朝、起きたら俺は葉佩の中にいた。エグい話でも、エロい話でも、俺がお前でお前が俺でという話でもない。
 葉佩は中に俺がいるとも知らず、普通に起きて枕元の銃を取り上げてトイレに行って顔を洗って朝飯を作って食べて服を着替えて校舎に向かった。それを、俺は葉佩の中からぼんやりとただ見ていた。

 その間、葉佩の視線は目まぐるしく動き続けた。空を見たかと思えば枝に留まった鳥を見て、そのすぐ横の葉の虫に食われている所を注視して、壁の汚れを見詰めたかと思えばすれ違った級友の鞄に付いていたキィホルダーをじっと凝視する。変な所で静止しては直後に動き出すその視線に、俺は数分でうんざりした。同時に、自分は何も見ていなかったのだと思い知った。
 水溜りに映った空も、濡れた蜘蛛の巣も、路傍の草花も、級友の顔も、まるで初めて見たように錯覚する。もしかしたら、本当に初めてなのかも知れない。俺は今まで、何も見ていなかったのかも知れない。

 背後からけたたましい声が飛んできた。八千穂だ。振り向く葉佩が、とても喜んでいるのが分かった。八千穂に対する大袈裟な【喜】が本心だったのだと察して、少しだけ憂鬱になる。朝っぱらから元気いっぱいの二人は、水溜りを蹴散らしながら楽しそうに校舎への道を踏んでいる。
 夜のうちに雨が降ったのだと、俺はようやく思い至った。きっと葉佩の目でなければ、そんな事実にも気付かなかっただろう。だが、気付いたところで意味があるとも思えない。ならば、気付かなくても問題はない。どうして葉佩は、そんなに何もかもを見ようとするのだろうか。

 俺がここにいるという事は、俺の体はどうしているのだろう。今も寮のベッドに横たわっているのだろうか。だとしたら、やはりこれは夢なのか。益体もない事を考えていたら、教室の戸が開いて俺が入ってきた。ちなみに、この時間は昼休みだ。
 俺の本体(なのかどうかは分からないが)は、いかにも寝惚けた様子でのろのろと席に着いた。葉佩と八千穂の「おはよう」という声に、片手を上げるだけで応える。追い払う動作にも見えたが、まあ俺の事だからそれが挨拶だったのだろう。
 それにしても、だるそうだ。葉佩が心配する気持ちがちょっと理解できた。これは何かの病気を疑いたくなる。そのぐらい、だるそうだ。

 葉佩はすぐに顔を逸らしたが、さりげなく俺を視界に入れている。器用な奴だと関心しつつ、視界の端で机に突っ伏した俺がその事に気付いていないのだと分かって、少しだけ面白くない。きっとその胸中では、葉佩が薄情だとかなんとか呟いているのだろう。面倒臭い奴だな俺は。

 授業中も、葉佩の視線は定まらなかった。黒板を見て、時計を見て、その秒針にしばし見入っていたかと思えば、窓の外の雲を眺め、前の席に座っている級友たちの後頭部を見て、その髪の色の微妙な違いを検分する。
 床の埃を追っていた視線が、また黒板に戻された。白墨で記された記号をざっと流し見て、一点でぴたりと止まる。どうやら誤字を発見したらしいが、俺に正しい表記は分からなかった。葉佩は知っているのだろうか。だとしたら、どうしてこんなにも退屈な授業を黙っておとなしく受けているのだろう。面白くもなんともないだろうに。
 その時には、さっきまで机に突っ伏していた俺はもう姿を消していた。我れながらいつの間に。

 終業の鐘が鳴って、再び俺が姿を見せた。ほんとお前、学校に何しに来てんの。葉佩がからかうように言う。俺は何も言わず、薄く笑って鞄を取り上げた。葉佩の気を引きたいのだが、直視されるのは避けたい。そんな心が透けて見えるようだ。葉佩が俺をしつこく構いたがる気持ちが、少しだけ分かった。
 鞄を持つ俺の指を、葉佩が注視している。左手の中指だった。別段どうという事はない、なんの変哲もないただの指だ。それを葉佩は、先程の誤字など比較にならないほど熱心に見詰めていた。なんでだかは分からない。

「皆守」

と、不意に葉佩が言った。今日はこれが初めての呼びかけだ。俺が、やはりだるそうに葉佩へと目を向ける。だるそうな上に眠そうだ。あるいは寝起きなのだろうか。その可能性は、大いに有り得る。
 葉佩が続ける。視線はもう指ではなく、手首に移っていた。気持ち悪いほど凝視している。

「腹減った」
「そうか」
「飯食いに行こう」
「そうだな」
「起きてる?」
「そこはかとなく」
「じゃ、行こうか」
「どこに?」
「起きろ!」
「起きてる」
「嘘だ、ぜってー寝てる!」
「人を疑ってばかりいると、人にも疑われるぞ」
「お前はもうちょっと自分を疑え!」
「俺が自分を疑ったら、誰も俺を信用しなくなるじゃないか」
「そんなとこだけ覚めてる!」

 俺は気付いていないだろうが、空は黒雲に覆われている。低い雷鳴も、まだ遠いがかすかに聞こえる。急がないと雨が降り出すと、葉佩はちゃんと予測しているようだ。
 葉佩はしきりに自分の肩に手を当てている。雨が降ると古傷が痛むのだと、いつだったか言っていた。

 唐突に、俺が脚を振り上げた。というのは、葉佩には唐突だと感じられただろう、という俺の冷静なる洞察の結果だ。つまり、俺にはその動作が唐突ではなく、天気の変化のように予測し得る行動であると理解できた。
 古傷が痛むのなら、もっと大きな痛みでそれを打ち消してしまえばいい。とても優しい心遣いなのだが、葉佩には通じていないようだ。察しの悪い奴だな。

