頭の中は真っ白で、体は疲れ果てていた。それでも、眼前に背中が見える。今までずっと戦ってきて、これからも戦い続けるだろう背中だ。立ちはだかる全てのものを破壊して、粉砕して、そんな気もないのに救ってきた。心から「ありがとう」などと言ったら、間違いなく顔をしかめるだろう。正気を疑われるかも知れない。それとも、もしかしたら笑ってくれるだろうか。
偽りの神の手が振り下ろされる。それは罰ではない。理不尽な暴力だ。言葉は通じない。理論も道徳もここには存在しない。この場所にあるのは、ただ憎しみと、生き残りたいという欲望だけだ。自分を肯定する、それだけの為に誰もが命を懸けていた。皆守もまた、例外ではない。
葉佩が叫んだ。吹き飛んできた八千穂を全身で受け止める。もろとも倒れ込み、受身も取れずに後頭部を強打した。喉から空気と一緒に無様な声が漏れたが気にしない。それどころではないのだ。
今、皆守は戦っている。
葉佩に撃たれて斬られて殴られて踏まれて、取り戻した記憶を語る暇も与えられずに壁際に引きずられて、立ちはだかった阿門を銃のグリップで殴り倒す葉佩を呆然と口を開けて見ていたら、白岐が何事か喋りだして荒吐が襲ってきた。意味なんか分からない。考えるほどの余裕は残っていなかった。ただ目の前で繰り広げられる凄絶な戦いをぼんやりと見ていたら、葉佩に罵倒された。「ばかやろう」とか、そんな感じの言葉で。
葉佩に「ばか」と言われるのは不本意だったので、もう無理だと思っていたのに立ち上がって怒鳴り返した。何を言ったかは憶えていない。阿門が驚いてこちらを見たから、たぶん普段は使わないような言葉だったのだろう。そもそも怒鳴ったのが随分と久し振りのような気がする。もしかしたら産まれて初めてだったかも知れない。
阿門が手の平をかざすと、鋭い衝撃が空間を震わせて荒吐に突き刺さった。こいつが最初から戦闘に出ていたら、執行委員など必要なかったのでは。そんな思考が脳の片隅をよぎって消えてゆく。阿門の攻撃が荒吐の動きを止めたと認識した瞬間、体が勝手に走りだした。人間に似た形だったので、人体の急所である鳩尾に踏み抜く勢いで左足を叩き込む。そのまま体重をかけて乗り上げ、二撃目を振り下ろす。顔面に踵を入れ、その反動で跳びすさる。直後、八千穂の放ったテニスボールがまだへこんでいる顔にめり込み、寸分違わぬ部位に今度は銃弾が飛んできた。
「皆守!邪魔!」
「下がれ皆守!」
「皆守クン!ナイス踵!」
言いたい放題の3人に舌打ちを返すと、着地と同時に背後から放たれた攻撃が脇腹をかすめた。葉佩の銃弾だったように思う。しかし振り向けなかったので、あとで殴ると心に決めて再び走りだす。その瞬間、真正面から恐ろしいほどの氣が皆守を襲った。咄嗟に頭部を庇いながら後方に跳ぶ。暴風にも似た衝撃が体を通り抜けたが、予想していた致命傷は免れたようだ。顔を上げると、黒い大きな背中が見えた。皆守に向けて放たれた攻撃の大部分を、阿門が受けたのだと瞬時に悟る。
「阿門!このばか!」
「出すぎるな、皆守」
「てめぇもだ!俺の前に立つな!」
「お前、そんな性格だったか?」
「俺はだいたいこんな性格だ」
「そ、そうだったのか」
「イチャイチャすんなそこ!」
葉佩が手榴弾のピンを抜きながら叫んだ。投擲と同時に走り、爆風に逆らわない位置からライフルを乱射する。八千穂がその背後に滑り込んで剛速球を打ち出し、球の行方を確認すらせずにまた走りだした。なんだあの絶妙なコンビネーション。
負けじと踏み出し、阿門を押しのけて前に出る。いつだったか、この男を守ろうと考えた事を思い出した。守られていたのは自分だと察したが、悔いるのはまだ早い。まだ彼は戦っている。それならば、できる事はある。与えられた能力はこの時の為だったのだと、真実など無視して一心に信じる。
葉佩が何事か吐き捨てた。聞き憶えのない言語だったが、恐らくは悪態だろう。銃器を投げ捨て、やけに清らかな音を立てて剣を抜き、獣のような息づかいで低く構える。つい先程、皆守は正面からその姿を見た。自分でも呆れるほど昂揚した。
軋む体を奮い立たせ、もう何度目か地を蹴る。阿門が額を押さえるのが視界の端に入ったが、いつもの事なので気にしなかった。彼はいつだって嘆いていた。本当は、誰よりも恐怖を感じていたに違いない。ほんの少しでも、一時でも、彼の心を慰められただろうか。隣に、立てただろうか。
最近はあまり呼ばなくなっていた名を呼び、返事は聞かずにただ走った。
荒吐に剣を突き立てて、抜けなくなったので手放して離脱した葉佩の背中に、知らず握り締めていた拳をぶつける。その横にいた八千穂には、拳をほどいて手の平をぶつけた。今まさにラケットを振り上げようとしていた八千穂が、嬉しそうに顔を上げて子供のように笑う。
銃弾は撃ち尽くし、愛用のナイフは先の戦闘で皆守にへし折られ、白岐に貰ったという黄金の剣は荒吐に突き刺さったまま、素手で誰かを殺した経験などない葉佩が、それでも不敵に笑った。
「なあ皆守、どうする?」
「お前はどうしたいんだ?」
「勝ちたい」
「奇遇だな、俺もだ」
応えたのは皆守ではなく、いつの間にか背後に立っていた阿門だった。普段は髪の一筋すら乱さない男は、見る影もなくボロボロだ。それなのに、頬は今まで見た事もないような笑みを浮かべている。しかしまじまじと凝視する前に、荒吐の攻撃が固まっていた4人に向かって放たれた。
阿門が雄叫びを上げた。膨大な氣を放出し、襲いくる衝撃波を相殺する。
即座に反応したのは八千穂だった。場違いに清々しい声と共に、渾身のスマッシュを弾き出す。女の顔を覆っていたガラスのような物が砕け散り、荒吐が苦悶の声を絞り出した。
次に葉佩が走った。手には折れたナイフを持っている。女の首にほとんど柄だけのナイフを突き立て、同時に両手足で抱え込んだ。耳障りな絶叫が響き渡り、荒吐が腕を上げて葉佩を振り払う。床に叩き付けられた葉佩の胸には、絶望した女の頭部が抱えられていた。
皆守が跳んだ。目障りな三つ首の一つは、もう息絶えている。中央の首の後ろには、葉佩が突き刺した黄金の剣。輝く柄が見える。白岐が隠し持っていた剣だ。悲しい思い出に囲まれて、彼女はずっとこの日を待っていた。さっきよりも低くなった荒吐の膝を踏み、更に低くなった肩に右足を乗せる。我は神だと喚き散らす口に手を引っ掛けて、上体を固定する。
振り下ろした左足が、剣の柄を捉えた。
切望の刃が、神を模した異形の首に深く突き刺さった。
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