うんざりするような熱帯夜だった。
浅い眠りにどうにかすがり付いていた皆守は、枕元でけたたましく鳴り響いた携帯の着信音で意識を浮上させた。舌を打って再び眠りの尾を探して目を閉じるが、気紛れな睡魔は余韻だけを残して既に去ってしまったようだ。目蓋の裏の闇を見詰めながら、じっと睡魔の再訪を待つ。
ようやく眠りの尾に手が届いたと思ったその瞬間、窓が開いた。
「おはよう皆守!夜だけど!」
即座に体が反応したのは、決して彼を迎え入れる為ではない。皆守は微睡みに意識を浸したまま、その侵入者の首に爪先を叩き込んだ。無様に潰れた音がして、侵入者が窓から階下へと落ちてゆく。固い物が地面に叩きつけられる音が耳に届く前に、窓を閉じてベッドに突っ伏した。覚めたまま睡魔に抱かれる夢を見て、これが永遠だったらいいのに、と声には出さず呟く。
夜のしじまを引き裂いて、朝も夜もない《宝探し屋》が懲りずに窓を開けたのはその3分46秒後だった。
「メールしただろー」
「こんな時間にメールするな」
「しないと怒るくせに」
「しても怒るだろう俺は」
「でもほんとは怒ってないよねお前」
「お前が知らないだけで怒ってるんだ」
「うん、そんなお前にお土産だ」
と言って、葉佩が枕元に小さな黒い物体を置く。薄目を開けて一応それを確認しようとして、皆守は思わず全力で身を起こした。うごめくその黒い物体を取り上げて、葉佩が嬉しそうに笑う。
「カブトムシ。さっきそこで見つけたんだ」
「・・・丁度良かった。腹が減ってたんだ」
「やめろぉ!俺の大事なカブトをそんな目で見るなぁ!」
「冗談だ。さすがに生で食うのは」
「煮ても焼いても駄目だよ!」
「おい、握り潰す気か」
「うお!あっぶねぇ!だいじょぶか?生きてる?」
「お前って人間以外には優しいよな」
「お前にも優しいだろ」
「優しい奴は夜中に襲撃かけたりしない」
悲しいほど無実な寝言は、大気中に拡散して意味すら消え失せた。水分を含んだ空気が肌にまとわりつき、安らかな眠りを遠ざける。何故かカブトムシを手の平に乗せたまま勝手に冷蔵庫を開けている葉佩はもう諦めて、皆守は遥か彼方の睡魔を求めて目を閉じた。
冷蔵庫を閉じた葉佩が、ふと常識的な言葉を吐き出した。
「西瓜でも買ってくるか」
「ついでにコリアンダーも頼む」
「それってコンビニで売ってる?」
「お前は《宝探し屋》だろ」
「お、おお!よっしゃ任せろ!」
近所迷惑なほどの気合いを入れて、葉佩は夜の街に消えていった。物言わぬカブトムシは、何を思ってかしきりにテーブルの端から端へと歩き回っている。完全に覚醒してしまった皆守は、少しだけ土で汚れたカブトムシの背を指先で撫でつつ、あの騒がしい男が永遠に帰ってこない事を願った。
願いは叶わないと、皆守はもう知っている。
「ただいま皆守!またカブトムシ発見した!東京すげぇ!」
「何しに出て行ったんだ」
「買ってきたよ、はい西瓜」
「コリアンダーは」
「あ、ごめん忘れてた」
「買い物すら満足にできないのに《宝探し屋》を名乗るな」
「《宝探し屋》って便利屋と違うからね」
「違うのか?」
「そんな純粋な瞳でひどいこと言うな泣きたくなる」
「泣くなよ」
「泣くぐらい好きにさせろよ」
「まあ、どうしても泣きたいって言うんなら」
「皆守ー早く切ってー」
「泣かすぞ」
渡されたビニール袋には、本当に一般的に西瓜と呼称される物体が入っていた。「早く切ってくれ」と視線だけで催促されて、皆守はふと、どうして自分はこんな夜中にこんな事をしているのだろう、という疑問を発見した。解答はいつもどおり闇の中だ。きっとその闇は眠りを誘う優しい闇ではなく、獣の瞳と銃火が光る暴力的な暗闇なのだろう。だから皆守は、その闇に深く立ち入ろうとは思わない。
西瓜を切る皆守の手元を覗き込んでいた葉佩が、唐突に叫んだ。
「皆守!輪切りになってるよ!」
「この方が効率がいいんだ」
「短冊切りも駄目!」
「なんでだよ、食べやすいだろ?」
「西瓜はかぶりつきたい!」
「うるせぇ黙れ」
