皆守が高校一年の秋に、その男はなんの前触れもなく現れた。
教師に促されて軽く会釈をして、日に焼けた頬を笑みの形に歪める。その動作も、また容姿も声も言葉も、取り立てて記憶に残るような特徴は見られない、ごく普通の転校生の挨拶であり、ごく普通の高校生の所作だった。皆守は上げていた視線を落として目を閉じた。
空は晴天。風は夏と冬という相対する双方を含んで柔らかく皮膚の表面を流れ、コンクリートは陽射しの熱を吸収して心地好い温度を持っている。漠然とさざめく春よりも、皆守は静謐を想起させる秋の方が好きだった。
最近ではすっかり縄張りになりつつある屋上で、皆守は今日もまどろみと戯れていた。授業を受け流すのはもう諦めている。教員の言葉は難しすぎて、理解するのに多大なる苦労を要するのだ。社会的地位というものに重きを置いていない皆守は、彼らが発する言葉を理解できない。協調せよ、埋没せよと主張するその根拠すら、彼らの幼い自尊心を満足させる以上の意味を見出せなかった。物事に理由があると信じるのは、そんなにも愚かしい行為なのか。
夢の中でそんな事を考えていたら、ドアが開いて先程の転校生が縄張りに立ち入った。界面で漂っていた意識を引き上げ、たった今まで夢を見ていた目でその侵入者を見る。
「あれ、先客?」
「・・・」
「ちょっと一服してもいいかな」
「・・・」
「煙草、吸いたいんだけど」
「・・・」
「えーと、いい?煙いの嫌い?」
「好きにしろ」
視線で威圧するでもなく、敵意を突き刺すでもなく、皆守はただぼんやりとその男を見ていた。喫煙時は隣人に許可を得る、という最低限の礼儀は心得ているようだ。無神経に境界を侵さないその精神を、皆守は好ましく感じた。ここには、その程度の礼節すら知らない人間が多すぎる。喫煙者ではなく、他者が引いた線を軽んずる人間、という意味だ。
「秋って眠くなるなー」
「そうだな」
「昼寝日和だねー」
「まあ、異論はない」
「秋って気持ちいいんだねー」
「知らなかったのか」
「うん知らなかった」
と言いながら、転校生はこつんと携帯灰皿に灰を落とし、柵にもたれて目を細めた。流れてきた煙が鼻腔に触れて、苦い香りがほんの少しだけ肺を締め付ける。不用意に視線を合わせる事もなく、空に向かって放たれる声に皆守が応えなくとも、彼はきっと気にしなかっただろう。それは、皆守には孤独を恐れない行為に見えた。身を寄せ合わずとも生きてゆけるという自信、力及ばなければ死ぬのだという覚悟。群に弾かれた皆守には、そのように思えた。
転校生は眼下に広がる景色を眺めながら、旨そうに一本を灰にした。それが日本では違法の葉巻だと皆守が知るのは、もう少し先の話だ。それ以前に未成年者の喫煙が禁じられているのはさておき。
「俺さ、学校って初めてなんだ」
「へえ、珍しいな今時」
「独学で勉強はしてたんだけど」
「そりゃ偉いな」
「自分ではなかなか博識だと思ってたんだ」
「ご立派な事で」
「知らない事いっぱいあるんだなーと」
「無知の自覚が知識の入口だ」
特に深い考えがあった訳ではない。どこかでそんな言葉を聞いたような読んだような気がしたので口にしてみただけなのだが、彼は大袈裟に目を見開いて「なんて賢い子なんだろう!」と言って皆守の頭を撫でた。なんだその胡散臭い口調は。そして撫でるな。触るな。それを声ではなく表情と動作で相手に伝え、過たずその情報を受け取った転校生が手を引っ込める。そうしてからも、彼はまるで宝物を発見したように嬉しそうな顔で皆守を見ていた。
子供は嫌いだったが、その子供のような顔は心地好かった。自分にも価値があるように錯覚する。
誘われて、断る理由もなかったので立ち入ったその男の部屋で、皆守は知らなかったものを知った。それは成人指定のDVDだったり、高価な葉巻だったり、日本では違法な薬物だったり、所持するのに許可を必要とする銃器だった。皆守は狭い世界に生きている事を自覚しており、またそれでいいとも考えている。しかし彼の垣間見せる世界の広さは、とても魅力的に見えた。
