘れ形見などとは思わない。ただ、既に『彼』の道は決められている。その事実に、忘れた筈の感情が呼び起こされるのだ。
 重い腰を上げ、道心は歩き出した。『彼』の道に、少しでも明かりを灯せるのなら。

 久し振りに見た『彼』は、幼い頃の面影を残しつつも、既に戦士だった。
 遠くなった名を心で呟く。お前の願いは、叶わなかったな。平穏な人生を。優しさに満ちた世界を。願われて産まれた子供は、修羅道を進んでいる。碌でもないこの世界でも、あいつは守りたいと望んでいた。それはきっと、この子が存在する世界だからだ。そうだろう?心で呼び掛ける。いつだって、答えなど無いのは分かっている。それでも呼び掛ける。何度も、何度も繰り返す。

「大きく・・・なったな」

道心の記憶にある友人の姿が、急速に薄れた。きっとこの後友人の姿を思い出そうとしたら、『彼』の姿が浮かぶのだろう。『彼』は答えてくれるだろうか。浮かんだ思いを、即座に叩き壊して沈める。これ以上、『彼』に背負わせたくはない。死んだ人間を重ね合わせて見ているなどと、重荷でしかないだろう。
 黒い瞳を見詰めながら、道心は長い語りを始めた。












 天海の言霊によって、この街は京都さながらの強固な呪法都市に仕立て上げられていた。そうまでして守ろうとしたもの。それは、はたして何であったか。

「龍麻、おめェは何だと思うよ?」
「江戸の街と、其処に住む人々だろう」

真っ直ぐな瞳で、『彼』は迷わず即答した。甘いような、苦いような気持ちが道心に湧き上がる。時間が戻ったような気がする。肩を並べ、笑い合ってただ道を行ったあの頃。隣で笑っていたあの男が、目の前に居るような錯覚を感じた。

「くくッ・・・やっぱりおめェは、親父殿によく似てやがる」

溢れそうになった感情を皮肉な笑いで誤魔化し、道心は言葉を続けた。知り得た事実と憶測。しかし最も伝えたかった言葉は、口にする必要が無さそうだ。『彼』はもう知っている。

「龍麻・・・おめェにだってあるはずだろう?
 てめェの命に代えても、守りてェもんがよ・・・」

深い瞳を、無心にじっと見詰める。答えは既に分かっている。道心はそれが悔しかった。『彼』は頷くだろう。力強い笑みすら湛えて肯定を示すのだろう。まるであの時の彼のように。

 一つだけ、と、くそったれな宿星とやらに祈る。

 叶う事なら、彼のその清廉な決意が酷く悲しいのだと。
 伝わってくれ。

 悲しいのだ、と。