「カレーにはあんなに拘るのに!」
「カレーと西瓜を一緒にするな」
「刃物もって凄むな!怖い!」
「銃を懐に入れて笑う奴の方が怖い」
「しかもなんだよその包丁捌き」
「惚れたか?」
「うわすげぇ!西瓜ペラッペラだ!」
「そんなに褒めるな。千切りになるぞ」
「あ、それはやだな」
「じゃあ黙ってろ」
「黙ってたら短冊切りになるだろ!」
「あーうるせぇ」
双方が奇跡的な歩み寄りを見せた結果、乱切りの西瓜が二人の前に現れた。苦言が及ばず短冊切りになった部分は、葉佩の希望でカブトムシに与えられる事となった。葉佩が二匹目のカブトムシを一匹目の隣にそっと置いて、仲良く寄り添って食事に勤しむ二匹をやけに幸せそうな目で見詰める。
「バトらせてみよっか」
「その年でその残酷さは許されないぞ」
「仲いーなこいつら」
「まあ食ってる時はそうなんだろうな」
「夏が終わったら死ぬんだよね」
「まあそうだな」
「子孫を残す為に成虫になるから、友情なんか育んでる暇ねーのな」
「・・・そうだな」
応える為に声を発したら、種を飲み込んでしまった。
葉佩が食べ終えた西瓜の皮にカブトムシを移動させると、もう一匹がそれを追ってきた。葉佩は、どうしてそんなに、と言いたくなるほど嬉しそうにそれを見ている。
「この前、南米に行ってさ」
「ほお」
「すげぇでっかいカブトムシ見つけたんだ」
「ヘラクレスか」
「突然変異でね、羽が青いのがいるんだって」
「ふうん」
「標本は見たんだけどね、野生で飛んでるの見たいなぁ」
「見ればいいだろ」
「簡単に言うけどさ」
「お前は《宝探し屋》なんだろ?」
「・・・うん」
カブトムシの角を人差し指で撫でながら、葉佩は笑おうとして失敗したような顔で頷いた。その表情が含む意味には気づかなかったふりをして、ぬるくなり始めた西瓜に歯を立てる。薄く赤みを帯びた液体が、腕を伝って床に落ちた。葉佩の視線が正確にその軌跡を追っていたのも、気づかなかった事にする。意味などないのだと、皆守はまだ信じていた。
葉佩が黙ると、世界は静寂に満たされた。テーブルに頬をつけて、葉佩は顔を寄せ合う二匹のカブトムシを見詰めている。時々角が触れ合って、かすかな音が沈黙を震わせる。皆守は急に眠気を覚えて、食べかけの西瓜を置いてベッドに向かった。
眠る体勢に入った皆守に、今更になって深夜だと思い出した訳でもないだろうが、囁くような音量で葉佩が言う。
「こいつら、ここに置いてくから」
「いらん、持って帰れ」
「死ぬまででいいから捨てないで」
「わざわざ捨てたりはしない」
「ありがとう」
「たぶん逃げると思うけどな」
「うん、それならいいんだ」
「俺は探さないぞ。待たないし」
「うん」
そうして彼が二度とこの場所に来なくなっても、自分はきっと悲しまないだろうと皆守は考えている。置き去りにされた事にすら気づかず、ただ記憶と感情を持て余したままここで生きるのだろう。次に奴が来るのはいつだろうと期待しながら、或いは恐れながら、そんな自分に呆れながら。
そういえば、葉佩の土産はやがて消えるものばかりだ。オーパーツと称した謎の物体を見せびらかしに来る事もあるが、大抵は「提出しなきゃいけないから」と言って持って帰る。置いて行かれても困るので、それは助かるのだが。
彼の秘宝になり損ねたものだけが、いつも皆守に残される。たとえば、西瓜の上で寄り添うカブトムシ。
皆守が再び目を開けると、世界は朝になっていた。テーブルの上には食べ散らかした西瓜の皮。その上では二匹のカブトムシが身を寄せ合っている。朝日に照らされて、くすんだ黒い体は安っぽい玩具のように見えた。その横には、封の切られていないコリアンダーの瓶が置かれている。
寄り添って眠る真っ黒いカブトムシの羽に一度だけ触れてから、皆守は夢から覚めて部屋を出た。
葉佩はきっと、青い羽のカブトムシを見つけに行ったのだろう。
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