特にこれといった理由は思い当たらなかったのだが、長方形の紙を見ていたら手が勝手に動いた。返却されたテストの答案用紙に、揚力を与えて窓から飛ばす。ここ数年ほど折っていなかったのだが、指はその動作を正確に憶えていたらしい。空に吸い込まれるように視界から消えた紙切れは、その時には蓬莱寺の能力を数値化した物ではなくなっていた。
ふと顔を上げれば、たったいま紙飛行機が消えた空を見詰める緋勇が目に入った。どこか呆然とした、手品に驚いた子供のような表情に見える。蓬莱寺の視線に気付き、開いていた口を閉じた。口の端で笑いながら、蓬莱寺が視線を空に戻す。
「よく飛んだろ?」
「飛んだな」
素直に感嘆したような声が返り、蓬莱寺が今度は両頬で微笑む。それに笑い返す事はせず、緋勇が無表情のまま何やら物騒な言葉を吐き出した。
「不完全な証拠隠滅はかえって危険だぞ」
「別に、隠滅してぇ訳じゃねぇし」
「そうか?だったらどうして飛ばしたんだ」
「別に、なんとなく。飛ぶかなーと思って」
確かに誇れるような点数ではなかったが、蓬莱寺にそれを恥じる理由はない。彼は、学業ではなく誇れる自分を既に確立していた。それが幼く矮小な自尊心だと、気付かないほどには子供ではなかったが。
理解したようなしていないような表情で、緋勇はぼんやりと空を見ていた。飛んでいった紙飛行機は、もう視界のどこにも存在しない。ならば何を見ているのだろう、と考え、その目が自分に向いていない事が少しだけ寂しいと気付いた。気付いたので口に出してみた。
「ひーちゃん、こっち見ろよ」
「お前の何を見ろと?」
「いや、何をっつーか、俺を?」
「何がそんなに不安なんだ」
「別に不安とかじゃねぇよ」
「むしろ自信か?」
「さあな」
それ以上は特に何も言わず、緋勇が真っ直ぐに蓬莱寺を見た。冴え冴えとした黒い瞳に見詰められ、思わず下腹に力を込める。たった一瞥で気圧されそうになる自分を叱咤し、唇を引き結んでその視線を受け止めた。暫くそうして睨み合い、先に言葉を発したのは緋勇だった。
「何がしたいんだ」
「さあ、なんだろな」
「お前は強い」
「は?」
「まあ、俺の方が強いんだが」
「え、と、喧嘩、売られてる?」
「お前がそうしたいと言うなら、俺は構わん」
「ん?俺がどうしたいって?」
「だからそんなに気に病むな。無駄だ」
「いや、病んでねぇけど」
「ならいい」
そう言って、緋勇が鞄を持ち上げた。蓬莱寺と同じくらいには中身の詰まった(つまり、一般的な学生鞄よりは遥かに軽い)鞄を提げ、「帰るぞ」と呟くように言った。投げられた言葉がさっぱり理解できなかったのはさておいて、並んで帰路を踏むという前提で放たれた言葉に笑みが浮かぶ。
校門を通る瞬間に、ふと紙飛行機の行方が気になった。あれは既に紙飛行機という名称を与えられた物体だが、同時に答案用紙という物体でもあった事を思い出す。辛うじて二桁の数字が赤いペンで記されていた。それが、学生としての蓬莱寺の価値だ。くだらねぇ、と、声には出さずに吐き捨てる。
無意識に握り締めていた拳を解き、隣を歩く緋勇をそっと盗み見た。世界の為に生きる彼は、何を求めて生きるのだろう。強大な力を有するがそれを誇らず、いっそ憎んでいるようにも見える。一度たりとも折られた事がないような気高さが幻なのだと、蓬莱寺はもう知っていた。挫かれ、泥を噛んで、それでも失われない彼の瞳の黄金は、何を根拠としているのだろう。
もう一度、空に消えた紙飛行機を思い出した。本当は空に消えたのではなく、どこかで地面に落ちたのだ。誰かに拾われていたら、氏名も点数も知られてしまう。まあ構わねぇけどな。胸中で呟きつつも、心の隅で何かが痛んだ。蓬莱寺は学校の成績など気にも留めないが、それだけが人間の価値だと信じる者もいる。そういう者は、きっとその点数を嘲るだろう。それを力任せに黙らせる事は容易い。だがそれは、自身が誇る己の所業ではない。
「なあひーちゃん、あのテスト何点だった?」
「9点だった」
「一桁かよ!」
「生物は89点だった」
「なんだその差は!」
「秘策があるんだ」
「へえ?」
「教えて欲しいか?」
「とんこつ大盛りでどうよ」
「餃子特盛りも付けろ」
「しょーがねぇな」
と言いつつ、財布の中身を思い浮かべる。赤字決定だ。そんな代償を払って得るほどの情報なのだろうか。くだらないと吐き捨てたばかりではないか。結局、逸脱する勇気(?)などないのだ。浮世離れした友人をちらりと窺う。彼は、否応もなく逸脱してしまった自分を嫌っている。人間でありたいと願うその心が、凡庸な存在には傲慢に映る事を、きっと彼は知らない。
「ヤマ当てる、とか無効だからな」
「そんな事はしない」
「だろーな」
「美里の筆圧は聞き分けられるな?」
「は?」
「よく聞けば、音で文字の見当がつく」
「はい?」
「マークシートだったら全滅だがな」
「えーと?」
「教えたんだ。おごれ」
「誰がおごるか!そんな無意味な情報で!」