かつて皆守にとって、無限に広がる世界とは恐怖の対象だった。果てがないなんて、悪夢よりも恐ろしい。いつか終わるのだと知っているから、その時を待ち続けてどうにか生きてゆけるのだ。ずっとそう思っていた。
この男が口にするだけで、円周率さえ素晴らしい奇跡のように感じられる。どこまでも行けるんだよ。彼がそう囁くだけで、眠るのが勿体無いほど心が沸き立つ。
そんなある晩、彼の部屋のベッドの上で、またしても魅力的な誘いが皆守の前に提示された。
「《墓》に入ってみない?」
そこが禁じられた場所である、という事実だけで、冒険の舞台は整う。実のところ、皆守は彼が夜間にその場所へ立ち入っている事を知っていた。それを秘す彼に心の隅で嫉妬していたのも、もう自覚している。自分には秘密などないのに、友人は隠し事をしている。それが悔しかった。闇へと誘うその言葉で皆守に湧き上がったのは、冒険への期待よりも、彼が秘密を打ち明けてくれた事への喜びだった。
約束の場所に立った皆守は、だからとても浮かれていた。そして約束の時刻、見慣れた友人の見慣れぬ格好に、口を開けて呆れ果てた。
「気合い入れすぎだろ、その格好」
「いやあ、照れるなぁ」
「褒めてない」
ポケットだらけの黒いベストに、映画でしか見た事がないような暗視ゴーグル。腰にはコンバットナイフを固定し、手榴弾がいくつも胸ポケットからはみ出している。いつか部屋で見たソーコムMk23が懐に入っている事も告げられた。分厚い皮の手袋でロープを掴む姿は、どう控えめに見ても堅気ではない。素直にそう言うと、「誰にも言うなよ」と前置きして、彼は取って置きの秘密を打ち明けてくれた。
「俺はね、《宝探し屋》なんだ」
「へえ」
「お宝探して世界を巡るんだよ、かっこいーだろ?」
「ふうん」
「つまんねぇ奴だな」
「うわすげぇ!《宝探し屋》なのかお前!かっこいいな!サインくれよ!」
「・・・お前、やる時はやるんだね」
「まあな、年に数回ぐらいはな」
「あんまり頻繁にはやらない方がいいよ」
「そうか?」
「心臓に悪いから」
「あ、別にサインはいらない」
「分かってるよ」
具体的にそれがどういう職業なのかは分からなかったが、自分の想像が及ばない世界が確かに存在する、という確信は皆守を昂揚させた。彼に出会う以前ならば、その事実は恐怖をもたらしていたに違いない。しかしこの奇妙な男が隣で笑っている限り、皆守に恐れるものなどなかった。薄闇に光る赤い瞳も、血を欲して振り下ろされる鋭い爪も、奇声を上げて苦悶する人によく似た異形も、彼がいれば怖くない。
慣れた手付きで銃器を扱い、冷めた目で碑文を解読し、手早く夜食をあたため、しきりに振り返っては皆守を気遣うその男の隣に立つ事が、いつしか皆守の誇りになった。
彼の横に立ち、同じものを見詰める自分を想像する。自分に銃は向いていないように思えたので、それ以外の武器が必要だと考えた。何があるだろう。刃物は格好いいけど、俺には似合わないな。そんな事を眠りに落ちる前に思い浮かべるのが、皆守の日課になっていた。
その夜も、彼は異形を相手に銃撃戦を繰り広げていた。2発、3発と、皆守は心の中で彼が撃ち出した弾丸を数える。戦闘中は動かないでくれ、というのが、あの男が皆守に告げた数少ない希望だ。素人に怪我でもさせたら本職の名折れ。そう言って誇らしげに笑った顔が、どうしてあんなにも心臓を圧迫したのか、皆守はもう分かっている。
8発、9発目が外れて柱を削った。背後からミイラ(仮)が近づいている。正面の蝙蝠(仮)はまだ死なない。あと3発で弾切れだ。10発、11発、ラスト。舌打ちが聞こえ、眼前に血が飛び散る。皆守の足が床を蹴ったのは、それとほぼ同時だった。
ミイラ(仮)の腕が振り下ろされるより早く、その踵を踏み抜くような勢いで靴底を叩きつける。人間に似た形だったので、どうやら過去の悪行が役に立ったようだ。人間が相手なら、皆守にも少々覚えがある。揺らいで傾いだ頭を両手で固定して、銃創の刻まれた柱にぶち込んだ。
蝙蝠(仮)を銃のグリップでぶん殴ってから、転校生が振り向いた。柱にめり込んだ異形と、その頭を押さえつけている皆守をしばし見比べる。光に返ったミイラ(仮)が完全に存在の名残を消すまで、彼は皆守を見詰めていた。凝視する視線に耐えかねて、思わず目付きを尖らせる。
