たゆとう煙から視線を外せば、難しい顔で碑文を睨む葉佩の背中が見える。彼は夜に棲むものだ。昼間はまるで人のような素振りで人を惑わし、闇に紛れて夜と交わる。畏れも知らず、恐れも知らず、ただ暴力を以って静謐を汚す。その幻想が葉佩の意思で形作られているという事も、皆守はもう知っていた。彼はただの人間だ。闇を恐れるあまり逃げる事さえ叶わなかっただけの、卑小で臆病な人間だ。まるで化物のように振舞っているだけの、大きな子供だ。
 分からん、と葉佩が呟いた。H.A.N.Tに視線を落とし、もう一度。

「わっかんねぇ!何だよこの単語ぉ!見た事ねぇよこんなの!」

乱雑な動作で(それでも衝撃を与えない程度の手加減はして)葉佩がH.A.N.Tをポケットに仕舞った。苛立たしげに、座り込んでいた身を立ち上げる。背後など振り向きもせず、虚空に向かって悪態を吐き出す。伸びをしながら間接を鳴らすその背中を見ながら、皆守は湧き上がった言葉を飲み込んだ。

 お前が理解できる事なんて、本当にあるのか?

 ある一点に於いては、葉佩は驚くべき鋭さで真実を導き出す。野生の勘とでも表現したくなるそれは、しかし人間に対して発揮された事例はない。頬を染めて見詰める少女の視線にも、含みを持たせた級友の言葉にも、悲愴な表情で身の内の虚を語った墓守の叫びにも、葉佩は反応しなかった。殺意すら孕んだ監視の目にも、一筋の動揺すら見せなかった。素晴らしい精神力だ、などと感嘆した記憶も、今では微笑ましい思い出だ。気付いていなかっただけだと、皆守は最近になって漸く悟った。一握りの魅力的な謎を除いて、葉佩は何物にもその心を向ける事はない。
 まだ独り言を吐き出している葉佩に、気のない振りで声をかける。

「まだか」
「うるせぇ黙ってろ気が散る」

一息で言い捨てられ、いい加減に慣れたとはいえ皆守がピクリと眉を上げる。葉佩には悪態をついた自覚はないのだろう。皆守には視線も合わせずほの明るい部屋を見回し、通路の先に発見した扉に足を向ける。意図的に皆守を無視しているのではなく、本当に見えていないのかも知れない。怠惰なのに探索に同行したがる級友ぐらいでは、その意識に引っ掛ける事すら無駄だとでも思っているに違いない。
 葉佩が開錠と同時に部屋に立ち入る。それに続く事はせず、皆守は耳を澄ました。暫く銃撃の音が響き、やがて静寂が戻ってからその扉を開く。不用意に後に続いて入って、部屋の中で待ち構えていた化人もろとも攻撃された記憶は新しい。轟音が完全に鳴りやんでいる事を確認し、皆守はその部屋に入った。

「行き止まりかちくしょー」
「さっきの解読しないと先には進めないんじゃないか?」
「あ、不連続な反響音だ」

皆守が咄嗟に対ショック体勢をとる。葉佩は一寸の躊躇もなく、威力を弱めた特製の対壁用HGを壁に投げつけた。轟音に紛れて、葉佩の嬉しそうな声が聞こえる。粉塵が収まった時には、隠された部屋で発見した壺を抱きかかえ、鼻歌混じりに開錠を試みていた。楽しそうでなによりだ。

「おお、凶悪そうな武器♪」
「武器か?それ」
「持ち上げられれば武器、重かったら兵器」
「防御っていう手段はないのか」
「・・・あれ?皆守?」
「一応言っとくが、さっきからいた」
「お、おお、そーだったっけ?」
「まあ気配は消してたんだが」
「気配消して背後に立つなよ」
「うん、まあ、本当は消してないんだが」
「はい?」
「お前が気付かなかっただけだ」

