偵察と称していつものように町を歩き、緋勇は夕暮れの気配に気付いて帰路に足を向けた。懐かしい町並みを歩き、かつて辿った道を外れて、山深い鬼の住処へと歩く。その場所が、今は緋勇の帰る場所だ。
 龍と名乗った、遠い日を思う。失ってしまった、あの場所を思う。胸の奥で上がる慟哭を聞き、破れ散った矜持を思う。自分は強いのだと信じていた、愚かな自分を思う。身の内の獣が、空洞を埋めようと牙を剥く。虚空に向かって吠え立てる。
 途絶えた時が懐かしくとも、今は鬼として生きている。ただ目の前にいる人々が、あまりに愛しくて、恋しくて。風に向かい立つ鬼の背中が、酷く憐れだと、そう思う。見えないものに抗う強さを、緋勇はもう失っていた。ただ過去を嘆き、己の非力を嘆き、目の前の慟哭に容易く同調する。取り戻す事など、疾うに諦めていた。獣はきっと、永遠に満たされない。
 その追憶を、憶えのある声が遮った。懐かしい氣が、傾きかけた陽光よりも強く緋勇を暖める。涙が出そうになった。そんな風に、そんな声で緋勇を呼ぶのは、彼だけの筈だ。隣を歩き、背を預けた戦友。今はもうどこにも居ない、緋勇を友と呼んだ鷹の目の剣士。

 声に振り向き、緋勇がふと眉を寄せた。好戦的に切れ上がった目も、自分を呼ぶ明るい声も、記憶の中の彼に相違ない。だがその姿は、緋勇の知る彼ではなかった。

「ひーちゃん!」
「・・・」
「ひーちゃんだよな?」
「・・・ええと」
「良かったー!やっと会えたー!」
「あの、どちら様?」
「ん?」

斜陽に映える赤茶けた髪も、見慣れぬ黒い着衣も、緋勇の知る彼ではない。ただ、気配だけが目映いほどに彼だった。強い力で掴まれた肩を、さり気無い仕草で離す。見知らぬ赤毛の少年が、きょとんと瞳を丸くした。

「あ、あれ?」
「人違い、じゃないかな?」
「ひーちゃん、じゃねぇ?」
「いや、まあ、そう呼ばれる事もあるんだけど」
「緋勇龍麻?」
「惜しい。一字違い」
「ひようたつま?」
「そこじゃない」
「ひゆうとんま」
「それだと二文字違うよ」

穏やかに言いつつ、笑みを浮かべて見せる。そうすると、少年は瞬きして口を閉じた。頬が紅潮して見えるのは、夕日の赤が移ったからだろうか。ぎこちなく視線を彷徨わせ、少年が口中で「ええと」と呟く。それが飄々とした彼によく似た容姿で行われるのが滑稽で、緋勇は更に笑みを深くした。少年の目が自分に固定されている事に気付き、優しく問う。

「どこから来た?」
「ん、えっと、あっちの方から」
「見慣れない服装だね」
「そうか?ああ、まあそーだろな」

異国の装束を好んで身に着ける人を思い出し、この少年もそうなのだろうかと考える。信じる事を信じた、綺麗な心の人。慈悲深い主の存在を、一心に掲げる人。そうして緋勇は思い出す。穏やかに微笑む、水のように青い人。あの柔らかい手は、今も誰かを癒しているのだろうか。思い出した清楚な立ち姿に、身を切るような郷愁が募る。獣が、空洞を埋めようと低く唸った。
 優しい鬼の背中がちらつく。深い慟哭に、緋勇は容易く身を投げた。それは信念ではなく、同情でもない。ただ目の前で彼等が嘆いていたから。その嘆きが自分の空洞とよく似ていたから。鬼の面を被った優しい人達が、愚かな自分を許してくれるような気がするから。憐れだと言って、慰めてくれるから。自身の虚無を見るように、緋勇は彼等の嘆きに見入った。
 視線を彷徨わせる少年に、幻の音を聞く。それはこの身の内から響く声だ。表に零れ出ぬよう、微笑んだまま少年を見る。笑い返してくれたが、本当は心細いのだとその表情が語っていた。勝気な彼が、そのような表情を浮かべているように錯覚する。彼が、今も自分を探しているように錯覚する。
 誰も、彼を束縛する事など出来ない。雷光のような瞳を思い、鮮やかな残像を翻して舞う、切っ先の光を思う。流れ去ってしまった、今は遠い人を思う。
 彼の幻影を見せる少年が、緋勇の前に立っている。