こいつに期待した俺が莫迦だった。溜息をつきながら、やはり期待していたのか、と気が重くなる。そんなもので自分の価値は揺らがない。そう言い聞かせても、世間の無邪気な蔑みに押し潰されそうになるのだ。剣一本と胸に突き刺した矜持だけで生き抜くには、この世界はあまりにも複雑すぎる。
「あー戦国時代に産まれたかったなー」
「恨むなら徳川を恨め」
「死んでるじゃねぇか」
「おお、知ってたのか」
「殴るぞてめぇ」
と、側頭部を狙って突き出した拳は、しかしあっさりと躱された。そんな些細な事実にも、やけに苛立ちが募る。届かない。そんな言葉が胸裏をよぎった。それを誤魔化す為に笑みを浮かべ、じゃれ付くような動作で二撃目を放つ。今度は躱さず、緋勇がその拳を受け止めた。と思ったら綺麗にさばかれた。蓬莱寺の押す力を、殺す事なく脇に流す。勢いづいた体が、虚空に向かって数歩よろける。つんのめった背中に、ぱしっと音を立てて手の平が落ちた。どうにか踏ん張って転倒は回避したが、温かい手の平は背に触れたまま動かない。
「弱いなお前は」
「・・・るせぇ」
「強くなるんだろ?」
「ったりめぇだろ」
背中から離れていったぬくもりが、まるで喪失のように感じられる。それを噛み殺して顔を上げれば、黒い瞳と目が合った。この人の為に戦いたいと、そう望んだ事を思い出す。従うのではなく、導くのでもなく、共に歩きたい。心が叫んだ夜を思い出す。叶わぬ願いなどとは思わない。
「ひーちゃんはさー、夢とかあんのか?」
「ゆうべはラーメンと闘う夢だった」
「そーじゃなくって」
「とんこつが阿修羅を持ってるんだ」
「なんだよその設定」
「まあ夢だからな」
願いを、朝になれば消え失せる幻と同じ言葉で表現する。なんて悲しい事だろう。ふとそんな事を思い、隣を歩く肩に手を置いた。何も含まず、黒い瞳が蓬莱寺を映す。それが堪らなくて、衝動のままに両腕で緋勇を引き寄せた。反射的に引いた体を強く拘束し、我に返って死にたくなった。何やってんだ俺。てゆーか俺これ殺されるんじゃねぇか?ゆるゆると手を下ろそうとしたら、何故か背中に緋勇の腕が回された。先ほど背を打ったよりも強く、音を立てて手の平が打ちつけられる。痛い。きっと緋勇の手の形に腫れ上がっているに違いない。背中の爪痕は男の自慢だが、紅葉手形はどうなのだろう。
「夢はもう見飽きた」
「ん?」
「現実じゃなければ意味はない」
「・・・まあな」
往来で抱き合う二人の男子高校生を、道行く人々が慣れた様子で避けて通る。あのスクープ大好き少女にこんな場面を目撃されたら、翌朝には好奇の視線を独り占めだ(二人占めか?)。今度こそ腕を下ろして身を離すと、二人の間を寒風がすり抜けた。背中だけが、やけに熱い。やがて跡形もなく消え去る熱が、訳も分からずただ悲しい。
紙飛行機は、きっと誰の目にも留まらなかったのだろう。見向きもされず、路上で千切れてゴミになったのだ。どうして飛ばしたりしたのだろう。やはり、与えられた評価が消し去りたいほど屈辱的だったのか。つまらない、価値のない人間だと突きつけられるのが悔しかったのか。当たり前だ。誰がそんな現実を容易く受け入れられるというのだ。
本当は戦士などではなく、宿星など幻想で、敵だと思っていた相手もただの人間で、外から見れば子供が過激な遊びをしているようにしか見えないのだとしたら、その上に成り立つ蓬莱寺の矜持も夢でしかない。心が上げた叫びを忘れ、切ないほどに願った想いを忘れ、いつかこの時を懐かしく思う日が来るのだ。あの頃は俺も若かった、などと嘯いて笑う日が、いつかは。それは明日かも知れない。
顔を背けたままの蓬莱寺に、緋勇がぽつりと言葉を落とした。
「まずはとんこつ大盛りだな」
「いや、おごらねぇからな」
「なんでだ」
「それを真顔で言うか」
「俺はいつだって真剣だ」
「あーそーだな、だから厄介なんだよ」
「厄介?」
緋勇が首を傾げた。本気だから厄介なんだ、と胸中で溜息をつく。本気で世界を救うなどと信じるこの男が、だからこそ愛しいのだ。きっと本当に遣り遂げてしまうだろうこの男が、せめて信じたままゆけるように、一心に願う。その時まで隣に在りたいと、ひたすらに願う。
叶わぬ願いがある事を、蓬莱寺はもう知っている。紙飛行機はただの紙切れだと、そんな事は分かっている。緋勇も、きっと知っているのだろう。それでも願う事をやめない愚かな男が、京一、と名を呼んだ。
「戻りたいか?」
「あ?」
「戻りたいなら戻ればいい」
「え?」
「俺は行く」
「・・・お、おお」
音高く踵を返した緋勇の背を追って、蓬莱寺も歩き出す。
その道が永遠ではない事を知っていても、彼は進み続ける。許容も理解も必要とせず、謗られても詰られても、きっと進むのだろう。それならば緋勇の言うとおり、気に病むだけ無駄だ。世界が優しくないなんて、幼い頃から知っている。紙飛行機に乗って空を飛ぶ夢を見ていた頃にも、それが叶わない事など知っていた。
それでも願うこの愚かな心を、どうかその旅の終わりまで。
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