|
柔らかな光が満ちた空間に、赤いノイズが混じった
|
優しい夢が悪夢へと変わる
|
ざわめきが背筋を這い上がる
|
視界が赤に染まる前に、早く目覚めなければ
|
必死に手足を動かす
|
赤い闇がすぐ其処まで迫っている
|
目を開けなければ
|
しかし、体は思うように動かない
|
気ばかりが急く
|
早く早く早く
|
ベッドが大きな音を立てて軋んだ。視界は暗く、赤など存在していない。それを確かめ、皆守は濡れた額に手を当てた。同時に大きく息を吐く。いつもの事だ。口中で呟き、上体を起こす。カーテンの隙間から染み入る夜気は、未だ夜明けが遠い事を知らせてくれる。湿ったシャツを脱ぎ捨て、素足で床に下りる。ふと、自分の影が目に入った。月光が薄いカーテンを透過し、部屋を仄かに照らしている。
「・・・いつものことだ」
今度こそ、声に出して呟いてみる。掠れてはいるが、空気を振動させるだけの力はあったらしい。乾いた喉に水道水を流し込み、漸く落ち着いた心臓を皮膚の上から撫でる。肋骨の感触を確かめ、その下で脈打つ鼓動を想像する。全身を廻る血液は、先程の夢と同じ赤い色をしている。それを良く知っている自分は、一体いつ、何処でそれを見たのだろう。ここ数年、出血するほどの怪我はしていない筈なのだが。
そこまで思考を連ねて思い出した。いつ見ても瘡蓋と痣を皮膚に貼り付けている、あの男。そういえば先日、小指の爪が紫色に変色しているのを誇らしげに見せびらかしに来た。「紫好きだろ?」などと言いながら嬉しそうに寄って来たので、右肩に踵を落としておいた。
時計に目を落とし、彼が地下に潜っている時間である事を確かめる。この時間なら、まだ地上にはいない。アロマスティックとライターだけをポケットに突っ込み、皆守は音も無く部屋を抜け出した。
完全な円に少し満たない月が、地上に光を注いでいる。それを受けながら、ゆったりとした足取りで気の向くままに歩く。目的地は決めていないのだが、自然と《墓地》に向かっている自分を意識する。其処には、何も無い。虚無だけが存在している筈なのに、何故あの男はあんなにも熱心に暴きたがるのだろう。傷付く事すら厭わず、何を探しているのだろう。
靴底が《墓地》の敷地を踏んだ。それと同時に、数分前の夢が眼前に浮かんだ。赤いノイズが視界の端で、警告のようにチラチラと揺れる。心臓が大きく脈打つ。進んではいけない。しかし、足は意思を無視して土を踏み続ける。せめて、と目を閉じようとするが、それすらも実現しなかった。
視界の端の赤に、黒い影が混じった。それは幻ではない。噎せ返るような錆びの匂いを感じる。皆守は、その匂いを知っていた。逃げ出したい。そんなものは、見たくない。
道から少し外れた場所に、葉佩が転がっていた。足音で皆守の接近には気付いていたようだが、その場を取り繕う余裕は無かったらしい。黒い水溜りに体を浸し、くぐもった声で「来るな」とだけ囁いた。その言葉を無視して、皆守は寝そべる葉佩に歩み寄った。自分がどんな表情をしているのか、それすらも意識できなかった。奇妙に歪んだ足首が見える。墓穴から続く血痕を跨ぎ、地に臥す葉佩の横に立つ。獣のように唸り声を上げる葉佩を見下ろす。
「・・・生きてるか?」
「生きてる、よ」
呼吸すら葉佩の体力を奪っているように見える。このまま放って置けば、彼は死ぬだろうか。皆守は、自分が全ての表情を失っている事に気付いていた。数秒前まで煩いぐらいに働いていた心臓は、凍ってしまったかのように静かだった。黒く見える水溜りは、光の下で見れば赤いのだろう。今夜が満月でなくて良かった。思った心に火を点ける。カキン、と硬質な音が静かな墓地に響いた。
葉佩が身動ぎ、獣のように獰猛な気配を発した。火に怯えたのかと思ったが、どうやら地面に接している部位が痛んだらしい。注意深く、唸りながら体の位置を変えようとしている。
「誰にやられた?」
「え、と、なんか、ふんどしのやつ・・・」
「・・・そりゃ気の毒に(誰だよ)」
「ああ、泣いてくれんの?」
