マミーズからの帰り道で、もう星が出ていた。あれがオリオン座、と言って空を指差しても、彼は見向きもしない。それが寂しくて、でもそんな事は口に出せなくて、葉佩はいつもひとりで星を見上げていた。
 寮に戻って、また明日、と言いたくても言えない(葉佩は明日が来る事を信じていない)ので「じゃあね」とかなんとか言って、背を向けてドアを開ける。ふと、彼の背中が遠ざかってゆくのを見ようと思った。音を立てぬよう、そっと振り返る。
 どうして彼も同じタイミングで振り返ったのか、葉佩には分らない。

 彼は重たそうな瞼を少しだけ持ち上げて、小さく息を吸った。驚いたのだろうと、しばらくしてから気が付いた。
 何も言わずに目を逸らし、ドアを開けて部屋に入る。
 根拠はないが、葉佩は確信していた。彼は、いつもそうして振り向いていたのだ。葉佩が背を向けてドアを開けて、部屋に入って後ろ手でドアを閉めるまで、何も言わずにじっとその背中を見つめていたのだ。
 耳を澄ましても、遠ざかる足音は聞こえない。立ち去る気配すら感じられない。それでも、このドアを開けても、彼はもういないのだと葉佩には分かった。彼は、とても静かに歩く。気配もなく背後に立つ。ぞっとするほどさり気なく、彼は自分の存在を消すのだ。

 まずゴーグル、次にグローブとベストを脱いで、ベッドに突っ伏した。
 今夜は眠れそうにないと、忌々しく舌を打つ。たったこれだけの事で、なんというありさまだ。嘆かわしい。悔しい。それなのに、どうしてこの心臓はこんなにも嬉しそうに跳ねているのだろう。まったくもって理不尽だ。心臓が一生に脈打つ回数は決まっているのだ。こんなところで無駄遣いはしたくないのに。

 午前4時3分27秒。
 葉佩は閉じていた目を開けた。窓から星が見える。西に傾いたシリウスが青白くまたたいている。横たえていた身を起こし、ベッドから抜け出した。窓を開けて、夜気を吸い込む。尖った冬の空気が肺を満たすのを感じて、少しだけ自分を取り戻したような気分になった。本当は、もうとっくに自分など失っているのに。もしかしたら、最初から自分など存在しなかったのかも知れないのに。

 壁の突起をうまく渡り、部屋から部屋へと移動するのは、実はこれが初めてではない。寝静まった学生寮は、未踏の遺跡に少しだけ似ている、ような気がする。どこが、と具体的に説明するのは難しいが。

 目的の窓の前で立ち止まり、カーテンの向こうに目を凝らす。目を凝らしたところで見えないのは分かっているが、それでも目を凝らす。無駄な事だと思うのだが、葉佩は無駄が嫌いではない。人間は、必要な事だけでは満足しないようにできているのだ。

 工具を取り出すのはやめて、窓を叩いてみた。素早く3回、間をあけて5回。カーテンの向こうで、身じろぐ気配がした。葉佩の心臓が音を立てる。嬉しそうに跳ねまわる。
 小さな声で、呼んでみた。苛立ちを含んだ動作で、おそらくは毛布であろう物体が床に落ちるのを察した。見えないのに、分かるのが嬉しかった。
 カーテンはまだ開かない。彼が内側から開けてくれなければ、開かないのだから仕方ない。もう一度、ひそめた声で呼ぶ。
 彼が身を起こして、さも億劫そうに息を吐いて、ドアを開けて、そっと閉める。足音を立てずに廊下を歩く彼を想像して、なんだか怪談のようだと思った。この学園の9つの怪談は、きっとこのような想像力から生まれたのだろう。

 しばらくして、眼下に彼が見えた。赤い火が見える。甘い香りもする。着地など考えもせず、葉佩は地面に飛び降りた。着地について考えなかったのは、考えるまでもなかったからだ。難なく着地して、あきれ顔の彼を見上げる。

「こんばんは」
「寝ろ」
「お前こそ」
「俺はいいんだ」
「なんで」
「どうせ眠れない」
「子守唄うたってやろうか」
「それより添い寝を頼みたい」
「俺は騙されねぇぞ!」
「うるさい」
「ごめんなさい」

 目も合わせないのは、その必要がないからだろうか。ゆるりと夢遊病者のように歩き出した彼の背中を追いながら、そんな事を考える。ならば、目を合わせる必要性とはなんだろう。注視する、警戒する、その他には、どのような意味を考え得るだろう。

 そうこうしていると、彼の足がやがて墓土を踏んだ。
 ふわりと柔らかい土は、秋に落ちた葉の成れの果てだ。そうして、落ち葉は養分になり、その養分が幹や枝を作り、葉になるのだろう。土になりかけの落ち葉など決して美しいものではないが、その循環は美しいような気がする。不思議なものだ。