「人を、探しているんだね?」
「ああ、まあな」
「そいつは俺と似てるんだ」
「お、おう」
「おいで、一緒に探してあげよう」
「え、あ、いや、えーと」
「お前も、俺の友人とよく似てる」
「・・・へえ」

少年が、無邪気に瞳を丸くする。陰から日向に出てきたような気分になった。緋勇の身の内で、獣が爪を光らせる。
 攫って行ってしまおうか。鬼も龍も知らぬ、何処か遠くへ。暗くなり始めた世界で、そんな事を考える。彼によく似たこの少年は、この寂れた心を癒してくれるに違いない。内なる獣が、歓喜に身震いした。
 黄昏が、音も無く降りてくる。
 夜が来る。二度と明けぬ夜が。
 魅入られたように、少年が手を伸ばした。

「おいで」

もう一度、優しく囁く。
 己が獣だったのだと、緋勇は漸く思い出した。龍などではなく、鬼でもない。意思も無く、誇りも無く、ただ殺し、食らい、無為の生を全うするだけの存在。或いは、捻れた時空と交じり合い、ただ永久に彷徨うだけなのかも知れない。それでもいい。彼が、傍に居てくれるのなら。
























「ああ、やっぱいいや」

 とん、と軽く音を立てて、少年が紫色の袱紗を肩に乗せた。薄闇で、太陽のように笑って見せる。その表情はどこまでも明るい。というか、能天気というか、あまり物事を深く考えていないというか。緋勇の中の獣が、日向で微睡むように目を細めた。どうした獣。決して満たされぬ飢えと渇きはどこいった。
 差し出した手が行き場を失って、縋るものを探すように揺れた。その手を取る事はせず、少年が笑う。

「ありがとな」
「・・・いや」
「で、此処どこ?」
「江戸」
「日光?」
「いや、だから江戸」
「日○江戸村じゃねぇのか?」
「そこがお前の故郷か」
「いや、東京」

聞き憶えの無い地名に、ふと得心が腑に落ちた。この少年は、この世のものではないのだと。見慣れぬ装束も、どこか異邦人を思わせる仕草も、口調も、厳然たる断絶を表しているように思えた。
 無邪気に笑い合った日々を思い、獣が泣いている。寂しいと、もう一度あの場所に戻りたいと、子供のように泣いている。我が身の内で生きる獣に、ふと苛立ちを覚えた。いつまでそうしている、と叱咤したくなる。彼がもう違う時を刻んでいるのだと、緋勇は知っていた。彼は生きて、戦っている。その隣に緋勇は居ない。緋勇が立つのは、彼の眼前。対峙する位置。
 あの剣士の真正面に、緋勇は立っている。

 片手を上げて走り去った背中を見送り、置いて行かれたような気持ちで虚空を見上げた。泣き疲れた獣が、温もりを欲して鼻を鳴らす。夕餉の時刻が近い。急がねば、また食いっぱぐれてしまう。唯一の帰る場所に足を向け、今まさに行こうとしていた道に人影を発見した。一直線に緋勇へと向かって来る小さな人影に、獣が嬉しそうに耳を立てる。ちょっと待て獣。その反応は何事だ。

「おいこら緋勇!」
「どうした風祭、俺が居なくて寂しかったのか」
「そんなに殴られてぇのかお前は」
「それはお前だろう。なんだその隙だらけの構えは」

言いながら、がら空きの額に手の平を打ち付けた。音量を増した吠声に一つ笑い、ゆったりと踏み出す。当然のようにその隣を歩くのは、鬼を名乗る陰の龍。

「飯の時間には帰って来いっていつも言ってんだろ!」
「ああ、もうそんな時間か」
「ったくよー、それで?収穫は?」
「ああ、妙な男と会った」
「どんな?」
「迷子らしい」
「どうでもいい!」
「腹が減ったな」
「もっとどうでもいい!」

 鬼の哭く村までは、まだ遠い。此処はまだ道の途中なのだと、隣で喧しく吠え立てる小鬼の声を聞きながら思った。

 流されるだけのこの身と内なる獣は、いつかどこかに辿り着くのだろうか。
 その場所が、日向のように明るいといい。
 あの赤毛の少年が、望む人に会えるといい。
 満たされぬ獣が、いつか穏やかに微睡むといい。

 今はただ歩こうと、灯火に願った。