昼休みが終わる5分前、ただいま、と言いながら葉佩が日課の校内探索から戻ってきた。おかえり、とそれに返す八千穂の声を聞きながら、皆守が突っ伏していた机から顔を上げる。期せずして葉佩と目が合ってしまった。ほぼ無意識に渋面を作って見せると、葉佩はやはり笑って「ただいま」と言った。
「ここはお前の家か」
「おかえりって言えよ」
その歪んだ哀切を、皆守は理解しないではなかった。軽薄な雑談を装った葉佩のその言葉は、彼の奥深くから湧き上がった切なる願いなのではないか、とも想像した。
彼が一体どんな心持で、そんな紛い物だと分かりきっている言葉を欲しているのかは、皆守には判じかねた。贋物の空虚な響きを聞いて、彼は果たして満足するのだろうか。問うまでもない。否だ。むしろ飢渇は酷くなるのではないか。
誰がそのような暗く淀んだ欲求に付き合ってなどやるものか。視線を逸らしてアロマを銜えると、落胆したような声で「つまんねぇ奴」と聞こえた。その言葉に、皆守が心底から安堵する。面白い奴だと認識されたら、どのような奇行に巻き込まれるか分かったものではない。
始業の鐘に促され、皆守はいつものように目を閉じて再び机に突っ伏した。
皆守が世界との繋がりを取り戻すと、教室には誰もいなかった。これは願望が見せる夢だろうかと考えながら辺りを見回し、アロマに火を点け、暫しぼんやりと天井を見詰め、そういえばこの時間は理科室で授業が行われるのだと思い出す。普段ならお節介焼きの友人が文字どおり叩き起こして引っ張ってくれやがるのだが、今日に限ってその痕跡は記憶の片隅にも存在しない。
欠伸をして固まっていた体を伸ばし、窓の外が陽射しに満ちている事を確認する。そうしてから、皆守は寝床を変えようと椅子から立ち上がって歩き出した。
屋上のドアを開けると、予想していたとおりの人物が座っていた。期待していたのかも知れない。そんな可能性が意識の表層に浮かんだが、気付かなかった事にして舌を打つ。
葉佩が、笑いながら振り向いた。
「声はかけたんだよ」
「他の物をかけられなかっただけマシだな」
「ばか!そんな!ぶっかけとか!俺がする訳ねぇだろ!」
「八千穂は?」
「俺が寝かせてあげなよーって言ったら『永眠するが良い!』って言ってた」
「八千穂はそんなこと言わない」
「まあ、ちょっと意訳したけど」
どうやらこの場所へは、葉佩に誘い出されたらしい。それを認めるのは苦痛ではなかった。葉佩が予想し、また期待していたとおりの行動をとってしまった後悔も、どこか満足気に笑う彼の顔を見たら忘れてしまう。支配されているなどとは思わない。皆守は自分の意思で選択してこの場所へ来たのだから。奇跡のような確率で符合した願望の意味など、考えるのも面倒臭い。
日が傾き、風が冷たくなってきた。世界はそろそろ放課後だ。黄昏が近付き、皆守の意識が僅かに覚醒する。薄目を開けると、無表情でH.A.N.Tを見詰めている葉佩が見えた。誰も見ていない時は、彼は如何なる表情を浮かべる事もないのだろう。ぼんやりと考え、何故だか裏切られたような気持ちになった。
皆守が見ている葉佩は、ただ「葉佩」と名乗って《宝探し屋》という生き物を演じているに過ぎない。彼が一人で《墓》に潜る時、どのような表情でどのように振舞うかなど、皆守には確かめる術もないのだ。
皆守の視線に気付いたのか、或いは定期的に皆守の様子を窺っていたのか、葉佩が顔を上げて皆守を見た。「おはよう」と笑い、H.A.N.Tを閉じる。
「そろそろ帰るか。ほんとお前、学校に何しに来てんの」
「どこに帰るって?」
「はい?」
「お前に帰る所なんてないんだろ?」
不機嫌だったのは事実だ。何故だかは自分でも分からなかったが、腹の辺りに正体不明の塊がわだかまっているのを感じる。葉佩の気持ち悪い薄ら笑いがそれに拍車をかけたはどうにか理解したが、ただその時、皆守は彼の表情が見たかった。泣き顔でも、激怒した顔でもいい。だが期待に反して、葉佩はいつものように笑った。
「うん、でも寝るとこはあるよ」
だから問題なし。そう言って立ち上がった葉佩は、皆守が望むものではなかった。では何を望んでいたのかという自問を、慌てて芳香で覆い隠す。奇妙に熱い不快感だけが、下腹に溜まってゆく。踵でも落してみようかと一瞬だけ考えたが、硬い場所で寝転んでいた為に背中が痛かったのでやめておいた。
校舎を出る所で、葉佩は姿を消した。確かに数秒前までは隣を歩いていたのに、ふと振り向いたら消えていたのだ。何か興味を引くような物でも発見したのだろうか。深くは考えず、皆守はいつものように寮の自室に戻り、いつものようにベッドに身を預けようとしてから、風呂に入ろうと思い立った。暫し葛藤し、指先が冷えている事に気付く。温めなければ、きっと眠るのに苦労するに違いない。眠れなかったら睡眠不足になる(昼寝はノーカウント)。それは嫌だ。
あらゆる辛苦を背負わされたような顔で深く溜息を吐き、皆守は戦場で家族を想う兵士のような足取りで浴場に向かった。俺の帰りを待つベッド、どうか記憶にある姿のままで俺を迎えてくれ。必ず帰るからな。
脳内劇場がクライマックスに差し掛かったところで、取手の怯えたような視線に気付いた。