「なんで?」
「そうだな、サフランがなかったからじゃないか?」
「お前、なんで俺が好きなの?」
「それは誤解だ」
「そうかぁ?」
「俺は誰も嫌ってない」
「嫌ってないと好きは違うだろ」
「似たようなもんじゃないか?」
「まったく違うよ。石鹸とオクラぐらい違うよ」
「どっちもヌルヌルしてるな」
「あ、ほんとだ、じゃあ、ええと」
「お前の事は嫌いじゃない」
「愛してるんだろ分かってるぜ心配すんな!」
「心配しかできない」
「そんなに心配すんなよ、俺はだいじょぶだから!」
「いや、たぶんもう手遅れだ」
「心配性だなぁ!」

 彼は黙って首を横に振った。どうしても伝わらないのだと、諦めるような表情だった。
 彼がそうやって諦めるような表情をすると、葉佩はなぜだか無性に悲しくなる。どうか絶望しないでくれと、ひとりで行かないでくれと、待っていてくれと、叫びたいような気持になる。でも叫ぶとまた狂人を見るような目で見られるので、心だけで叫んでおいた。どうか諦めないで、と。

「おい、なんで泣きそうになってんだ」
「泣きたいからだよ」
「泣けばいいだろ」
「ありがとう!」

 きちんと礼を言って胸を借りようとしたら、靴底で鼻柱を強打された。とどめのように鋭い舌打ちをされて、物理的な痛みではない理由で涙が出そうになった。彼は理不尽だ。

「理不尽だ!」
「この世は理不尽なんだ」
「そ、そうだったのかー!」
「知らなかったのか?」
「いや、知ってたけど」
「今更だろ?」
「そうだけど」
「泣くな」
「泣いてない」
「そうか」

 本当は泣いていたのだが、そして彼もそれを察していたのだろうが、彼は頷いてパイプを口に運んだ。甘い香りが鼻腔を満たす。まるで空洞が満たされたような気持ちになって、嬉しいのにまた泣きたくなった。
 そんな複雑な心境を言葉にする術を葉佩は持っていなかったので、せめてと笑って彼を見上げた。彼は葉佩を見ていなかった。

「あのさ」
「あれか?」
「何が?」
「オリオン座」
「ん、あれは獅子座、レグルス」
「そうか」
「オリオン座は、あっち」
「分からん」
「ほら、3つ並んでる、あそこ」
「見えない」
「ええと、アルデバランからこっちに」
「あ、くそ、アロマが切れた」

 そう言って、彼はさっさときびすを返した。
 星の位置を説明するのは難しい。そもそも葉佩にとって、説明する事それ自体が難しいのだ。自分が納得できれば、それでよかったから。誰にも知られず、ひとりで空を眺めているだけでよかったから。
 背を向けて歩き出した彼が、独り言のようにつぶやく。

「獅子座って冬でも見えんのか」
「見えるよ、時間にもよるけど」
「ふうん」
「もうすぐ夜明けだからね」
「夜明けだと、どうなるんだ?」
「星が、回って、ええと、位置が変わる」
「星ってみんな回転してんのか?」
「そうだね、自転と公転は、星なら全部してるよ」
「動いてるのか?」
「そうだよ」
「だから見えなくなるのか」
「まあ、地球が動いてるからってのもあるけど」
「地球も星なんだな」

 葉佩にとっては当たり前すぎて口に出す必要もない事を、彼はまるで初めて知ったかのように言った。星は動く。地球も星だ。地球が回れば見える星も変わる。そんな事を、彼はゆっくりと声にした。誰もいない墓地にその声が落ちて、響かずにそっと消えてゆく。
 葉佩は、今が冬である事に感謝した。朝はまだ来ない。まだ、星を見上げていられる。

 ゆらゆらと歩く彼の後ろ姿をぼんやりと見ながら、根拠はないが、葉佩は確信していた。彼はきっと、可哀相なほどに葉佩の言葉を憶えている。オリオン座の位置も、アルデバランも、獅子座のレグルスも、彼はきっと忘れないだろう。せめて、と、忘れずにいるのだろう。
 もうすぐ、葉佩はいなくなる。彼をおいて行ってしまう。

 葉佩はどうしようもなく泣きたくなった。
 夕暮れのささやかな星の話を、夜明け前の星空を、彼はいつまでも大切に憶えているのだろう。いつまでも、葉佩がいなくなっても、憶えた星を探して夜空を見上げるのだろう。
 星が人間よりも永く存在している事が、せめてもの救いだなんて、そんなのひどすぎる。