葉佩がうつ伏せていた体を反転させ、仰向けに転がる。眩しそうに目を細め、月を見るように皆守を見る。その双眸に月が映っている。二つの月に見詰められ、吐き出そうとした煙が肺に留まった。
その半開きの顎に踵を乗せれば、この男は簡単に息絶えるだろう。しかし、皆守にその想像を現実のものにする気力は無かった。心底には正体不明の嵐が吹き荒れているのに、表層は細波ひとつ立っていない。凪いだ表情のまま、皆守は水溜りに足を踏み入れた。ぴちゃり、と不快な音がする。
「だいじょぶ、カレー食えば治るから」
「カレーにそんな効果はない」
「・・・泣くなよ」
泣いてはいなかった。頬は乾いている。同じぐらい、喉も渇いていた。
葉佩が目を閉じた。すう、と、息を吸う音が聞こえる。無防備に晒された葉佩の腹には、止血の包帯が巻かれていた。黒い水溜りには、オイルが混じっているらしい。粘度の高い感触が靴底を通して伝わる。油膜が月光を受けて七色に滲む。汚い虹だな。と言おうとして、やめた。
「助けて欲しいか?」
「ん、別に、いいよ」
「お前が死んだら八千穂が泣くぞ」
「・・・ああ、それはやだなぁ」
言いながら、葉佩は身を起こした。右足を庇いながらも、意外と確りした動作だった。地べたに両足を投げ出し、後ろに手を突いて上体を支える。瀕死の人間の動きではない。痛み止めが効いてきた、などと言いながら、血と泥と油に汚れた頬で笑った。昼間の教室で見せる、いつもの(それが本性であるとは限らないが)表情だ。皆守の心の嵐が沈静化する。その代わりに、虚無感がじわりと広がった。何かを失ったような気がするのだが、それが何かは分からない。
葉佩は目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返している。体を支えていた両手を慎重に動かして、再び地面に寝転んだ。
「死なないよ。まだ」
「そうか」
葉佩の表情は穏やかだ。眠りから覚めるように開かれた目が細められた。口角が緩やかに上がる。しかし、それが笑みではない事を皆守は知っていた。地下で何度か見た事がある。ナイフの柄を握った時。引き金に指先が触れた時。一瞬だけ過ぎるその目の光は、人間が動物であるという事実を皆守に深く感じさせた。生命は綺麗ではない。その事実は、皆守を不思議と安心させてくれた。
綺麗ではない生命に縋りつく葉佩が、月を見たまま、まるで微笑みのように顔を歪める。
「笑うな」
「え、俺笑ってた?」
穏やかな笑み(のような無表情)を浮かべたまま、葉佩がポケットを探る。錠剤の瓶を取り出し、数も確認せずに口に入れて飲み下す。皆守の視線がその瓶に張り付いている。気付いていたが、葉佩は敢えてそれを無視した。獣の気配も消えている。
子供が菓子を欲するように、皆守は葉佩の凶暴性を欲していた。それは、いつか皆守を砕く為に存在している。皆守が丹念に作り上げ、必死で守ってきたものを破壊する為のものだった。少なくとも、皆守はそう信じていた。壊れてしまえば、守る必要もなくなる。
「もう行けよ。俺はもう大丈夫だから」
「別に、心配はしてない」
「期待してんだろ?」
「・・・さあな」
今の皆守に、そんな複雑な問いに答えられるほどの思考力は無かった。
葉佩は、一人で地下に潜る。八千穂などは不満そうだが、皆守にはその気持ちが少しだけ理解出来た。一人で生きて死んで行こうと、決めているのだろう。それが何故、こんなにも皆守を苛立たせるのか。全て曝け出してしまえば良いのに。俺だけに。渦巻く感情の渦中にあって尚、皆守は目を逸らし続ける。葉佩の生き方に、皆守が介入する余地は無い。その事実が、不気味なほどに重たく感じられる。理由など知らない。知りたいとも思わない。
皆守には、伝えたい言葉を口にする資格が無かった。俺がお前を守ってやる、なんて、どの面下げて言うんだ。葉佩が息をする度に、音を立てる心臓が鬱陶しい。
明日になれば、葉佩はいつものように笑いながらいつもの席に座るだろう。痛みを薬で押さえ込み、傷を制服で包み込んで、いつも彼は笑っていたのだろう。
それを知ってしまった皆守は、もう二度と同じ思いではいられない。
面倒臭い奴だ。と、胸中で呟いたのは、もう何度目だろう。
|