緋勇は無言だった。肉がえぐれる音がして、骨が折れる音がして、血液が飛び散っても、緋勇は声ひとつ上げなかった。ただ、わずかに、ともすれば見逃してしまうほどわずかに、顔をしかめて息を止めた。微笑みに似ていると、何故か思った。 緋勇は、次の瞬間には毅然と地を蹴り、轟音をまき散らし、刃のように鋭い爪先を鬼の首に突き刺していた。表情は、ないように見えた。蓬莱寺は、それが悔しかった。 桜井に無事かと問われ、応える余裕もなく緋勇に駆け寄る。美里の手を断り、緋勇がちらりと視線を寄越した。彼の肉体がいつものように、途轍もない速さで傷を癒しているのだと察して、得物を握る手が震える。恐怖ではない。こんな事でいちいち恐怖しているようでは、彼の相棒などやっていられない。蓬莱寺を震わせたのは、自分への呵責だ。 しかし無様に激高して自棄になるほど、幼くもない。蓬莱寺は息を吸い、ゆっくりと吐いて、真正面から緋勇を見た。 「すまねぇ、ひーちゃん」 「構わん」 「構えよ」 「じゃあ、今日はお前のおごりで」 「そういう話じゃなかったはずだ!」 「全員分」 「それは物理的に不可能だぜひーちゃん」 「だろうな」 庇われたのだと、冷静に認めた。緋勇があと数秒でも遅ければ、蓬莱寺は腕の一本も失っていたに違いない。緋勇が身を挺して攻撃を受け、傷ついた。その事実を、きつく噛み締める。気が遠くなるほど苦いものを、黙って飲み下す。 緋勇が傷付いた腕を上げ、軽く手の平を開閉した。問題ない、そう判断したのだろう、緋勇はそのまま何も言わず、地上への階段に足を向けた。美里の案じる言葉を受け取りもせず、醍醐がさり気なく差し出した手を見ようともせず、桜井の不安げな視線など気付いた風もなく、緋勇は歩き出した。 とてもではないが、並んで食事などできる気分ではなかった。今すぐにでも地下に戻り、壊れるまで得物を振るいたい気分だった。察した醍醐に釘を刺された事さえ面白くない。緋勇は、相変わらずこちらを見もしない。 無言のままひとりで帰路を踏み、冷たくなった部屋に戻る。崩れ落ちるようにしゃがみ込んで、彼の痛みを想像した。傷跡すら残らないのに、彼は感じた痛みをどうするのだろう。 そうしてしばらくの間、無為な煩悶に耽り、やがて蓬莱寺は立ち上がってこっそり部屋を出た。家族はすでに寝静まっている時間だ。音を立てぬようドアを開閉するのにも、もう慣れた。 道路から緋勇の部屋を見上げ、明かりが消えている事を確認する。足音をひそめて階段をのぼり、そっとドアを開け、ようとしたが、珍しく施錠されていた。あの野郎、と理不尽に呟きつつ、ドア越しに気配を探る。 彼はきっと気付いているはずだ。非力で愚かな男がひとり、自分を責めて今にも泣き崩れそうになっている事にまで思い至っているかどうかは分からないが、少なくともドアの前に立っている事には。 あふれて、覚えず彼の名をささやく。即座に応答があった。心臓が止まるかと思ったが、予想に反して心臓は必要以上に動いていた。上がった動悸はさておいて声のした方に顔を向けると、夜闇に浮かぶような緋勇が背後に立っていた。こんな怪談があったような気がする。 「ひーちゃん」 「どうした」 「え、いや、お前がどうした」 「どうもしてない」 「そ、そうか?」 「何か用か?」 「あ、いや、別に」 「そうか」 緋勇が無表情にそう言って、蓬莱寺の横をすり抜けて、ドアノブを回してから鍵を取り出し、改めてドアを開けた。立ち尽くす蓬莱寺の前で、ドアが開いた。緋勇が靴を脱いで部屋に入っても、まだドアは閉まらない。 ちらりと緋勇がこちらを見て、早く閉めろと小さな声で言った。どうしようもなく、泣きたくなる。それがいっそ拒絶だったら、こんなにも惨めな気持ちにはならなかっただろう。 前触れもなく、緋勇がこちらを見た。問いのような、確信のような言葉を、無造作に投げて寄越す。 「行くのか」 「どこに?」 「行かないのか」 「だからどこに」 「お前が行くなら、俺も行く」 やっと分かった。彼は察していたのだ。この男は、慙愧などとは無縁だと思っていた。 深夜の旧校舎に忍び込むのは、これが初めてではない。手慣れた仕草で塀を乗り越え、月明かりを頼りに地下への道をくだる。 「ひーちゃん」 「なんだ」 「ええと、傷」 「治った」 「見せろ」 「治った」 「いや、だから見せろって」 「どうして」 「うるせぇいいから見せろ!」 