「なんだよ」
「いや、お前って意外と素行わりーのな」
「他に何か言う事は?」
「助かったよありがとう」
「おう」
「つーか、お前すごいな!」
「そうか?」
「すげぇよ!最高だお前!【愛】!」
「前から気になってたんだけど、それ何?」
「気にすんな!もう高校生なんかやめて俺のバディになれよ!」
「考えておく」
「幸せにするぜ!黄土色の【愛】地獄見せてやる!」
「それは見たくない」
握手を求め、抱擁までしようとした男の腹に膝を突き刺す。銃弾の衝撃すら緩和するベストを着た男は、それでも打たれた腹を大袈裟にさすって見せた。その笑顔に、皆守は自分がもう戻れない場所まで来てしまった事を悟った。だが、恐怖も後悔も感じない。孤独と虚無の世界に、道とそれを照らす光が現れたのだ。次に抱擁を求められても、膝蹴りはやめておこう。そのぐらい、嬉しかった。
皆守はまだ知らなかった。彼が旅人である、という事実を。
冬が近付く気配に、皆守の動きが鈍くなった。ポケットから手を出す事が減り、隙あらば日向に向かおうとする。夜遊びの副産物として発生する昼間の眠気が、それに拍車をかけた。学業を疎かにするその態度は、學園内での皆守の立場を悪くする。自分が孤立している事に、皆守は気づいていた。それでも構わない。俺にはあいつがいる。あいつがいる限り、俺は何も怖くない。それが危うい強さである事を、皆守はまだ知らなかった。
一方その転校生は、進むにつれて難解さを増す遺跡で頭が一杯だった。そもそも、この學園での彼の最優先事項は遺跡の調査だ。期せずして友人を得たのは純粋に嬉しかったが、それがやがて終わる事を知っていた。冗談半分で皆守を《宝探し屋》に誘ったりもしたが、本気で彼がその気になるとは考えていなかった。皆守と笑い合うのが楽しくて言う機会を逸してしまったが、粗方の調査を終えた今、彼には帰還命令が下されている。
この場所は、想像以上に深い闇を内包している。その事実を報告した結果、遺跡の本格的な探索は延期された。先発として派遣された自分の立場を、彼は過たず理解している。ただ、皆守の心は理解していなかった。ずっと一人で生きてきたのだ。誰かと共にある自分を、彼は信じていない。
いつものように、皆守はその部屋のドアをノックした。返事はなかったがドアを開け、足を止め、目を見開いて絶句した。
「あ、皆守、丁度良かったそこ押さえて」
「え、あ、これか?」
「うん、そんな感じ」
言われるままに指し示された段ボール箱を押さえつけ、開こうとする口にガムテープが封をするのを、訳も分からず見守った。一仕事を終えたような顔で、転校生が額の汗を拭う。閉じられた段ボール箱がゴトリと不穏な音を立てて震動したのは意識の外に追い遣り、皆守はその時になってようやく部屋の中を見渡した。所狭しと並んでいた銃器や食材(?)や黒板消しやその他の用途不明の物体は、ある物は箱に入れられ、ある物は『不燃』と記された袋に、または『可燃』と記された袋に入れられている。
荷造り、のように見える。その意味に思い当たり、皆守は自分が彼の正体を本当には理解していなかったのだと思い知った。隣に立つ男の顔を見る。無言で睨んでくる皆守に、首を傾げて疑問を返した。
湧き上がった予感に、必死で否定を被せる。まだだ。まだ、決まった訳じゃない。これは、たぶん掃除だ。部屋の大掃除。だとしても絶望的だけどな。むしろそっちの方が絶望的だな。掃除しようとしてこのザマかよ。うん、やっぱこいつは俺がいないと駄目なんだな。俺が必要なんだ。そのぐらい、こいつだって分かってる。そうだよな?
声にはならなかった言葉は、一欠片も伝わらなかった。
「あのね、皆守」
「なんだよ」
「今まで、ありがとう」
二度と会う事はないのだろうと、随分と時間が経ってから思い当たった。
そして三年の秋。
皆守は、もう一度《転校生》に出会う。
それは決して幸福な出会いではなかった。
ただ、皆守は出会った。まるで再会のように。
彼は空に似ていた。
|