葉佩が首を傾げた。皆守の言葉が理解できなかったのだろう。皆守も、自分が何を言いたいのかよく分からなかったのだから、それは仕方ない。気配は消していなかった。ただ普通に扉を開き、普通に歩み寄っただけだ。葉佩が人の気配に気付かないのは、いつもの事だった。化人や害意には見ていて呆れるほど敏感だというのに。そして、基本的に人の話は聞かない。興味がないのだろう。傾げた首を元に戻し、ポケットからH.A.N.Tを取り出し、皆守を見ながら独り言を呟いた。

「ここの、これが分かんなくってさぁ」
「そんなこと俺に言われても」
「草に似てるんだけど、だとすると意味が繋がんないんだよね」
「ふうん」
「もっと現象とか動作っぽい言葉だと思うんだけど」

予想どおり、会話は成り立たなかった。虚空に向けて、時にH.A.N.Tに向かって、葉佩は自分の思考を辿る作業に没頭している。体を左右に揺らし、歌うように言葉を吐き出す。思考の海に沈んでいる葉佩は、基本的に危険がなければ反応しない。酷く凶暴な気分になる。何も見ないその目が、何も理解しないその精神が、小さな針となって皆守を苛む。
 自己顕示欲は希薄な方だと思っていた。むしろ放っておいて欲しいと、常々皆守は考えていた。期待であれ侮蔑であれ、自分を見る目を同じように煩わしいと感じていた。寂しい自分も、決して厭うべき存在ではない。表皮を撫でるひんやりとした孤独は、慣れてしまえば存外心地好いものだ。カレーと暖かい寝床があれば、世界はそれで完結する。そう信じていた。

「あー、もっかい資料あさるかぁ」
「おう、そうしとけ」
「あらかたH.A.N.Tに入れといたんだけどなぁ」
「今日はもうやめとけ。眠くなってきた」
「お前が眠くない時ってある?」
「一日に15時間ぐらいある」
「この前『あー眠い』って寝言でいってたぞ」
「あれは実は起きてたんだ」
「弾も補充したいし、まあいいか」

言う間にも、葉佩が地上に足を向けた。口からは歌のような音が絶えず発せられている。リズムをとるにしては不規則に揺れる後頭部を眺めながら、皆守はその眼差しが自分に向く事は永遠にないのだと、漠然と想像した。いつか相対する時も、葉佩が皆守を見る事はないだろう。葛藤も、悲哀も、ささやかな喜びも、きっと何一つ。
 ふとした悪戯を思いつき、皆守はそれを実行に移した。後ろから葉佩の首に触れ、襟の中に指先をすべり入れる。害意を含まず、他のあらゆる意思を含まず、ただ無表情に急所を撫でてみた。ビクリと葉佩の全身が跳ね、直後に硬直したのを感じる。それには構わず、両腕を首に撒きつけて少しだけ体重をかけた。

「・・・あの、皆守くん?」
「おお、なんだ?」
「いや、ええと、それ俺の科白なんですけど」
「眠くなってきた」
「ベッドまで頑張ってください」
「だるい」
「それ以上体重かけたら倒れるよ」
「それもいいな」
「いいんだ・・・」
「共倒れか、悪くないな」
「・・・あの、皆守さん?」
「ん?」

グローブに包まれた指先が、皆守の手に触れた。引き剥がすように力を加えられたが、何故かその動作は恐れるように弱々しい。もしかしたら、本当に怖いのかも知れない。敵意でもなく、害意でもなく、況してや殺意でもないその行為の目的を推理する為に、葉佩が冷たく皆守を見た。石碑を見る目に似ている。皆守が心の隅で、淡い満足感と激しい虚無感を同時に噛み締めた。