と言いながら緋勇の腕を掴むと、掴んだ腕がふと軽くなり、視界が回った。何をどうしてか、転ばされたのだと気付いた時には、緋勇はとっとと歩き出していた。地面に接した衝撃すら、ほとんどなかった。優しく、丁寧に、そっと転ばされたのだ。意味が分からない。 「おいこら、龍麻」 「なんで呼び方が変わるんだ」 「うるせぇ気にすんな!」 「来たぞ」 「分かってるよ!」 闇にうごめく異形のものが、何を思ってか、あるいは思うほどの心すらなく、襲いかかってくる。一閃で塵に返るこの存在を、蓬莱寺は正確に定義していない。 小さな呼気が聞こえた。彼の方も片付いたらしい。更に深奥へとくだってゆく。 「なにも脱げっつってんじゃねぇんだからよ」 「何が見たいんだ」 「傷」 「ない」 「じゃあ、傷があった所」 「見てどうする」 「どうもしねぇよ」 仕留めそこねた一体が、急に方向転換して緋勇の背に鉤爪を振りかざした。蓬莱寺が声を発するより早く、それを制した左手が、なめらかに攻撃へと移行する。目が離せなくなるのは、いつもの事だ。 破壊の為の動作が、彼の手にかかるとどうしてこうも美しいのだろう。 「よし、分かった」 「そうか」 「見ないから脱げ」 「分からない」 「見ねぇっつってんだからいいだろ!」 「本気で分からない」 「なんでだよ!」 「京一」 彼に名を呼ばれるだけで、声が出なくなるのは何故だろう。息すら止めて、世界よ止まれと無心に願うような気持ちになる。切ない、などと、柄でもないのに。 「構うな」 「構うだろ」 「俺がいいと言ってるんだ」 「俺はやだ」 「京一、俺はお前を守りたい」 「・・・え、ああ、そ、それは、さておき」 「おくな」 「俺だってひーちゃん守りてぇよ」 「守れてない」 「そうだけどさぁ!」 「守らなくていい」 「そうなんだけどさぁ!」 理想と現実の乖離を、身を以って思い知る。緋勇の発言には、反論の余地もない。身も蓋もないとはこの事だ。それでも、どうしても、と叫ぶのをやめられない、どこまでも愚かな自分が見える。 「分かった、俺も脱ぐ!」 「どうしたらいいんだ俺は」 「脱げばいいんだよ!」 「まあ落ち着け」 「俺は落ち着いてるぜ!」 「腕だけなら脱がなくても見える」 「じゃあ見せろよ!」 こんなにも愚かな奴に、彼はどうして優しいのだろう。 緋勇はさも不承不承といった仕草で、左手の袖を捲った。光量の少ない地下でも、闇に慣れた目にはそれで充分だ。蓬莱寺の目には、赤黒く鬱血して醜く隆起した彼の左腕が、しっかりと見えた。 「嘘じゃねぇか!」 「いや、傷は、治ってる」 「治ってるって言わねぇだろこれは!」 「ただの内出血だ」 「ばかやろう」 「京一」 「・・・ばかやろう」 情けない表情をしていると自分でも分かったので、彼の肩口を借りて顔を隠した。押し殺せずにあふれた感情が、せめて零れ落ちぬよう、彼の背中にすがり付いた。 いちばん許せないのは、彼の傷を喜んだ自分だ。跡形もなく消え失せているのではないかと、それがなにより怖かったのだと、蓬莱寺はようやく自覚した。身勝手で残酷な望みだ。彼の傷を喜ぶなどと。 「ひーちゃん、俺、強くなるから」 「いや、別にいい」 「そーゆーこと言うなよ!」 「お前が強くなったら、俺が困る」 「は?」 「ああ、いや、困りは、しないが」 「ん?」 「守れなくなる」 「ええと?」 「だから、お前は弱くていい」 「ふざけんなよてめぇ」 「まあ、お前はそう言うだろうな」 お前がそういう顔をするから、傷の治りが遅くなる。耳の後ろをくすぐられて、蓬莱寺は無言のまま身を離した。少し冷静になる必要がありそうだ。腹の辺りで何かが煮え滾っているのだが、それは今は無視する。妙に耳が熱いのも、今はどうでもいい。 それよりも何よりも。 「傷の治りが、遅くなる?」 「まあ、困るというほどでもないんだが」 「俺が、どういう顔してたって?」 「・・・」 「あ、やっぱ言わなくていい」 「かわ」 「言わなくっていい!」 身悶えるような慙愧が流れ去り、代わりに得体の知れない衝動が蓬莱寺に襲い来る。嵐のように凶暴で、溶岩にも似た激情だ。 緋勇がなんだか気まずそうな顔をしているようにも見えるが、騙されてはいけない。どうせ彼には、そのような心持ちは理解できないだろう。 強くなりたいと、もう何度目か、蓬莱寺は願った。これからも何度となく願うのだろう。無意味だとは、決して思わなかった。 |