「なんだその目は」
「え、いや、ええと、何か見えるのかい?」
「視力はいい方だと思うが」
「あ、ああ、そうなんだ」
どうやら彼は、虚空の一点を凝視したまま微動だにしない皆守を案じていたらしい。我に返って湯船から上がり、まだ不安げに見ている取手の視線から逃れるように脱衣所に向かう。だが、体を拭いて服を着て、廊下に出た頃にはそんな友人の気遣いも忘れていた。
湿った髪のままで廊下を歩いていると、視界を黒い影が横切った。皆守は自分の視力を疑うよりも、その影の主である人物の良識を疑った。つまり、葉佩がフル装備で廊下を歩いていた。彼はもう少しだけ、いろいろな物事を隠した方がいいと思う。職業も、思考も趣向も願望も、その他のあらゆる情報も、せめてもうあと僅かだけでも。
皆守がその名を呼ぶ前に、背後にいた取手が「葉佩君」と叫ぶような声音で言った。
「あ、取手!ただいま」
「え、あ、うん、おかえり」
「ちょっと忘れ物しちゃってさ」
「あ、そうなんだ」
「そろそろ人いなくなる頃かなって思って」
「だ、駄目だよ!まだぞろぞろいるよ!」
「みたいだね」
「隠れないと、ええと、その、隠れなくって、いいのかい?」
風呂上りの級友が、追い越し様に「おお!かっこいいなその服!」と言って葉佩の肩を叩いた。そういえば、執行委員にも似たような服装の男がいる。この《學園》に於いては、あからさまに堅気ではないと喧伝するような服装もそれほど気にする必要はないのかも知れない。
見たい番組でもあるのだろう級友は、そのまま急ぎ足で去って行った。葉佩がそれを見送り、まるで漸く皆守の存在に気付いたように視線を向ける。
「ただいま」
「その格好で話しかけるな。俺まで同類だと思われる」
「え、皆守って変態じゃねぇの?」
「お前とは種類が違うんだ」
変態は否定しなかった!と取手が心で戦いてた事など知る由もなく、皆守が至って平静に葉佩を窓から蹴り出す。何事もなかったように再び廊下を踏む作業に戻った皆守を、取手が呆然と見ていた。種類は違うが、確かに皆守もどこかおかしい。彼が心中でそんな確信を浮かべていた事など、皆守は知る由もないし、知る気もない。
ベッドは変わらず温かく皆守を迎えてくれた。些細な喜びを睡魔に溶かし、柔らかく身を包む毛布に全てを預ける。安らげるのはここだけだ。夢に入ってしまったら、そこはもう安息の地ではない。
赤い悪夢に触れぬよう、皆守は浅い微睡みに意識を浸した。
記憶が形作る夢に意識を引かれる前に、皆守は目を開ける事に成功した。『アイテムを入手しました』と、無機質な声が告げる。この気配が夢から救い出してくれたのか。毛布にくるまったまま、物色を続ける背中に視線を向けた。謝意と憎悪を込めて、まるで皆守の覚醒に気付いていないように振舞う葉佩を見る。葉佩はクロゼットを開き、抽斗を開き、一通りの物色を終えると今度は本棚を注視した。
不意に、溜息とともに葉佩が囁いた。それは聞かせる声音ではなく、独り言だと主張するように密やかな声だった。
「エロ本の一冊もないって、男としてどうなの」
「そういう物は普通は隠すもんだ」
「どこに隠してんだよ」
「それをお前に教えてやる理由はない」
時計を確認すると、時刻は深夜を過ぎていた。だが夜明けには遠い。最も暗く、深い時間だ。こんな時間に大声を出すのは、よほど切羽詰った危機に瀕している人間か、或いは狂人だけだろう。皆守も葉佩も、そのような種類の狂人ではなかった。
ひそめた声で、葉佩が笑った。
「ただいま」
知らない言語を聞いたような気持ちで、皆守が何も言わずに葉佩を見返す。
彼はノマドでありたいと欲し、そうなったのだと思っていた。ホームを必要とせず、独立した存在として生き続ける事を彼自身が望んだのだと。或いは、それもまた一つの真実であったのかも知れない。所属する事を拒み、定住する事を拒んだ。それは確かに彼の意思なのだろう。
だが、と、皆守は思う。こんな事など考えたくはないのに、思考は自動的に記憶と仮説を組み立てる。
泣き叫びながら欲して、追いかけて、それでも得られなくて、諦めてしまったのではないか。本当は千切れるほど願っていたのに、どれだけ手を伸ばしても得られないと知り、悔しくて泣きながらも「それならもういらない」と、膝を折ってしまったのでは。
葉佩が、皆守を見て泣き出す寸前のような顔をした。
「おかえりって言ってよ」
「ここはお前の家じゃない」
冷然と告げられた事実に、闇に心を捧げた《宝探し屋》が憎しみすら込めて皆守を睨んだ。ささやかな遊びにすら付き合ってくれないなんて、酷い人だ。心など欲していないのに。寝惚けて発するような空言でいいと、こんなにも主張しているのに。確かに聞こえた無音の非難を、皆守はしかし聞かなかった事にする。
そうして、皆守は益体もない夢を見る。現実の前には全く無力で、ささやかすぎて笑ってしまうほど小さな夢を。
いつか旅を終えた彼に、言ってやりたい。
そもそも彼が旅を終える事など在り得ないのだから、そんな夢想が実現しないのは分かっている。
恐らくはその人生に於いて一度たりとも聞かなかったであろう、本物の響き。
たった一つの有り触れた言葉を、この名もない男に。
「おかえり」
「ただいま」
|