「どうした?」
「いやだからそれ俺の科白」
「寒いんだ」
「俺、あったかい?」
「まあ、俺よりは」
「・・・楽しい?」
「ほのかに」

葉佩の目が苛立った。皆守の激しい虚無感が、ほんの僅かに満たされる。更に深く手を入れると、さすがに堪りかねた葉佩が大きく腕を上げた。その腕が顔面に衝突する前に、皆守は素早く身を離した。指に残った体温が、煩いほど神経を刺激する。その感触を閉じ込めるように手の平で指を包み、今の行動はただの戯れだと主張するように唇を上げれば、葉佩が小さく舌を打って視線を逸らした。そして前に向きなおった時には、奇妙な級友の悪趣味な戯れなど忘れているのだろう。皮膚に触れた指先の冷たさも、背中に押し当てられた鼓動の早さも、一瞬だけ縋るようにベストの襟を掴んだ手の平も、記憶の底に沈んでしまう。
 何も言わずに踵を返した葉佩の背中に、皆守が今度は確かな意思を持って手を伸ばした。叫びだしたいような気持ちで、しかし声は発する事なく、肩を強く掴む。まるで抱き締めるように力を込めたその手を、葉佩が握り返した、ように皆守は錯覚した。
 腕を引かれ、襟を掴まれ、爪先が浮いた。葉佩が低く体を曲げ、完全に皆守を背負った。顔面から床に落ちる自分を想像して、皆守が思わず上擦った声を上げる。手本のような背負い投げだ。さすがは《宝探し屋》、体術も素晴らしい。場違いな言葉が皆守の脳裡をかすめ、消えていった。だが硬い床と不本意なキスをする前に、やけに近くで葉佩の声が聞こえた。

「お前、うるさい」
「・・・そうか?」
「うるさい。うざい。訳わからん」

葉佩が心底うんざりした表情で、背中に乗せた皆守を担ぎなおす。状況を把握し、皆守が呆然と疑問を落とした。

「・・・なんだ?この状況」
「お前、歩くの遅いし」
「いや、だからって担がなくても」
「うるさいし」
「・・・重くないのか?」
「重いよ」

言いながら、葉佩はふらつきもせずに床を踏んでいる。硬い靴音が一人分、闇と静寂の空間に響く。いつもより少しだけ高い目線で、既に歩き慣れた《墓》の復路を進む。さっぱり意味が分からない。どうして自分は担がれているのか。抗議しようと声を発すると、親指で喉仏を押さえられた。仕方なく口を閉じる。荷物というより人質のような気分だ。生存を望む者がいなければ、人質など意味を成さないのに。
 地上へと続くロープの前で、葉佩が無表情に言った。

「落っこちたくなかったら掴まってろ」
「いや、それより下ろしてくれた方が助かる。精神的にも」
「うるさい」
「おい待て、葉佩」
「黙れっつってんだろ」

身じろぐと、恐ろしいほど正確に間接を押さえられた。本気で抵抗すれば脱出できるだろうか、と考えた瞬間、葉佩がするりと首筋を撫でた。延髄でその指がピタリと止まり、僅かに圧迫される。頭蓋と背骨を繋ぐ、人間の数ある急所の中でも特に脆い関節だ。死に直結する威嚇を前に、それでも皆守は空洞が満たされるのを感じた。

「なんで笑ってんの?お前」
「笑ってたか」
「気持ちわりぃ薄ら笑い浮かべてたよ」

吐き捨てるように言って、葉佩が両手でロープを掴んだ。解放された皆守が、音を立てて床に足を着く。それを意に介した素振りも見せず、葉佩は慣れた手付きでロープをたぐった。壁の突起に爪先を引っ掛け、歩くほどの速さで地上へと向かう。
 墓穴から見上げた夜空には、ぼやけた星が浮いていた。空に向かっているようだ。アロマに火を点けながらそんな事を考えているうちに、葉佩はさっさと地上に戻り、皆守を置いて歩き出した。まだ《墓》の中で星と幻に見蕩れていた皆守が、彼の触れた部位に熱を感じて目を細める。

 お前が人間だって、俺だけは知ってるからな。

 葉佩のグローブが触れた手首に唇を落とし、皆守は仮初の級友を演じる為に墓穴から這い出した。皆守にとっては完成された、己の終焉へと続く世界に戻り、大きく背を伸ばす。そうしてから、自分が死んでしまったら、化物気取りの彼の臆病な素顔を知る者はいなくなるのだな、とふと思い立ち、少しだけ終わるのを寂しく感じた。