「なんでだ!」
「気にするな」
「無理!」
「お礼はカレーでいいから」
「意味が分かりません!」
「察しの悪い奴だな」
「なんだその理不尽な誹謗中傷!」
「中傷ってのは理不尽なもんだ」
「そうなの?」
「そうだろ」
「へえ、そうなんだ」

と言って、葉佩が俺を見上げた。今度は下顎と耳朶の接続部分をじっと見詰める。そこに何があるというのだろう。

 靴を履き替えて外に出ると、さすがの俺も雨が降りそうだと気付いた。空を見上げて、少しだけ近付きはしたがまだ遠雷の音を聞く。
 ゆっくり食事などしていれば、間違いなく雨が降り出すだろう。葉佩も俺もそれを察していたが、何故か二人とも口には出さなかった。急ぐでもなく、時々空を見上げながらも歩調は早まらない。
 葉佩は、また俺を見ていた。












 予想どおり、食堂の席に座って間もなく雨が降り出した。「傘」と、俺が独り言のように呟く。聞き取りづらい。もっとはっきり喋れ、と思ったが、葉佩には問題なく聞こえていたらしい。すぐに応えが返る。

「持ってないよ」
「そうか」
「皆守は?」
「置き傘という文明の利器がある」
「文明っていうか、怠惰の証明な気がする」
「文明ってのは怠惰が作り上げたんだ」
「つまり、持ち歩くのめんどくせぇって事か」
「入れてもらう気満々の奴がえらそうに言うな」
「ごめんなさい俺も文明の利器の恩恵に与らせてください」
「じゃあ葉佩お前、校舎まで戻って取ってこい」

葉佩が窓の外を見る。数分前に降り出した雨は、今ではいっそ気持ちいいほどの土砂降りだ。傘は校舎にある。ここは食堂だ。文明が怠惰に敗北した瞬間だった。置き傘ぐらいの利器では、俺の怠惰は満足しない。まったく、人間とは欲深い存在だ。
 葉佩は「まあいいや」と口中で呟いて、運ばれてきたハンバーグに歯を立てた。

 閃光が走った。食堂のそこかしこで、小さな悲鳴のような歓声のような声が上がる。直後に雷鳴がとどろき、葉佩がびくりと身をすくませた。それなのに、視線は魅入られたように空へと向かっている。手は、上着の中の鉄を握り締めている。まるでそれが唯一の救いであるかのように。
 カレーを口に運びながら、俺が言う。

「怖いのか?」
「さあ、よく分かんない」
「怖がってるように見えるんだが」
「そっか、じゃあ怖いのかな」

そう言いながらも、葉佩は空を見ている。また光った。直後に轟音。銃に触れていた手が、ぎゅっと力をこめる。
 対面に座る俺がそれを見ているのだが、葉佩はその事に気付いてもいない。葉佩は、ただひたすらに時々光る灰色の空を凝視していた。怯えるように、待ち望むように、震えながら、懐の鉄にすがりながら。

 やがて雷鳴も遠くなり、葉佩がまた俺を見た。俺の皿には、まだカレーが残っている。雷に見蕩れる葉佩に見蕩れていたのだろうと俺には察せられたが、葉佩は嘲るように「まだ食ってねぇのかよ」と言って笑った。
 どうしてゆっくり味わって食べるという行為を嘲笑されなければいけないのか。漠然と思いながら、葉佩が嬉しくて微笑んでいるのだと分かった。見る度に胡散臭いと感じていた笑みが、本当に嬉しくて浮かべているのだと知って、少しだけ心が軽くなった。本当は蔑まれているのではないかと、ずっと俺は不安だったのだ。
 早く食えよと、嬉しくて笑っている葉佩が言う。その笑みから目を逸らしている俺が、視線を落としたまま問う。

「なんで」
「いや、別にゆっくりでいいけどさ」
「どうせまだ降ってる」
「そうだね」
「傘もない」
「うん」

頷いた葉佩が、また空を見た。今度は盗み見るように、ちらりと。もうすぐ雨はやみそうだ。
 葉佩が俺を見て、その皿を見て、スプーンを見て、何故かそのまま視線が固定された。皿から口へと少々不規則に動くスプーンに、瞬きも忘れて見入っている。俺がその視線に気付いた。口から出したスプーンを、急に横へ動かす。葉佩の目が正確にその軌道を追う。左右に振ってみる。同様に視線を左右に振ってから、葉佩が俺を見た。

「何してんの?」
「気にするな」
「いいから早く食えよ」
「だからなんで」

ぼんやりとした問いには答えず、葉佩は空を見る。そろそろ俺にも分かりかけてきた。葉佩は、雨がやまなければいいと思っている。そしてたぶん、俺も。

 葉佩が空ではなく天井を見上げた。設置されている照明の数をかぞえるように視線を動かす。しかしそれは、設置されている照明の数をかぞえる為の動作ではない(あるいは、葉佩はもう照明がいくつ設置されているのか知っているのだろう)。次にテーブルの上のタバスコを見て、その残量を確認する。俺はその時まで、この店のテーブルにタバスコが置かれている事に気付いていなかった(カレーにタバスコをかける奴がいるか?)。
 店内のあらゆる物を順番に凝視してから、葉佩は何かを諦めるように俺を見た。俺も、葉佩を見ていた。

 俺は葉佩の中で頭を抱えた。死にたいと本気で思った。いっそ殺せと叫びたくなった。これが夢だとしたら、なんて酷い悪夢だ。もし現実だとしたら、誰か今すぐ世界を終わらせてくれ。
 そんな目で葉佩を見ていたのだと、知らなかったのはもしかして俺だけなのか。